中編
僕と小夜は、幼い頃から兄姉のように仲が良かった。現代において、幼き頃の親友関係など、それが異性のそれであればなおのこと、時が隔たりを作ってしまうものである。しかし僕と小夜は中学三年生の初夏――小夜が交通事故で死んだその日まで、その関係が揺らぐことはなかった。
毎年、正月には互いの家族と共に初詣に出掛け、クリスマスにはプレゼント交換なんかもやった。
僕の誕生日には小夜が僕の家で祝ってくれた。小夜の誕生日には僕が彼女の家に行って祝った。
誕生日プレゼントは毎回贈り合った。中身は開けるまで分からない。欲しいものをプレゼントするのではなく、自分があげたいものを贈る。それがルールだった。
あの日は小夜の誕生日だった。一年前の小夜の誕生日、僕はいつものように彼女を祝うつもりだった。しかし、その日は朝から体調が悪かった。熱が三十九度もあって、体中が痛かった。横になっていると天井がクルクルと回る。とても小夜の誕生日を祝える状態でないことは明々白々の事実だった。
僕は激しい頭痛と寒気、吐き気、その他諸々の症状を無理矢理抑え込んで自室のベッドから這い出て、机の上の携帯電話を掴んだ。朦朧とする中、僕は小夜に電話を掛けた。
その時のやり取りを、僕は一字一句間違わずに記憶している。
『……もしもし』
『夏樹? どうしたの』
『悪い、体調崩した。熱が三十九度くらいある。だから今日の……』
『え、三十九度!? 大丈夫!?』
『あぁ……大丈夫。心配すんな。だけど、ちょっと今日は行けそうにない。後で埋め合わせするから……』
『何言ってんの、そんなのいいの! 今日おばさんは?』
『……あぁ……そういや母さんは町内会の旅行で昨日から居ないとか……』
『大丈夫じゃないじゃない! すぐ行くから待ってて!』
その日、一台の乗用車が小夜を撥ねた。ブレーキ痕はなく、時速八十キロほどのスピードで衝突したという話だった。原因は前方不注意だった。
彼女が死んだのは僕の自宅の二百メートル先だった。
救急車の音は聞こえていた。それでも僕は、それが小夜を乗せるものだとは気付かなかった。まさか小夜がこの世を去るなんて夢にも思わなかったのだ。小夜が死んだ時に、僕は家のベッドで微睡んでいたんだ。
――何も、出来なかった。無力な自分への失望感。滝のように降り注ぐ罪の意識。そして、悲しみ、怒り。
おびただしい負の感情が僕の世界に渦巻いていた。
全てを受け止めたふりをして、自分がもう大丈夫なんだと信じ込むのに慣れて、やっと冷静さを取り戻したのは三カ月後だった。
その頃から、《彼女》は僕の前に現れるようになった。部屋の窓から外を眺めた時、外を出掛けた時、遠くに《彼女》を見るようになった。何処でも、何時でも、《彼女》はその存在を確かに訴えかけていた――――。
僕は、全てを安倍に話した後、安倍と共に学校を出た。
学校を出るまでの間、安倍は幾度も「うーん」と唸り声を上げ、思案を巡らせていた。僕の問題を解決すべく、策を練っているのかと思うと、少し申し訳なかった。
「真田クン、小夜チャンは誕生日に亡くなったんだよね。彼女の命日はいつだい?」
「……今日だ。去年の七月二十一日に小夜は亡くなった」
「マジでかい!? ははは、それはボクもタイミング良くキミに話しかけたもんだ! おっと失礼。不謹慎だったね」
「やっぱあんたムカつくな、安倍」
「ゴメンゴメン。しかしな、真田クン。《面影》を払うにゃあ、都合がいい。ボクの予定ではキミの誕生日に勝負するつもりだったんだ。キミは『夏樹』って名前だし誕生日も八月辺りだと思ったからね。しかし、キミにとっては小夜チャンの《面影》を呼び出すには、小夜チャンの誕生日であり命日である今日の方がいい。より《面影》の存在を強く感受出来た方が成功する」
僕はそれを聞いて、密かに緊張していた。安倍と同じように、僕もまた今日何かを実行するとは思っていなかった。
「……なあ安倍、僕は具体的に何をするんだ?」
「まず、日付が変わる前に、小夜チャンの墓とか、彼女を強く感じ取れる場所に行くんだ。そしたら、《面影》に会えるはずだ。命日で誕生日である時間と墓のような思念の強まる場所なら遠くに見ることはない。多分キミの声が届く範囲に現れるさ」
「ちょっ……待てよ。会ってどうすんだよ」
「キミが小夜チャンに出来なかったこと、言えなかったこと、キミが成し得なかった何かを伝えるんだ。そうすれば、《面影》は消える」
出来なかったこと。言えなかったこと。安倍はそう言った。
僕が彼女に言わなくちゃいけないことは何だろう。今更、何をしてあげられるんだろう。
「安倍、最後に訊いていいか?」
「何だい?」
「お前は何者なんだ? 何で僕を助けてくれるんだ?」
「キミが《面影》に打ち勝ったら、教えてあげるよ」
「……ちぇっ。そーかよ」
僕は投げやりに返して、意味なく夜空を見上げた。
「じゃあ、ボクはこの辺で」
不意に安倍が呟く。
「は? もしかして僕は独りでやるのか!?」
すかさず僕は叫んだ。
「当然、こういうのは独りの方が良い。じゃ、頑張って~」
そう言い放つと、安倍は背中を向けて、手をひらひらと振りながら去っていった。
僕は、独りきりになった。
「…………うしっ、行くか」
緊張と恐怖に震える体に鞭を打って、僕は歩き出した。
午後十時、僕は小夜の骨壺の収められた結城家の墓の前に来ていた。墓石の横側には「結城小夜」と名前が彫られていた。
昼の内に供えられたのか、何本も華が置かれていた。僕もまた、墓地に来る前に買ってきた華を添えた。
「……小夜。来てくれ……」
囁くように独り呟いて、結城家の墓の前の階段に腰掛けた。
かなりの時間が経過したが、小夜は現れてくれなかった。左手に付けた腕時計を見ると、針は午後十一時を差している。
「はぁ……」
溜め息をついて夜空を仰ぐ。今朝の日照り雨はとっくの前に止んで、星が綺麗に輝いていた。
小夜と天体観測をしたことがあった。三年か四年くらい前だったか。その時の小夜は、本当に嬉しそうに星を観ていた。思い出すのは、笑顔の彼女ばかりだ。
思い出の中の小夜と《彼女》はやはり違う。小夜は死んだ。死んだんだ。だから――だから僕は、《彼女》と決着を着けなきゃいけない――。
爽やかな微風が頬を撫でた。初夏の香りの混じった風は次第に強くなる。遂には、目を開けられないほど――強く。
僕は思わず瞼を堅く閉じる。
数秒すると、風が徐々に静まっていった。
「――――!!」
徐ろに瞼を開くと、《彼女》は僕の眼前に居た。
それはまさしく小夜だった。長い髪は顔には掛かっておらず、前髪はバランス良く左右に振り分けられてある。その姿は彼女そのものであった。
しかしそれでも、悲しいほどに生前と違う現実もまた、確かに存在した。目の前の彼女の表情からは、かつての活発な少女の眩しい笑顔はなく、真っ白な「死人の肌」がはっきりと確認できる。
「……小夜」
僕は思わず彼女の名を呼んだ。
小夜は光のない瞳で僕を見る。僕の体中に冷たい血が巡るのが分かった。
言わなくちゃいけない。言えなかった何かを。
「小夜……。僕は、お前を救えなかった。小夜が冷たくなる中、僕は家で何もせずに寝てた。僕のせいで、僕の家に来る為にお前は外に出た。そして、事故に遭った。ずっと、僕は逃げてた。小夜に会うのを怖がってた。死んだお前と再開するのを、無意識に拒んでた。多分本当は気付いてたんだ。心は気付いてた。だけど……僕は弱かった。言えなかった。言うのが怖かった。…………ごめん。本当に……ごめん」
僕はため込んでた気持ちを遂に小夜に話した。
無力で馬鹿な自分の、一年間の謝罪の言葉を、伝えた。涙で、何も見えなかった。
「…………小夜」
小夜は、少しも表情を変えなかった。その存在は未だ色濃かった。
――消え入る気配など、微塵もなかった。
これ以上、彼女に対して言えることが僕にあるのか。謝罪する以外に僕は何をやり残したんだ。
――それとも。
それとも、小夜は僕を、二度と許してはくれないのだろうか。
「……そう……か」
そうだ。謝って許してもらおうなんて……最初から無理な話だ。僕は、ただ傲慢だっただけじゃないか。
「真田クン、キミはバカか」
「――――!?」
背後から声がした。反射的に振り返る。
「ボクは二回も言ったじゃないか。彼女は悪霊じゃないし、キミを怨んでなんかいないってさ。怨みを持った悪霊ならとっくにキミを殺してる」
安倍だった。安倍が僕の後ろで呆れたように佇んでいる。
「安倍……!! お前、いつから……」
「ちょっと前も同じ質問を聞いたな。まぁいい。さて、真田クン。怨んでもいない彼女に謝ってどうする」
「……怨んで……ない?」
「ああ、そうだ。生前の小夜チャンを思い出してみな。彼女はキミを怨むような人間か? キミは熱で動けなかったんだぞ」
生前の小夜。いつも笑っていた。明るかった。行動的で活発で、夢があった。
僕が、小夜の立場だったなら、きっと――――。
僕は自然と彼女の瞳を見つめていた。
「……ありがとう。僕を……怨まないでいてくれて」
目の前の小夜は、表情を変えず、ただこちらを見ている。
「真田クン、言えなかったことは全部言ったか? まだ、何かを言えずにいるんじゃないのか? 怯えるな。引き下がるな。キミの衷情はそれだけか?」
「…………」
言えなかったこと。
――いや、今だから言えること。
そうだ、僕は――――。
「小夜、僕は小夜が好きだった。いなくなって初めて気付いた。前からずっと、好きだった!」
言わなかったこと、言えなかったこと、言おうとしなかったこと、そして言えなくなってしまったこと。
僕はやっと、それに気付けた、話すことが出来た。
再び、強風が吹いた。しかし、今度は決して目を閉じなかった。
小夜の姿が霧のようにかすれていく。彼女の姿が闇に消え入ろうとしている。
彼女が完全に消える直前、その表情は柔らかなものに変わっていた。
――――笑顔だった。
そして彼女は最後に言った。
《ありがとう、夏樹》
僕はその姿が見えなくなるまで、笑った。そして、彼女が消えたら、思わず泣いた。
想いが伝わった気がして、嬉しかった。
ふと気が付くと、安倍等含は姿を消していた。
明日、礼を言おう。僕はそう心に決め、小夜の墓を去ろうとした。
「……あっ」
僕は一つ言い忘れていたことに気が付いた。
彼女の墓に振り返り、僕は言った。あの日言えなかった祝福の言葉を。
「誕生日、おめでとう」
後編へ続きます。