第弐戦、準備万端(3)
あわただしい、ひと月が過ぎ去り、冬荒れしていた海が静まり、大陸へと向けた出兵準備が完了した。そして、いよいよマーレルを出るという前日、エルとユリアは時間を見つけ、二人でマルーをお風呂に入れてあげることにした。
マルーは出産が終わってから、体調がおもわしくない。母乳も半月程度で止まってしまい、子育ては乳母にたよらざるしかない現状だ。
春とはいえ、まだまだ寒いので、浴室をうんとあっためて、出産後、清浄しかしていないマルーの体を、ユリアは、エルにあれこれ指示を出しながら、優しくいたわるよう、洗い清めていた。
ユリアは、泣きたい思いをグッとこらえていた。マルーは、ユリアのケーキが大好きで、毎日のように催促して食べていた。そのせいで、妊娠前には、太ったと言ってもいいくらいだった。
なのに、妊娠したとたん、ひどい、つわりでどんどんやせていく。そして、つわりが終わっても体重は増えず、そのまま出産をむかえ、産後の体調も思わしくないことから、食欲も無く、さらにやせ細ってしまったのだ。
暖かな湯の中で、マルーは気持ち良さそうな顔をしていた。
「ありがとう、ユリア。すごく気持ちいい。お風呂ってこんなに暖かったんだ。」
「髪もきれいにしてあげるね。エル、そこのお湯のバケツ持ってきて。それと、タオルも。」
エルは、ユリアの言われるままにしていた。マルーは、
「ね、今夜は三人で過ごそう。明日から、エルは大陸へ出かけちゃうでしょ。だから、ひさしぶりに三人でいたいの。」
ユリアとエルは顔を見合わせた。エルは、ほほえむ。
「そうだね。そうしよう。じゃあ、仕事をできるだけ早く終らせてくるから、二人とも寝ないで待っていてね。そろそろ、仕事にもどらなくちゃ。最後まで付き合ってあげられなくて、ごめんね、マルー、ユリア。」
ユリアは、
「じゃ、ケーキ焼いて待ってるから。できるだけ早く帰ってきてね、エル。」
エルは、浴室の扉を閉めた。そして、あふれてくる涙をゴシゴシふく。やせ細ったマルーなんて、見ていられなかった。
その晩、レックスは霊体を出し、ライアスとともに、寝静まったマーレル宮殿から抜け出た。そして、ライアスは東に、レックスはイリアに、それぞれ指定された場所へと向かう。
レックスが向かった場所は、イリアの中央部に広がる砂漠地帯で、石だらけの地面には、常人には見えない魔方陣があった。
この魔方陣は、バテントス帝国をかこむよう、ほぼ東西南北に設置されている。すべてカガリビが族長の指示でつくったもので、北はカガリビ、西はレックス、東はライアス、そして、南はユードスが担当することになっていた。
レックスは、ピアスを杖にもどし、頭上の月を見上げた。この月が、一瞬だけ強く輝く時が合図だ。
(四方結界か。バテントスの幻術を封じ込めるカルディア族秘伝の結界。戦争が始まると必ず、ユードスがかつて使った幻術と同じものを皇帝も使ってくるはずだ。エイシア軍が、その幻術に惑わされないようにする為にも成功させなければならない。ユードスのやつ、うまくできるかな。)
レックスは、ユードスよりもシエラを推薦していた。エイシアは南だし、かつて闇の手先となったユードスよりも、祈りの力が強いシエラの方が適任ではないかと。
族長は、
「これは、ユードス自身の戦いでもあるのです。彼が過去との因縁を断ち切るためにも、やらなければなりません。私は、ユードスを信じます。」
だが、レックスは心配だった。念のため、シエラに、マーレルからユードスの援護をしてもらうことにした。今ごろ、寝室で祈り続けてくれているだろう。
月が、一瞬だけ光った。レックスは、杖を両手でつかみバテントス向けて、族長から伝授された封印を始める。四つの力がバテントスを大きくかこんだ。が、すぐに、南からの力が弱まった。
(やはり、南が弱い。こっちの動きを感知した、帝国の負の力が南へ集中し始めている。やつらにとっちゃ、ユードスは裏切り者だしな。ユードスを援護したくても、こっちもなれない封印術で手一杯だし、シエラ、たのんだぞ!)
わかった、という声が、レックスの心に響いた。南が持ち直した。そして、次の合図を待つ。この方法は、何段階かにわけて実行される。すべて、族長から出る月の合図に、そのタイミングが、かかっている。
レックスは、ユードスが担当する南を見つめた。はるか南方向、見えるか見えないかギリギリのラインに、物質としての黒い雲が現れ始めた。南の空全体をおおい、月を見えなくさせるつもりだ。レックスは、双頭の白竜を出現させ、南へ向かわせ、ドラゴンの力で強風を呼び雲をかきけした。
月が輝いた。意識を結界に集中させ、結界の輪をしだいに縮めていく。グググッと重い抵抗が感じられた。レックスは、なにくそと思い、杖で結界の力を強化する。レックスにシエラの援護が感じられた。たぶん、ライアスにも同じ援護をしているはずだ。
(ユードスだけでなく、おれとライアスの援護までできるなんてな。政治的な能力は、もう限界だと感じていたが、シエラの真価は祈りにあったんだな。今になって、やっとわかるなんてな。さすが、おれが惚れただけのことはある。すごい女だ、シエラは。)
夫婦としての思いが、一つになったような気がした。今だと思った。こん身の力をシエラと同じ祈りに変え、結界の輪を縮小し帝国の首都をかこむ。族長から、さらに合図。次は輪で皇宮をかこむ。敵は窒息寸前の抵抗を、はげしく繰り返してきた。シエラの援護がさらに強まった。
レックスは、シエラはもう限界なのでは思った。三方を同時に援護など、いくらシエラでも、そう長く続けることができるはずもない。自分も限界に近い。
そして、最後の指示がきた。結界の輪が、皇宮自体をグーッと締め上げるよう、皇宮内部へと侵入し、何かが音を立てて壊れるような感触がした。足元の魔方陣が、スーッと消える。レックスは、霊体にもかかわらず、荒く息をし続けていた。
(うまくいったみたい。けど、キツ。つかれた。)
レックスは、その場からスッと消えた。マーレルに帰る前に、ユードスの顔を見に行く。あんのじょう、魔方陣が設置されていた拠点の古城のバルコニーでひっくり返っている。
「おい、満身創痍ってとこだな。まあ、よくがんばったな。とりあえず、ほめてやる。」
ユードスは、皮肉を言われても、まったく動かなかった。弱々しい視線で、ボンヤリと空にかかる月をながめている。レックスは、この調子では、朝までこのままかなと思い、凍死してはこまるので、最低限動ける状態にまで回復させることにした。
さっき、霊力をあらかた使ったので、回復作業はかなりきつい。とりあえず、ユードスは上半身を起こすことができた。
「母が、亡き私の母がたすけてくれた。あの優しい思い。母にまちがいない。」
レックスは、苦笑する。
「ユードス。お前の母ちゃん、どんな女だったんだ。」
「記憶にはない。私が二歳の時、亡くなってしまったのだから。ただ、母のぬくもりと優しい眼差しだけは、かすかにおぼえている。」
「援護していたのは、お前の母ちゃんじゃない。おれの女房のシエラだ。おれが、たのんでおいたんだよ。シエラには感謝しろよ。」
ユードスは、レックスを不思議そうに見つめた。
「シエラ王后? あの祈りがそうだというのか。だが、あれはたしかに母の思いだった。」
レックスは、
「シエラは、そういう女なんだ。おれに対しても、女房より母親だな。まあ、お前がそう信じたかったら、そう信じればいい。そろそろ中へもどれ。そのままだと凍死するぞ。とにかく、クリスと結婚しろ。正式ではなくても、クリスにたのんで、きちんとした夫婦になれ。じゃあな。」
ユードスは、また月を見上げた。母の思い。ぬくもり。クリスが、シグルドを見つめる眼差し。ユードスは苦笑するしかない。
(私もすでに四十近くになる。いつまでも若くはない。私を受け入れてくれる家庭が欲しくなっているということか。セレシアとシグルドに、それを見ていたのか。あの金髪男、私の真意を見抜いている。だから、しつこいくらい結婚しろと言っているのか。)
レックスは、宮殿の寝室のベッドで目をさました。シエラは、ベッドのわきのイスにすわり、自分の帰りを待っていた。シエラは、
「そのまま、寝てしまってもよかったのにさ。つかれてんでしょ。」
「じゃなんで、お前、起きてたんだ。お前だって、そうとうへばっているはずだ。」
レックスは、上半身を起こした。シエラは、
「寝顔を見ていたいの。明日、いなくなっちゃうんだしさ。」
「そうやって、鼻でもつまんで遊ぶつもりだろ。」
「ばれた?」
シエラは、むじゃきに笑った。レックスは、シエラの顔をじっと見つめた。
「すまんな、シエラ。戦いにはもう、巻き込むつもりはなかったのにな。」
「戦ってなんかいなかったわ。ただ、ひたすら成功するよう祈っていただけ。私、レックスの力になれることが、すごくうれしいの。」
「シエラ、おれのこと好きか?」
「うん、好きよ。」
「どこが好きだ。」
シエラは、ちょっと考えた。
「昔は、優しいとこ好きだったわ。見た目もよかったしさ。今は、なんだろ。とにかく好き。ぜんぶ、好き。」
「なんか、子供達が手をはなれた分、おれに回ってきてる感じだな。また、おれを子供扱いする気でいるんだろ。」
「うん、ダメ?」
レックスは、シエラのほおをなでた。
「そんなに、おれの母親やりたかったら、次の転生で、おれの母親になれ。うんとやんちゃな男の子になって、お前をこまらせてやる。」
「うん、やんちゃな女の子ね。次は、女の子しか産まない主義だからね。レックスなら、きっとかわいい娘になるわ。楽しみ。」
「なんだよ、それ。」
シエラは、笑った。レックスは、シエラを引き寄せ抱きしめ、くちづけをした。
「ありがとな、シエラ。かならず勝利してみせる。だから、待っていてくれ。」
「うん、待っている。だから、無事に帰ってきて。」