第1話 告白
サークルの打ち上げ。
二次会のカラオケボックスは、アルコールの匂いと安っぽい芳香剤、誰かが順番に歌っている流行歌の重低音や喧騒で満たされていた。
お開きの時間になると、三次会に行く集団から逃げるように、先に会計を済ませて店を出た健斗を追いかけた。
三月の夜風は、火照った頬には少し冷たすぎる。
「……健斗!ちょっと待って!」
呼びかけると、少し先を歩いていた健斗が足を止めた。街灯のオレンジ色が、彼のアスファルトに伸びる影を長く引き伸ばしている。彼はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。酒のせいか、それとも夜の闇のせいか、いつもよりずっと深くて読み取れない。
「……あかりも帰る組か?他のみんなは三次会?」
「……もういいの。それより、話があるから。そこの公園で。良い?」
心臓が、耳の奥でうるさいほど鼓動を刻んでいる。
大学一年の春に、このサークルで出会ってから、もう二年が経つ。
ちょっとしたことで競い合ったり、サークルの企画で頭を悩ませる指先を眺めたり。いくつもの時間が積み重なって、私の中の『好き』という感情は、もう自分一人では抱えきれないほど膨れ上がっていた。
サークルメンバーにも相談したが、すっかりバレバレだったようで
「健斗が好き?うん、みんな知ってる。というかまだ付き合ってなかったんだ。絶対成功するから、さっさと告っちゃいなよ」と後押しも受けて、今日、この気持ちにケリをつけることを強く決意していた。
「あのね、私……健斗のこと、ずっと好きだった。……付き合ってほしい」
誰もいない、夜風に揺れる木々のさやさやとした音が包む小さな公園。
飾らずに、ストレートに。
溜めに溜めた言葉を出した瞬間、世界の音が消える。
健斗は表情を変えず、ただじっと私を見つめている。一秒が、一分にも感じられる沈黙。彼はふう、と肺の中の熱を吐き出すようにため息をついた。
「……あー……。……悪い。ちょっと考えさせてくれ」
想像もしなかった一言が、私の足元から地面を奪い去り、代わりに氷のような冷気で全身を包み込んだ。
……成功を確信していた周囲の言葉が、今は耳の奥で、無責任な雑音として鳴り響いている。
健斗だって、馬鹿じゃない。私が彼を特別に思っていること、飲み会でいつも隣に座ろうとすること、彼に嬉しいことがあれば私が誰より喜ぶこと……。
周囲もわかっているほどなのだから、彼は当然、私が自分を好きなことを『知っていた』はずだ。
それなのに、出た答えは『保留』。
健斗の脳裏には、一瞬でさまざまなリスクが浮かんでいた。サークル内のバランス、共通の友人たちの顔、そして何より、今の『仲の良い同級生』という均衡が崩れることへの恐怖。
彼はこのつかず離れずの居心地の良さを壊したくなかった。
けれど、私の次の言葉が、彼の防波堤を粉々に砕いてしまった。
「待って!……なんでもするから。健斗が望むなら、私、何をされても良い。健斗の理想の女の子になるから……だから、そんな、『考えさせて』なんて言わないでよ…!」
自分でも引くぐらい必死だった。情けないし、重いし、最低な告白だ。
待った結果がOKである確率は高いだろう。けど、振られる可能性は?
時間が経って冷静になれば、より敗北の匂いが強くなるのでは……?
彼を失うくらいなら、自分のプライドなんていくらでも切り売りできる。
そう思った結果、出した言葉だった。
ふと、健斗の視線が、私の握りしめた手に落ちていることに気づいた。
(なんでも、する……?)
その言葉が、健斗の理性のスイッチを狂わせていた。
もし、この『あかり』という、無垢で、自分を全肯定してくれる存在を、自分だけの歪なルールで染め上げることができるとしたら。今まで誰にも言えず、深夜の妄想の中にだけ閉じ込めていた『黒い欲望』が、アルコールの勢いを借りて喉元までせり上がっていた。
一度口に出せば、もう元には戻れない。清廉な『サークルの仲間』としての自分は死ぬ。絶交されるかもしれない。それでも、目の前の、自分の事が好きで、何でも聞いてくれるという、その必死な瞳が、彼の中の獣を呼び覚ましてしまった。
「……ほんとに? なんでもするって、言ったよな、今」
「うん!嘘じゃないよ!!」
被せるように畳みかけ、彼の手を、力を入れてぎゅっと握る。
健斗は私の手を振り払わなかった。代わりに、彼は一歩、私のパーソナルスペースを侵すように踏み込んできた。鼻先が触れそうな距離。アルコールの匂いに混じって、彼特有の清潔な、でも男の子らしい匂いが鼻腔を突く。
「じゃあさ……今……ここで、脱げって言ったら?できる?」
心臓が跳ねた。羞恥心が全身を駆け巡り、肌が粟立つ。逡巡したが、けれど、それ以上に『彼に求められている』という歪な高揚感が勝った。
私は震える手で、ブラウスの第一ボタンを外す。
「……いいよ。健斗が見たいなら」
「……待って」
健斗が、第二ボタンに掛けた私の震える手を、上から力強く、けれど静かに制した。彼の指先は、夜風にさらされていたはずなのに、驚くほど熱い。
「いや、脱がなくていい。……その代わり、もっと別のことしてよ」
「何……かな?」
一度大きなため息をつき、決意したように私を見る。
「……お……おもらし、してみて。……今、おもらしするところ、見せてほしいんだよね」
「……え?」
(おもらし……?おもらしって…あの?)
脳が言葉を拒絶した。聞き間違い。あるいは、高度な冗談なのか。
けれど、至近距離で見つめる健斗の目は、驚くほど真剣で、同時に狂気を孕んで据わっていた。
「……前からずっと……見てみたかったんだよね。女の子が、おしっこを限界まで我慢して、どうしても耐えきれなくなって……そのまま漏らしちゃうところ」
その言葉には、酔った勢いの軽薄さなど微塵もなかった。もっと根深く、何年も彼の中で発酵し続けてきた、誰にも言えない本音の重みがあった。
健斗は私の反応を楽しむように、さらに声を潜めて続ける。
「あかりが俺を好きで、なんでもするって言うならさ……今、そのままおしっこしてみてみよ。そしたら返事、OKしてもいい」
足の力が抜けそうになった。
憧れていた彼の内側に、こんなにも歪で、湿り気を帯びたどす黒い欲望が隠されていたなんて。
羞恥、困惑、そして理解しがたい興奮が混ざり合い、私の思考は飽和状態に陥り、停止した。
「……無理。そんなの、……無理だよ……っ!」
「だって、なんでもするんだろ?」
健斗の手が、私の頬に触れた。熱くて、優しい、拒絶しがたい愛撫。
「無理なら、いいよ。……この話は、なかったことにしよう」
その冷たい響きに、私は弾かれたように彼の袖を離した。
逃げ出したい。でも、彼を掴んでいたい。
矛盾する感情に引き裂かれ、私は何も答えられないまま、夜の闇の中へ逃げ出した。
背後で健斗がどんな表情をしていたのか、確かめる勇気なんて、今の私には一欠片も残っていなかった。
ただ、心臓の鼓動だけが、逃げる足取りに合わせて『おもらし』という卑猥な響きを何度も何度もリフレインしていた。




