空はこんなにも
『――翼がほしいか――?』
頭の中で、声が響いた。
天使が奏でるハープの音色を連想させるほどに透き通った声。しかしその口調は、むしろ俺の胸中の方を余さず見透かしているようだった。
――ずっと、空を自由に飛び回りたいと思っていた。
窮屈な人の海を無様にもがく日々の中で仰いだ蒼天の、なんと壮大で美しいことか。
否応なしに他者と関わらなければいけない世界には、いい加減疲れていた。空の住人にさえなれば、俺の全身を縛る“人間関係”という重い鉄鎖は千切れる。誰かに後ろ指を差されようと、小石を投げつけられようと、遥か上空には届かない。
だから。
不思議な声の正体なんて、今の自分には興味などなくて。
ただこの背中に、自由に羽ばたける流麗な双翼がほしい一心で。
「世界のすべてを捨ててでも」
堂々と答えた。
『――ならば、授けよう――』
脳に直接響いていた声が次第に遠ざかるような、妙な感覚。
視界に映る世界の色がぼやけ、そもそも自分が先刻まで見ていた世界の色彩すら、記憶からぽろぽろと抜け落ち……
視界が、暗転する。
〈空はこんなにも〉
無意識に上半身を起こした。まるで地上から逃げ出すように。
「夢……?」
ぼんやりとして覚醒しない頭を押さえながら呟く。
『――翼がほしいか――?』
『――ならば、授けよう――』
現実味のない……けれど、すこぶる希望に満ちた夢だった。ゆえに目が覚めた瞬間の落胆も大きい。
秋晴れの朝陽がカーテンの隙間から差し込む自分の部屋を目の当たりにしても、まだ翼への未練を捨てきれず、つい室内を見回してしまう。実在するはずもない羽を探して。俺はそれだけ自由を渇望していた。
すると不意に、部屋の片隅に見慣れぬ物体が置かれているのに気づく。
洗練された緩やかな曲線を描くフォルムに、神秘性すら滲ませる漆黒の革で覆われた表面。僅かな光を反射して鈍い光沢を放っているそれは――
「ランドセル……」
刹那、俺は確信する。
これこそ夢で聞いた不思議な声が、俺に授けてくれた翼だと。根拠などないが、俺の胸中は自信に溢れていた。それだけこのランドセルには、人心を惑わす魅力を備えていた。
震える手で黒革の表面に触れると、ほのかな温もりを感じた。人肌の感覚にも似た、しかし世界のどこを探しても見つからない確かな熱。
――眠っている間に、妖精なんかが運んできてくれたのだろうか……そんな柄でもない妄想までしてしまう。
言わばこのランドセルは“妖精の翼”か。
興奮が収まらない。心臓の鼓動が速い。すぐにでも大空の下、踊り出したい気分だ。
――そして俺は、本能に従った。
着替えもせずにそのランドセルを背負い、玄関へと一直線。足先に靴を引っかけ、蹴るように扉を開ける。
そして俺は高揚した気分に導かれ、外界への一歩を踏み出した。
眼前に広がる世界は、昨日までとまるで違って見えた。あらゆるものが輝いて映る。これも俺の背中で頼り甲斐のある重みを主張するランドセルのお陰なのか。
小鳥のさえずりが耳に心地いい、最高の朝だ。
ちょうどお隣の玄関から顔を出した奥さんに、俺はとびきり爽やかな笑顔を向けた。奥さんはまるで半魚人でも見たかのように瞠目して、すぐさま屋内へと逃げ帰った。この水玉パジャマにランドセルを背負った男(二十歳)という構図に怖気づいたのだろう。以降の近所づきあいに深刻なダメージを与えた気もするが、知ったことか。
目的地も定めずに街中を練り歩く。俺という存在を、全世界へと知らしめるように。
通学の時間帯だったらしく、小学生の団体に遭遇した。先頭の高学年らしき女児と目が合う。一瞬で視線を逸らされた。
彼らのランドセルは一様に使用感が滲み出ており、光沢も僅かに霞んで見えた。俺のランドセルの方が綺麗だ!
誇らしい気分になり、得意げに胸を張ってすれ違う。小学生たちの――きっと羨望に満ちているであろう――眼差しを一身に受け、俺の鼻はグングン伸びる。と、
「いやー! 不審者!」
突然、早朝の澄んだ空気を切り裂く悲鳴。
いったい何事かと振り仰げば、声の主は交通指導をしているらしき普通のおばさんだ。どこぞの児童の保護者だろうか。伸ばされた彼女の震える指先は、まっすぐに俺の方向を差している。
背後を確認するが、そこには小学生の集団以外に誰もいない……まさか“不審者”とは俺のことか?
不躾なやつめと怒鳴ってやりたいが、今回は勘弁してやろう。妖精から翼を授かった選ばれし者は、他者の言葉になど耳を貸さないのだ。
……とはいえ、警察を呼ばれたら厄介である。
俺はこの場から退散するため、ランドセルのショルダーベルトを握り締めた。
「背負いやすいすい!」
そして、雄叫びながら全力で疾駆する。
身体が軽い。瞬く間におばさんや児童との距離を引き離し、その喚き声は耳朶から消失した。
それでも駆け足は止めない。車通りの激しい国道沿いを、素敵な景観の林道を、住宅地の塀の上を、韋駄天の速さで走り抜ける。忍者みたい。
左右を見回せば、そこはもう見知らぬ景色。酷使しているはずの両足に疲労は微塵もなく、俺はどこまでも――天上までもいけるような全能感に酔いしれた。
だから、俺が立ち止まったのは、眼前にそれを凌ぐほどの脅威があったということ。
車道のど真ん中に仁王立つ男と、正面から視線が交錯した。
先刻までなかった汗が頬を伝う。鼓動が早鐘を打つ。
「何者だ、おまえ……」
誰何の問いが、意図せず口から漏れる。眼前の男には、そう尋ねさせるだけの存在感と不気味さがあった。
「…………」
無言の返答、男はただ巨岩を思わせる硬い表情で俺を睨めた。
彼の容貌に取り立てて書き連ねるような個性はない。年齢は恐らく三十代の後半ほど。黒縁の眼鏡をかけた、ただの凡百な男性だ。強いて特徴を挙げるなら、少々腹が出ている程度か。
真に威圧感を放つのは、その服装。
どう考えてもサイズが合っていないぱつぱつの体操服を着て、見惚れるほど真っ赤なランドセルを背負っている。胸元には“佐藤”と記されたゼッケンが縫いつけられていた。ハーフパンツから覗く膝下はもじゃもじゃの脛毛に覆われている。
異様だ。とても小太りの中年がするような格好ではない。
「――貴様のランドセル……」
膠着した空気を裂くように、その男――佐藤という名前らしい――がようやく口を開いた。その興味と指先が、俺の背のランドセルに寄せられている。
「あ、ああ。これは……自由を願った俺に妖精が授けてくれた翼なんだ」
反射的に俺はありのままを素直に打ち明けてしまう。奴の双眸の奥底に秘められた感情の正体にも気づかずに。
刹那、これまで無表情を崩さずにいた佐藤の顔が驚愕に染まる。
「妖精……!」
そこで脳裏によぎる、ひとつの推測。まさか佐藤が持つランドセルも俺と同様に――
いや。
恐らく女児用であろう赤いカラーリングに着目するあまり、大事なところを見落としていた。
皮革の縫い目、留め具の形状……様々な部位から読み取れる。佐藤のランドセルは、俺のものとは別種だ。
佐藤が不可思議な呟きを漏らす。
「まさか、俺以外にも世界からの解放と遥かな蒼穹を求める者がいたとはな……」
真っ向から俺を見据える視線が、その鋭さを増す。そこに宿った炎が示すのは――明確な、敵意。
「この空は俺のものだ。誰にも渡さん」
宣告し、佐藤は取り出したリコーダーを剣のように構えた。
「ど、どういうことだ……?」
刃の切っ先――もとい縦笛の口をつける部分を向けられ、俺は狼狽を言葉の端に滲ませて問いかける。自分が彼の悪意に晒される理由が未だわからずいる。
そんな俺に、姿勢を崩さぬままで佐藤は、淡々と語り出した。
「簡単な話だ。他者と関係を繋ぎ続けることに疲れた俺は、貴様と同じように自由となることを望んでいた。この広大な青空を気ままに飛び回りたいと願った。そして昨日夢で現れた天使に、このランドセルを授かったのさ――貴様の黒いランドセルを“妖精の翼”と呼ぶならば、こちらはさながら“天使の羽”といったところか」
不敵に笑んだ佐藤は、背筋がピーンと伸びていた。その立ち姿は、絶対の自信と決意に満ちている。
「だから――」
剥き出しの対抗心に気後れする俺の心臓を、至極衝動的な佐藤の台詞が刺す。
「空が本当にどちらのものか、力で証明してみせる」
瞬間、踏み込んだ佐藤が空気を唸らせリコーダーを振り上げた。
容赦なく脳天へと直下してくる縦笛に、俺は咄嗟の反応で両手を伸ばし――
「ハァッ!」
真剣白刃取り。
至近距離で俺を見下ろす佐藤が目を剥く。
一秒、二秒……誰も動かない。荒々しい呼吸の音だけが鼓膜を揺らす。
「証明する必要なんて、ない……!」
太陽と重なった佐藤の鬼貌を、真っ向から睨み返す。だが俺に敵意はない。
静止した時間の中で、俺はゆっくりと自分の胸裏をぶちまけた。
「ひとりじゃなくちゃ……駄目なのか? 見上げてみろよ。この青空は広くて、広すぎて――ふたりの人間とランドセル程度、余裕で包み込んでくれるはずさ! 俺たち両方ともが自由を謳歌できるだけのスペースくらい……あるんじゃないかな」
そして、ふっと微笑む。
俺も佐藤も、目指した場所は同じだ。けれどその世界は、ひとりが独占できるほど狭苦しくない。
――だから俺たちは、その世界に……空に憧憬を抱いたんじゃないか。
手のひら越しに、縦笛を持つ彼の腕が脱力したのを感じ取る。見れば、佐藤もまた口角を僅かに持ち上げていた。
彼の翼が、太陽の光を浴びて赤々と輝く。
「そうか、そうだな……。誰にも束縛されない自由を欲した者同士が衝突し合うなんて、考えてみれば馬鹿げてる」
「じゃあ――」
「うむ。この空は、羽を授かった俺たち二人のものだ」
初めて磊落な笑顔を浮かべた佐藤は、リコーダーを背中の“天使の羽”にしまい、穏やかに右手を差し出した。
ただ一度、俺は緩やかに頷き、固い握手を交わした――
ガチャリ、と。
俺たちの手首に、冷たい鉄の輪がはめられる。
「「は?」」
仰天に四つの瞳が一点に集中する。そこには青い制服のお姉さんが、まるで隕石の落下した瞬間を目撃したかのような表情で突っ立っていた。
呆然とする俺たちに、お姉さんは気だるそうに説明する。
「えーと……変な格好でランドセルしょって暴れ回る不審な人物がいると通報があったんで……」
お姉さん――コスプレでなければ婦警さんだ――は、水玉模様のパジャマ姿の俺と、体操服姿の佐藤を交互に見比べ、したり顔で頷くと、
「危険な匂いがするので、とりあえず逮捕」
なんの躊躇もなく言い放った。
路肩に停車していたパトカーに詰め込まれる。背中のランドセルが邪魔で、べらぼうに狭い。隣の佐藤と密着しているせいか、やけに暑苦しかった。息が臭い。
車内の窓ガラスは分厚く、俺は自由な世界から隔絶されたような気分に陥った。
片頬を、熱い涙が伝う。
嗚呼。空はこんなにも。
遠かったのか。
読んでいただきありがとうございます!
実際には変な格好でランドセルを背負って出歩いても突然逮捕とかはないと思うので、みなさん安心して外出してくださいね!
さすがに悪ノリが過ぎましたので、なにか問題がありましたらご連絡を。
ばさばさつばさ。