第五風、幸福の香り(1)
夜になった。レックスは、マーレル市全体に強力に結界を張り、紅竜に乗り、上空で待機していた。宮殿の執務室にいたシエラは、ライアスから剣をわたされる。
「マーレル市全体をおおっている強力な結界は、たえず制御し続けていなければ、すぐに力を失う。シエラ、結界の制御をたのむ。ぼくは、レックスとともに戦う。」
「私の力では、大きな結界の制御はむずかしいわ。たのむと言われても、どうすればいいの。」
「君は、祈りで魔物と戦った。だから、この剣を持ち、結界の維持を祈っていればいい。魔物と戦えるほどの強い祈りなら、じゅうぶん制御できるはずだ。今夜は総力戦になる。だが、相手は見えない力を使う呪われた呪術師だ。軍や警察では相手にならない。ぼく達だけで、やるしかない。」
マルーが誘拐されたのを知っているのは、レックス達以外では、クリスとミランダのみである。
居住区の子供達には、マルーは貴賓館に泊まっていると教えている。エルは、なんの疑問もなく、今夜は久しぶりにリオンと寝た。ミランダは、宿泊番をプリシラと代わってもらい、シュウとともに宮殿の居住区にいた。
クリスは、貴賓館で、まんじりともしない夜をむかえていた。マルーの無事を第一に考えなければいけないのに、ライアスのことだけが自分の頭をしめている。
(私は、ひどい兄だ。マルーの無事よりも、あの方のことを思っているなんて。これが恋なのか。こんな非情な感情が恋なのか。だとしたら私はもう、イリアに帰らなければならない。私もマルーも、おたがいをすでに必要としなくなってしまったのだから。)
クリスは、カーテンを開け、はるか上空をながめた。今夜は満月だ。月の光が煌々と照らす市内は、夜間外出禁止で人がいない以外は、いつもと変わらない。今、この町の上空で、マーレル市の存亡をかけた戦いが、もうすぐ始まろうとしている。クリスは祈った。
(異国の神よ。どうか、我らの王とマーレル公を守りたまえ。そして、我が妹を無事に救出できますよう、力をおかしください。)
空を見上げつつ、祈り続けているクリスを、フワリと暖かなものがつつんだ。クリスは、それがなんなのか、すぐにわかった。
「かならず妹を救出してください。あなたを信じています。」
クリスをだきしめているライアスは、うなずいた。そして、ライアスは紅竜の背に現れる。
「まだ、動きはないか、レックス。」
「ない。念のため、杖で山の離宮をさぐってみたが何もなかった。マルーをどこにかくしたんだ。おれが感知できないなんてな。」
「まだ、人形の姿のままだと思うよ。冬眠している状態なんだと思う。ユードスの気配は?」
レックスは、首をふった。ライアスは、眼下のマーレル市をながめた。
「市内を見回ってくる。何かあったら、すぐにもどるから。」
「気をつけろ。昼間の魔物が、お前をおそってくるかもしれない。」
ライアスは、うなずき消えた。レックスは、紅竜の背で、じっと時を待った。そして、月が天空高くさしかかった時、異変は起きた。
外出禁止で、だれもいないはずのマーレル市内の道路に、次々と人影らしきモノが出現した。それは、少しの間、市内を徘徊したあと集まり始め、一つの大きな集合体へと変化した。
集合体から、いっせいに呪詛の黒い霧が吹き出た。結界でおおわれていたマーレル市は、たちまちのうちに真っ黒な霧に満たされてしまう。
レックスは、しまったと思った。結界が裏目に出てしまった。
深夜、眠っていたはずの人々が起きだし、外へ出、宮殿方面へと向けて、ゆっくりと進み出す。そして、まもなくマーレル市をおおっていた結界が消えた。
シエラに何かあった、レックスは紅竜を宮殿へ飛ばした。
シエラは、執務室でずっと祈っていた。コンコンと真夜中なのに、扉をたたく者がいる。シエラは、何かの報告かなと思い、祈りをやめ、返事をした。
手に包丁を持った使用人が現れた。それも一人ではない。まとめて、シエラにおそいかかった。間一髪でライアスが現れ、シエラの体を使い、使用人達の包丁をさけつつ、廊下へと飛び出す。そして、居住区へといそいだ。
(何があったの? 兄様。)
(呪詛人形が、市内中にバラまかれていた。路地のすみとか家の影とか、ふだん人の目につきにくい場所にだ。ユードスのやつ、そうとう時間をかけて今回の襲撃を用意していたようだ。完全に裏をかかれたよ。)
(おそってきた使用人達は、宮殿内の人よ。呪詛人形じゃないわ。)
(呪詛人形の呪詛を発動させて、市内に巨大な集合体をつくったんだよ。この前みたいな巨大なモンスターだ。そいつが、結界の中で呪詛の霧をふりまいたんだ。マーレル中が汚染された。)
(エル達は無事なの?)
(ミランダが無事なら無事だ。彼女が、呪詛にやられてないかどうかだ。エッジみたいに呪詛がまったくきかないタイプもいるが、ミランダは微妙なとこだな。信じるしかない。)
(なら、信じるわ。)
ティムが、片手剣を持って現れた。さっきまで、宮殿の警護にあたっていたはずだ。ライアスは、まずいと思った。一般人ならともかく、エッジより、少しおとる程度のティム相手では、シエラの体では、かなり分が悪い。
ティムが、おそいかかってきた。ライアスは、ギリギリよける程度しかできない。剣をかわしつつ、後退し続けるうちに、背後からの敵にかこまれてしまう。ティムが、剣をふりおろした。ライアスは、なんとかよけたが、次はよけきれず、左肩を剣がスッとかすった。
血が腕を染め、シエラはフラついた。ティムが容赦なく剣をふりおろす。ライアスは、見えない盾を出現させティムをはじいたが、自分の背後にいた敵につかまってしまった。
シュウと音がし、何かが爆発し、周囲は煙につつまれた。シエラの小さな体が、ヒョイとかかえられる。そして、ゲホゲホしている使用人やティムのあいだをかいくぐり、居住区への扉を開いた。
「エッジ、きてくれたの。」
シエラは、ホッとした。エッジは、
「町にいたんだが、なんかヤバクなったんで、もどってきたんだ。何があった?」
エッジは、居住区の扉のカギを閉めた。ここの扉は宮殿内の他の扉と違い、火災のさいの防災シャッターの役目をはたすために、見た目からは考えられないほど頑丈にできている。こわそうとしても、そう簡単にはこわれない。
ミランダが、飛び出してきた。ミランダは、すぐに救急道具を持ってきて、シエラの傷の手当をする。幸い、傷は浅かった。
シエラは、
「よく、無事だったね、ミランダ。」
「ここには、レックスがあらかじめ結界を張ってたんですよ。万一のことを考えてです。お子様達は、何事もなくお休みしています。御安心を、シエラ様。」
「そ、よかった。」
シエラは、ホッとした。そして、エッジに、あらましを話す。エッジは、
「おいおい、いくら外にいて連絡がつきにくいとは言え、おれになんの話もなく、勝手に戦争しかけたのかよ。おれが知らないってことは、ティムも知らないでいいんだよな。ま、知ってても、呪詛にやられたんじゃ、話がややこしくなるだけだしな。」
シエラは、
「ほんとに、あなたはなんともないの? あの霧をあびたはずでしょ?」
エッジは、ヒョイと肩をすくめた。
「まあ、全員が全員、やられるって訳でも無いだろう。この前のさわぎだって、まったく感知せず、グーグー寝てたのもいたってきいたしな。けど、おれ自身、まったく呪詛がきかないなんてことはないぜ。見えるものは見えるしな。ただ、まどわされないだけだ。」
「変なものは信じない、か。そうして、自分を強くコントロールしてるのね、あなたは。」
「そうでなきゃ、こんな仕事は、やってられないんだよ。けど、おれは、お前達が起こす奇跡なら信じるぜ。」
シエラは、クスリと笑った。ライアスは、居住区の結界を調べた。今のところ、まだ大丈夫だ。ライアスは、
「エッジ、シエラと子供達をたのむ。」
「お前も気をつけろよ。ゆだんして、この前みたいにボロクソにやられるんじゃないぜ。」
「わかってる。」
ライアスは、剣を残し消えた。シエラは、手に剣を持ちつつ、ブルリとふるえる。傷がうずき始めてきたからだ。ミランダは、
「お休みください。熱が出るかもしれません。」
「ありがとう、ミランダ。でも大丈夫。寝室で一人にしてくれるかな。祈ることしかできないけど、レックスと兄様の援護できるかもしれないから。」