五、初恋(1)
最初の目的地、ラベナ族の領地に入ったのは、大陸に到着し、ひと月がすぎてからだった。予定より半月遅れだった。ここまで遅れた理由は、クリストンからの情報が正確でなかったことが大きい。
安全だったはずのルートが安全でなかったり、ルート上にある部族が内乱状態だったりと、何度も進路変更を余儀なくされ、そのつど、正確な情報を把握しつつ、慎重に旅を続けなけばならなかったからだ。
ラベナ族の最初の町に入った時、宿でエルが寝たあとエッジが現れ、レックスとライアスに、そのことで驚くべき話をした。
「今のクリストン情報部は、シゼレが直接、しきっているんだ。サイモンのボスは、老後をすごす訓練所ではなくて、ケラータの方にある自前の領地に引っ込まされている。すっかり、ボケちまって、もう昔の面影はない。勲章やりたいって? ムダムダ、おれのことも忘れちまってるくらいだ。」
ライアスは、
「その話、いつからだ? シゼレが情報部をしきってるって、ほんとか。」
エッジは、
「なんだ、お前さん、知らなかったのか。もう、二年も前だ。」
レックスは、あぜんとしているライアスの顔を見つめた。
「お前、ほんとにシゼレとロクな話、しなくなってたんだな。必要最低限以外のことは、なんにも話すことも、きくこともしなかったみたいだな。」
エッジは、
「クリストンからの情報が、あやしくなりはじめた時期も、そのころだ。サイモンも急におかしくなり始めて、引退せざるをえなくなったんだ。毒を盛られた可能性も否定できない。ライアス、お前、前に毒の研究してたろ。その中に、頭をやる薬とかなかったか。」
ライアスは、
「あの研究所にあるノート類は、ドーリア公の死後、すべて焼きはらったはずだ。残ってるはずがない。」
エッジは、
「あったんだな、そんな薬。だれかが、コピーを取ってたんだよ。それが、シゼレの手にわたったんだ。」
レックスは、
「おいおい、シゼレのしわざだと決め付けることもないだろ。年とれば、いきなり、そうなることもあるはずだ。」
エッジは、
「頭を使い続けている人間はな、病気にでもならない限り、ああは、なりにくいんだよ。サイモンも、ぎりぎりまで難しい情報を処理してたんだ。それが、いきなりなったんだぜ。そして、数日もしないうちに、オムツをして、介護が必要になったんだ。だれがどうみても、そう考えざるをえないんだよ。」
ライアスは、
「あのシゼレが。ぼくを人殺しと、ののしったシゼレが、そんなことをするなんて。そんな。」
レックスは、
「しっかりしろ、ライアス。まだ、そうだと決まったわけじゃあない。そうだ、イリアが終わったら、やっぱりサイモンに勲章やろう。シゼレを代理として、マーレルに呼べばいいじゃないか。そのとき、本人を問いただしてみればいい。」
エッジは、
「ともあれ、これだけ大陸情報がまちがっているんだ。そろそろ、クリストンとの連携も、考える時期にさしかかっている。おれも、バテントスが片付いたら、現場から足を洗うつもりでいるんだ。ティムと二人で、マーレル情報部を、クリストンと同程度まで引き上げてみせる。」
レックスは、
「おれ達が、こっちにいるのは、クリストンはすでにつかんでいるはずだ。ダリウスにも、かなりの数、クリストンから入ってきているはずだしな。」
エッジは、
「シゼレが何を考えているか、おれにもわからん。たが、あいつは妹のシエラだけは、いつも気にかけている。少なくとも、シエラが悲しむようなマネはしないはずだ。」
そしてエッジは、ライアスに向かい、
「ライアス、昔のお前だったら、この話をきいたら、だまっちゃいなかったはずだ。すぐにでも、サラサへすっとんでったろうな。今のお前は、きらいじゃないぜ。けど、今のお前じゃ、これから起きるバテントスとの戦いには勝てない。
だから、おれからの忠告だ。これは、お前さんを思って言うことだ。すぐにイリア女と手を切れ。お前が好きになる相手は、たった一人だけのはずだ。今のお前では、国を売ってるのとなんら変わらない。」
「ぼくは、そんなことはしていない。おたがい、相手の国には、いっさいの不干渉で交際してるんだ。」
「くだらないルールだ。なら、お前にきく。イリア王を殺せと命令されて、したがうことができるか。昔のお前だったら、必要があれば、どんな手をつかってもやったはずだ。今はできないだろう。好きな女を苦しめることになるしな。だから、国を売ってると言ったんだよ。」
たまりかねたレックスが、口をはさんだ。
「エッジ、もういい加減にしろ。おれが交際を認めてるんだ。これ以上、ライアスを苦しめるんなら、すぐに出て行け。」
エッジは、ため息をついた。
「まるで親だな、お前。だいたいな、レックス、お前が甘やかしたから、こうなったんだよ。とにかく、今のライアスじゃあ、使いものにならん。だから、シゼレもつけあがるんだよ。なんにも怖くないしな。じゃあ、おれは行くぜ。何か見つけたら、またくるから。」
エッジは、行ってしまった。ライアスは、ショックを受けている。レックスは、
「気にするな。お前は、お前のままでいいんだよ。無理に昔にもどる必要はない。」
ライアスは、悲しげに笑った。そして、
「ぼくに対して、あんなに怒ったエッジは、はじめてだ。目がさめたよ。それに、クリスとは、いずれ別れなきゃならないのはわかってたしね。」
「そこまで考えることはない。好きなんだろ、クリスが。」
ライアスは、首をふった。
「大切なものを失ってまで、付き合うつもりはない。このまま、ズルズル交際を続けていたらたぶん、エッジの言うとおりになってしまう。だから、終わりにする。今度、イリアで会ったら、クリスにきちんと話す。それに、肉体のないぼくと付き合ってたって、クリスは幸せにはなれないしね。」
「ほんとにそれでいいのか。」
「ああ、それでいい。もう、決めたから。」
馬車は、ガタゴトと、のんびりと田舎道を進んでいた。ラベナ族の領地は広い。大きさ的には、ゼルムとカイルをあわせたほどになるだろう。レックスは、御者席で退屈している息子の顔を見た。
「ずいぶん、日焼けしたな。陽射しはエイシアに比べて、強くはないんだがな。」
「父ちゃんも真っ黒だよ。なんかもう、国王様じゃないみたいだ。」
「そうか。そりゃうれしいな。運び屋やってた時は、もっと日焼けしてたんだぞ。冬になっても、白くならないくらいにな。母ちゃんも、それで、おれに惚れたんだよ。貴族には、真っ黒に日焼けしている男なんていないしな。」
「父ちゃん、お母さん、恋しいんじゃないの? 何かって言うと、そればっかりじゃない。夜、さみしいんだろ。だから、ぼくといっしょに寝てばかりなんだろ。」
レックスは、赤くなった。
「だからって、帰るつもりはないぞ。やっと、ラベナ族に領地に入ったばかりだしな。」
「ライアス兄ちゃんに、もう一人のお母さんになってもらったら? そろそろ、父ちゃんと寝るのも、うざったくなってきたし、父ちゃんは、やたら汗臭いしさ。」
「親に向かって、うざったいはよけいだ。それに、夏だから汗臭いのは当然だ。旅してるのに、しょっちゅうフロなんかに入れるはずないだろ。お前も、けっこう汗臭いぞ。わかってんのか。」
エルは、クンクンと体のにおいをかいだ。
「旅って、こんなにフケツになるなんて、予想もしなかったよ。荷馬車って、ホコリっぽいしさ。」
「これが、ふつうなの。今までが、ゼータクだったんだよ。死んだ父さんなんか、もっとひどかったぞ。フロがきらいで、おまけに汚いかっこうしてて、たまったもんじゃなかった。父さんに比べたら、おれなんか、ぜんぜんマシ。気にすることじゃない。」
「どこが。父ちゃんも、じゅうぶん汚いよ。ズボンなんか泥だらけだしさ。」
「そういうお前も、スカート汚いぞ。平気で土の上にすわったりするからだ。エル、マーレルからの仕送りもとどいたことだし、今夜は少し上等な宿にとまろう。フロ付きのな。」
「やっぱり、気にしてるんじゃないか。それよりもさあ、父ちゃん。女の人ってさ、そんなにいいもんなのかな。大きくなると、みんな結婚してるしさ。」
「そりゃ、いいもんに決まってるじゃないか。抱きしめるとこう、フワッとしてな。なんか、たまらなくなってくるし。お前、マルー抱きしめたことあるだろ。抱いていて、そういう気分にならなかったか。」
エルは、ため息をついた。
「特に意識したことないよ。ルナ姉ちゃんとおんなじかな。マルーの話はよしてよ。あんまり、考えたくないな。」
「お前のほうから、きいてきたじゃないか。マルーのことだと思ったよ。あれ?」
道の途中で、だれかがしゃがんでいる。レックスは馬車をとめて、声をかけた。初老の男が、苦しそうにうずくまっていた。
「きゅ、きゅうに腹がさしこんでしまって。いたた、いた。すまないが、この先に行くのでしたら、馬車に乗せてってもらえませんか。家は、すぐなので。」
レックスは、老人をかかえ荷台に乗せた。ライアスが、すぐに老人の治療をする。まもなく、さしこみはおさまった。老人は、
「いや、なんだか急によくなりました。おかげでたすかりました。」
老人には、ライアスは見えない。レックスは、
「家はもうすぐか。」
「はい、この先の大きな農家です。わしは、この辺りの地主でしてな。小作の家で物忌みがあって、出かけて帰ってきた矢先だったのです。死人に連れて行かれるかと思いましたわ。」
「地主なら、供くらいいっしょに連れて行けよ。家族とかいないのか。」
「娘と孫が一人います。地主と言っても、家族だけで暮らしていますし、供なんて連れて歩けるほどの身分ではございませんよ。あ、見えてきました。」
たしかに大きな農家だった。が、地主と言って、いばれるほどの家ではない。家の前では、三十半ばくらいの女が家のまわりを片付けていた。
「お父さん、どうしたの。その方たちは?」
老人は訳を話した。女は、
「それでしたら、今夜はうちにお泊まりください。おフロもご用意しますから。遠慮はいりませんよ。父は、旅人をもてなすのが好きな性分でしてね。さ、どうぞ。お嬢さんも遠慮なさらないで。今夜は、腕によりをかけますから。」
レックスには、とりたてて断る理由はない。女は荷台につまれた洗濯物を見た。
「これは、洗っておきますね。まだ、昼前ですし、夕方には乾くと思います。ユリア、ユリア、ちょっといらっしゃい。」
母屋から、エルより少しだけ年上っぽい女の子が出てきた。老人は、
「孫のユリアです。ユリア、ごあいさつしなさい。」
ユリアと紹介された女の子は、チョコンとあいさつをした。そして、レックスの後ろにいるエルを見つめた。エルは、
「ぼく、私、フラムって言います。よろしく、ユリアさん。」
「よろしくね、フラムさん。ね、こっちきて。今、ケーキ作ってるの。いっしょに作ろう。」
ユリアは、とまどうエルをひっぱり、母屋に入ってしまった。レックスは、洗濯物を荷台からとりだし、女、メルーザさんといっしょにゴシゴシ洗う。そのかん、話をきいた。
「私は、この家の一人娘です。それで、ユリアが、ただ一人のこの家の跡取りなんです。あと、二、三年したら、婿となる人をさがさなきゃいけないって、父がはりきってるんです。」
「あの、失礼だと思うんですけど、メルーザさんのご主人は?」
メルーザは、洗濯の手を止めた。
「私、早くに主人を亡くして、それからずっと一人だったんです。ユリアは、そのあと、一年くらい付き合ってた人とのあいだにできた娘なんです。」
「その人って、今は?」
「さあ、どこにいるのやら。もう、会うことはできないと言われて、それっきり。妊娠したことは、言わずじまいになってしまいましたわ。」
「なんか、無責任な話だな。人に子供産ませといて、それっきりなんて。どこのだれかくらい、おぼえてませんか。おれ、旅をしているので、どこかで会ったら、娘さんのことつたえられるかもしれません。」
メルーザは、空を見上げた。
「それが、さっぱり。私が知ってる名前もたぶん、偽名だと思うんです。歳は、あの時は四十後半くらいに思えましたから、今じゃあ、きっとおじいさんですよね。父が、旅人が好きだったから、ここへ何度か泊めたんです。私もさみしかったし、その方も奥様を亡くされていて、私が、奥様に似ていると言われたから、つい。バカな話ですよね。」
「どんな男だったんですか。」
「どんなって、すごく切れるような方でしたよ。異国人だったのはたしかです。何か秘密の仕事をしているみたいで、ほら、バテントスがエイシアって国に攻めていった時、同盟が結ばれたでしょ。私、それにかかわってた人じゃないかって考えているんです。」
洗濯をしていたレックスの手がとまった。ライアスがささやく。
(サイモンだよ、まちがいない。この女の思考に出てきた男を調べたんだ。ユリアは、サイモンの娘だよ。どうする?)