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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第7話 黒粉の匂い

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

朝の鐘は、二度で止まった。

 いつもなら三度鳴って、街の空気が祈りの言葉で満たされる。

 けれど今日は途中で切れた。まるで祈りそのものが息を詰まらせたように。


 リリア・セインは窓を開け、冷たい風を吸い込んだ。

 昨夜の眠りは浅い。夢の中でも剣を抜いていた気がする。

 机の上には、あの小さな手袋。墓に返そうと思いながら、まだ置いたままだ。

 指先で布を撫で、剣帯を締め直し、扉を出る。


 聖騎士団の会議室は、朝からざわめいていた。

 紙の擦れる音、鎧の軋む音、そして焦げた油の匂い。

 卓の中央に広げられた地図には、赤い印がいくつも打たれている。

 ラングの他にも、小さな村が相次いで襲撃を受けていた。


「被害の報告を」

 ヴェイル隊長の低い声が響く。


 副官が報告書を読み上げた。

 内容はどれも似ていた。夜の襲撃、破壊された聖堂、黒い粉の痕跡。

 そして、生き残りはわずか。


「黒衣の男の仕業と断定するのは早計ですが、共通点が多すぎます」


 副官の声に、リリアの拳が自然と固くなった。

 あの黒い外套。あの笑い。あの血の匂い。

 思い出すだけで胸の奥が焼ける。


「もう一つ問題がある」

 ヴェイルは地図の端を指で叩いた。

 「魔獣の目撃が増えている。北路沿いを中心にだ」


「魔獣……?」

 エレナが眉をひそめる。

 「まさか、黒衣と関係が?」


「断定はできん。ただ、妙だ。これほど短期間に数が増えるのは記録にない」


 魔獣。

 人でも獣でもない影。

 リリアはまだ一度しか見たことがない。

 森の奥で偶然遭遇したとき、そいつはただじっと座っていた。

 動かず、息もしていないようだった。

 けれど近づこうとした瞬間、空気が裂けて咆哮が響いた。

 あれは祈りの声を壊す音だった。


「第一班は北路へ向かう。私とリリア、エレナが同行だ」

 ヴェイルの命令に、二人は同時に頷いた。


 出発の前に、リリアは孤児院へ立ち寄った。

 墓地の土は柔らかく、朝露で冷たい。

 手袋を埋め、土を戻し、掌でならす。

 「ミナ……ごめん」

 それだけ言うと、もう言葉が出なかった。


 ***


 北路はまだ春の匂いが残っていた。

 風は冷たいのに、草の色は明るい。

 丘を越え、小さな村を二つ通り過ぎたが、どちらも平穏だった。

 麦の匂いとパンの焼ける香りが混じる。

 日常。

 それは神の奇跡なのだと、リリアは思う。

 壊れずに残るものがあるというだけで、人は救われる。


 昼を過ぎた頃、先行の斥候が戻ってきた。

 「隊長、前方で荷馬車が倒れてます。御者は軽傷、荷が荒らされています」


「賊か?」


「……黒い粉がありました」


 ヴェイルの眉がわずかに動く。

 「案内しろ」


 現場には、横倒しになった馬車。

 破れた麻袋と散乱した瓶。

 御者は腕を吊って座り込んでいた。

 顔色は悪いが、意識はある。


「黒い外套を見た」と彼は言った。

「森の影から出てきて、いきなり荷をひっくり返した。刃は見えなかったが……あれは人じゃなかった」


「何を持っていった?」


「瓶だ。軽いガラス瓶。粉の入った袋も……匂いが鼻を焼くような……」


 リリアはしゃがみ込み、地面の粉を指先ですくった。

 黒紫の粒子が光に反射して鈍く光る。

 匂いは、あの夜の聖堂と同じ。

 「黒粉こくこ」――麻薬と噂されるものだ。


 ヴェイルが命じた。

 「森を調べる。奴は近い」


 森に入ると、空気が変わった。

 音が少ない。鳥の声が途切れ、風の音だけが耳に残る。

 倒木の影に瓶の欠片。歯型のついたコルク。

 リリアは拳を握った。


 (ここにいた)


 その時だった。

 斥候の短い叫び声。

 次の瞬間、土を擦るような低い音。

 ヴェイルが前に出る。


 開けた場所。

 そこに、何かがいた。


 灰色の皮膜に包まれた細い体。

 四足のようで、腕のようでもある。

 動かず、ただ風に揺れていた。

 目はない。だが、こちらを「見ている」ような圧があった。


「……魔獣だ」

 ヴェイルが呟く。


 リリアは思わず剣を抜いた。

 けれど、魔獣は動かない。

 息をしているようにも見えない。

 風の中で、ただ灰色の布のように揺れている。


「おとなしいな……」

 エレナが囁く。


 ヴェイルは慎重に周囲を観察しながら言った。

 「この距離なら襲ってくるはずだ。……様子がおかしい」


 リリアは一歩前へ出た。

 その瞬間――空気の温度が変わった。

 胸の奥で、何かがざわめく。

 次の瞬間、魔獣の体表がびくりと震えた。


「来るぞ!」

 ヴェイルの声が響く。


 灰色の体が跳ね上がり、咆哮が森を切り裂いた。

 風が逆流し、木の葉が舞う。

 その咆哮は耳で聞くより、骨の奥で感じる。

 痛みではなく、圧。


 リリアは剣を構えた。

 魔獣が突っ込んでくる。

 動きは速いが、乱暴だった。

 刃を払うと、灰色の肉が裂け、粘液が飛ぶ。

 匂いは鉄ではない。古い薬の匂いに似ていた。


 「エレナ、右!」

 「了解!」


 二人の剣が交差し、魔獣の足が砕けた。

 それでも魔獣は動く。

 爪が地面を掴み、再び跳びかかろうとしたそのとき、

 ――別の音が混じった。


 草を踏む音。軽い、けれど鋭い。

 黒い外套の影が、木々の間をすり抜けて現れた。


 リリアの呼吸が止まる。


「黒衣……!」


 彼は魔獣とリリアたちの間に歩み出る。

 剣は抜いていない。

 ただ、右手を軽く上げ、何かを口に含んだ。

 コルクの破片。黒い粉。

 ――麻薬。


 男は笑った。

 笑って、頭を軽く叩く。

 目は見えない。フードの奥で光が揺れるだけ。


 魔獣が咆哮した。

 けれど、その声は途中で止まる。

 黒衣の男の一歩で、空気が変わった。

 あれほど暴れていた魔獣が、突然動かなくなったのだ。


「な……」

 エレナの声が震えた。


 男はゆっくり魔獣に近づき、指先で額を撫でた。

 まるで眠る子をなだめるように。

 そして――何のためらいもなく刃を振り下ろした。


 灰色の体が裂け、音もなく崩れる。

 男は血を浴びることもなく、ただ静かに立っていた。

 リリアは叫んだ。


「やめろ!!」


 男は振り返らない。

 剣を鞘に戻し、頭をまた叩く。

 「……うるさい」

 それだけ言って、森の奥へ歩き出した。


 追おうとしたリリアの腕を、ヴェイルが掴んだ。

 「今は駄目だ。あいつ、何かおかしい」


 リリアは振り払おうとしたが、足が動かなかった。

 魔獣の残骸の中から、かすかな声が聞こえた気がした。

 風のせいかもしれない。

 けれど、それは確かに「助けて」と言ったように思えた。


 リリアはその場に膝をついた。

 黒い粉の匂いが鼻を刺す。

 頭の奥で、何かがぐらぐらと揺れる。


(この男はいったい……何者なの?)


 森の中に、黒衣の影が消えていく。

 その背を追いかけたいのに、足が動かない。

 手の中の剣が重い。

 血ではない。罪の重さのようだった。


 ヴェイルが静かに言った。

 「戻るぞ。……今は、情報を整理する」


 リリアは頷いた。

 けれど心の中では、何度も同じ言葉を繰り返していた。


 ――次は、逃がさない。


 森を出ると、風の匂いが変わっていた。

 草の香りに、わずかに黒粉の苦味が混じる。

 遠くで、鐘が三度鳴った。

 今日は止まらなかった。

 けれど、その響きはなぜか、不吉なほど美しかった。

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