前編
オレンジ色の間接照明が照らし出す、薄暗い殺風景な部屋。この部屋の住人は、快適な住空間と言う言葉には全く興味が無い様だ。
佐和は見慣れた筈のその部屋に、今日は言いようのない寂しさを感じていた。
「ミナちゃん、どうしたの?」
隣に座っている男、湯木谷はそんな佐和の様子に気が付いたようだ。
「何か、あった?」
佐和は、ふ…と寂しげな笑みを漏らす。
「ううん、何でも無いよ。今日は、ちょっと疲れたのかな?」
左手でロックグラスを摘むように持ち上げ、手の甲を頬に当てて湯木谷へ顔を向ける。
カラン…グラスの中で、荒く砕かれた氷が音を立てた。
カラン…。
涼しげで、それでいて乾いたその音は、まるで今の佐和の心の中のようだった。
湯木谷は、そうか、と小さく呟いて、家に居る時は常にかけ流しているテレビ画面に視線を戻した。
そうなんだよ…。佐和は心の中で呟いて、湯木谷と同じ様にテレビ画面に視線を戻した。
二人が関係を持つようになったのは、ほんの偶然だった。
佐和が学生の頃からバイトをしていたクラブに、湯木谷が同僚と連れ立って訪れたのだ。最初の印象は、寂しげで何だかとても疲れた人だな…というものだった。
席に着いても湯木谷は第一印象通り、口数は少なく、笑うときも静かに口元だけをふ…と緩ませる程度。
この時、佐和はこの人は、何が楽しくて生きているんだろう?と、何故だか酷く興味を持ったことを覚えている。
だからなのか、普段はあんまり自分からはしないのだが…自分の名刺の裏に携帯のアドレスと番号を書いて渡した。
自分では結構、勇気を出したつもりだったのだが、湯木谷は興味なさそうに、佐和からそれを受け取ってチラリと一瞥すると、そのままスーツの内ポケットにねじ込んだ。
佐和はその時、ああ、コレは連絡無いな、と少し落胆したのを覚えている。
しかし数日後、事態は思いも寄らない形で急転した。バイト用の携帯に湯木谷からメールが届いたのだ。
『今晩、食事でも如何ですか?』
短い文面。
それでも、佐和には酷く心が浮き立つ思いだった。
佐和のクラブのバイトは主に金・土の二日間。その他、ママから人が足りないと言われた日に入るといった不定期なもの。昼間は堅実にOLなんかをやっている。
その日は、昼間の仕事の後は完全にOFFの日だった。
佐和は急いで了承の旨をメールで返す。すると思いの外、湯木谷からの返信は早かった。
『では、銀座の交番前に七時に』
佐和は思わず吹き出した。どうせ銀座で待ち合わせなら、どこかのデパート前とか、喫茶店とか幾らでも選びようがあると言うものだ。なのに、湯木谷は、交番前を指定した。
きっと、湯木谷はあの難しそうに寄せた眉を更に寄せ、一生懸命考えたのだろう。そう思うと佐和は、湯木谷に好意的な感情が生まれつつあるのを感じた。
なんて、可愛い人だろう。
佐和は待ち合わせの時間に合わせ、時間をかけて化粧を直し、しっかりと身支度を整えて電車に乗った。
昼間の仕事場は丸の内だから、心の準備が整うより先に待ち合わせ場所に着いてしまう。
無意識に数回深呼吸をして、地下鉄の階段をドキドキしながら、ゆっくり踏みしめる様に上がった。腕に回したブレスレット型の時計の針は、待ち合わせた時間の十分前を指している。
佐和は湯木谷がまだ来ていないだろう、勝手に思い込んでいた。でも、心の中にチラリともしかしたら…と過ぎり、そっと交番前を覗いてみる。
そして直ぐに、佐和はくすっと笑いを漏らした。
何故なら佐和の予想を裏切り、湯木谷は既にそこに立っていたからだ。少し猫背に背中を丸め、所在無げにぼんやりと数寄屋橋交差点の車の行き来を眺めている。一目でそうだと分かる、くたびれたスーツは、長身痩躯の湯木谷の体にぴったりと馴染んでいた。
「湯木谷さん、早いんですね。待ちましたか?」
佐和は小走りに湯木谷の下へ近付き、声を掛けた。湯木谷は佐和の姿を認めると、おっとりとバツが悪そうに微笑んだ。
「ええ…あ、いえ。ただ、何だか銀座って来慣れないせいか…どうにも私はちょっと浮いてる感じがして…」
「いやだ、大丈夫ですよ!湯木谷さんっ!変な事言わないでくださいよぉ。そんな事言ったら、よっぽど私の方が浮いてますって!」
佐和はケラケラと口元を隠しながら笑った。湯木谷もそんな佐和を見て、困ったように眉毛を下げて微笑む。
その後、二人は湯木谷が友人に教わったと言うレストランに行き、食事をした。料理の内容がどうだとか、こうだとか、そんな事を綺麗さっぱり忘れてしまう程、佐和にとって湯木谷との時間は楽しく、素敵なものだった。また、湯木谷にとっても、佐和の屈託無さは新鮮で、刺激的だった。
それからの二人は、頻繁に連絡を取っては食事をしたり飲みに出かけ、逢えば逢う程、お互いの距離は縮まり…深い中になるまでにはそう時間が掛からなかった。
しかし、二人の関係が深まれば深まるほど、徐々に佐和は一種の閉塞感に陥っていた。
決して、職業を聞かない、本名を聞かない。互いのプライバシーに立ち入らない。
いつの間にか、暗黙の了解で二人は互いに一本線を引いていた。
佐和は湯木谷に惹かれれば惹かれるほど、いつ湯木谷が自分の元を去っていくのか…。それだけが、夢にうなされるほど怖くなった。
だからこそ、このまま互いを知らないままならば、きっと別れをいつ切り出されても忘れられると思っていた。
大丈夫。
お互いを知ってしまえば、それだけ後で必ず苦しくなる…。
無性に泣きたくなった。
今は逢っている時ですら、その想いがどこか心の片隅に居座っている。
湯木谷は優しい。でも、本当はどうなんだろう?
既に二人が知り合ってから二年が過ぎ、三年目に入ろうとしている。その時間の経過は、濃密だった時の薄れを予感させるには十分の長さだった。
佐和は湯木谷を失いたくないと思う反面『この関係』が近い将来失われる事を感じていた。 だからこそ、二人で居ても寂しさだけが募った。
佐和は急に湯木谷の傍に居る事が辛くなり、席を立ち上がる。
「どうしたの?」
「…え?あ、氷が無くなったから」
無理に笑顔を作る。上手く出来ただろうか?佐和はそんな事を思いながら、勝手を知っている台所へさっさと足を向けた。
胸がチクリと痛む。どうして、こんなになってしまったのだろう?
分かっていた筈なのに、いつかそうなる事ぐらい、分かっていて今の関係を続けていたのに…。まるで、頭と心が別々の体を持っている様だ。
冷凍庫から買ってきた氷を取り出して、アイスペールへ入れ替える。
カラン、カララン…。
ぼんやりしていた所為で、大小の不揃いな氷が積み重なって一杯になり、大きな塊が一つ、転がり出す。
「あ…」
いけない、咄嗟に佐和は氷を掴もうと手を伸ばした。その冷たい塊は掴もうとすればする程、つるりと手の中から滑り出して行く。
「どうしたの?」
「きゃっ…」
ふいに湯木谷がひょっこりと台所を覗き込んだ。それに驚いた佐和は、ようやく掴んだ氷をシンクの中に落としてしまう。
「なに?氷と鬼ごっこ?」
「ち、違うよ!」
変に誤魔化そうとする自分に焦った。別に隠す事なんて無いのに…。
佐和は氷の雫で濡れた右手を近くにあったタオルで乱暴に拭った。湯木谷はそんな佐和を見て、表情を和らげてやんわりと微笑んだ。
「駄目だよ、そんなに乱暴に拭いちゃ…」
そう言うと、女性独特の小さな佐和の手を自分の大きな手で包み込む。
「すっかり冷たくなっちゃったね」
湯木谷はそのまま、佐和の手を屈み込んだ自分の頬にあてがい、ひんやりと冷たくなった掌へ唇を寄せる。
佐和は途端にかあっと耳まで赤くなる。掌に感じる湯木谷の温もり、唇、少し伸びたざらっとした髭の感触…。心臓がドキドキして息が苦しい。
「ミナちゃん…」
佐和は引き寄せられるままに、湯木谷の胸の中で抱き締められる。また涙が出そうになって、佐和はギュッと強く瞼を閉じた。
嬉しい。
でも……それ以上に今は胸が苦しい。
湯木谷が佐和の頬へ掌をあてがい、上を向かせる。額、瞼、頬…次々と優しいキスが降り注ぐ。
「湯木谷さ…」
今日はそんな気分になれない、そう言い掛けた佐和を湯木谷は強引に唇を塞いで黙らせた。 逃げ出そうにも、そのひょろりとした印象とは違い、意外に湯木谷の力は強い。深く、長い、絡め取られるようなキス。いつしか、佐和は抵抗を止めていた。
「んっ…」
そっと静かに唇が離れて行く。それと同時に、ぎゅっと強く抱き締められた。
長い沈黙が二人を包み、次に口を開いたのは湯木谷が先だった。
「…ミナちゃんは、俺たちの関係をどう思ってる?」
佐和はドキリとした。熱くなった頬が、一気に冷えていく。
「湯木谷さん、は…?」
逆に佐和は問いかけた。少し意地悪い気もしたが、自分が答えるより先にどうしても聞きたかった。
心の整理をつける時間が、ほんの少しだけ欲しかった。
湯木谷は口を真一文字に引き結んで、困ったように少し考えてから言葉を出した。
「そう…だな、なんて言えばいいのかな。俺は、男だから…」
佐和はその湯木谷の言葉を聞いて、ああ…、と心の中にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。
佐和は必死に涙を堪え、震えそうになる口元を無理矢理微笑みの形にして答えた。
「そうね…私も、女だから……」
これで終わりにしよう。
湯木谷は優しい。だからハッキリと私に言えないのかもしれない。
きっと私は去って行かれる寂しさには、耐えられない。それは…余りにも苦しすぎる。
ならば、ここで、自分から、引き返そう…。
佐和はそう心の中で決意した。
湯木谷の肌の温もり、匂い、眼差し、全てが今でも愛しい。
これが最後。
その言葉を何度も心の中で繰り返し、湯木谷の全てを忘れないように、しっかりと心に刻み付ける。
間接照明の薄暗い部屋。
湯木谷は隣で静かに寝息を立てている。佐和はその穏やかな寝顔を暫く無言で見詰め、そっと手を伸ばし、湯木谷の少し伸びた髪を指先に絡める。
少しクセのある柔らかな髪質。いつも目が覚めると、くしゃくしゃに跳ね回り、直すのに苦戦していた。
「こんな寝方してると、また酷い寝癖が付くよ……」
湯木谷を起こさない様にとても小さな声で呟き、佐和は少し体を起こすと、今度は湯木谷の耳元に口を寄せる。
「…さようなら」
掛かった息がくすぐったかったのか、湯木谷が小さく唸り、寝返りを打った。
それを見て、悲しそうに佐和はくすりと笑い、後ろ髪を引かれながらも湯木谷を起こさぬよう静かにベッドを後にする。
手早く身支度を整え、鞄の中から湯木谷との唯一の繋がりである携帯を取り出した。
始めはメモリーを消そうと思ったが、手を止めて一瞬考え込んだ。そして、佐和の目に飛び込んできたのは、飲みかけのロックグラス。
美しい琥珀色だった飲み物は、溶けかけの氷によってその色を失いつつあった。何故かそれが、ふと今の自分の姿に重なり、佐和はグラスの中に携帯を入れる。
グラスの中の氷が、湯木谷との全ての思い出を薄めてくれる事を願いながら…。