第6話 祈りの形
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
朝は来たが、朝らしさはどこにもなかった。
聖都リオラの石畳は夜の湿りを吸い込んだまま重く、鐘は鳴らない。旗はたわみ、祭りの飾りは色を失って垂れ下がり、通りの祈りの言葉は掠れて数を減らしていた。
リリア・セインは孤児院の門前に立ち尽くしていた。三日前に血で染まった石は洗われ、香草の水が撒かれ、白い花が山になっている。それでも、足裏に残るざらつきは消えない。踵をずらすたび、薄い砂が音を立てた。あの日の音に似ている、と彼女は思う。
(あの男――)
黒衣の男。血に濡れた刃。笑うとも泣くともつかない息。ミナの胸を貫いた黒。記憶は色を落とさない。祈っても、目を閉じても。
「リリア!」
背後から駆けてくる足音。エレナだった。外套に泥が跳ね、額に汗がにじんでいる。息の継ぎ方がいつもの訓練のそれではない。
「朝の報せ。街道沿いの村――ラングで、襲撃があった」
「……襲撃?」
「聖堂が燃やされ、祈りの像は粉々。見つかった子は……全部」
エレナは言葉を切った。喉が乾いて音が出ないというふうに。
「全部、殺されてた。刃の跡がある。黒く、深いやつ。隊長が言った。『例の黒衣の男と同じ』だって」
リリアは胸の前で指を組みかけ、ほどいた。祈りは、言葉の前に呼吸がいる。だが呼吸の置き場所が見つからない。
「……私が行く」
「一人ではだめ。隊の命令もこれから――」
「命令は後で聞く。今は、手がいる」
エレナは短く息を吐き、頷いた。「わかった。馬を用意する。ヴェイル隊長には私から言う」
蹄の音が二つ、石畳を走った。城門を抜ける風は冷たく、草原の匂いは湿っている。雲は低い。遠くの丘が、灰色の水に沈むように見えた。
ラングは小さな村だ。巡礼の途中、幾度か水をもらった記憶がある。麦の匂いと子どもの笑いのある場所。――だった。
村の入口で、馬は勝手に速度を落とした。鼻が嫌がる匂いがあった。焦げ、油、血。風の向きが変わるたび、層が入れ替わり、肺の奥へ刺さる。
「……ひどい」
エレナが呟く。門柱が折れ、紐で吊られていた祈りの札は半分だけ煤に変わってぶら下がっている。井戸の縁には黒い指の跡がいくつも残っていた。そこから中へ引きずられたものがあったのだと、跡は語っている。
聖堂は骨になっていた。屋根の丸い肋骨が露出し、壁は内側へ倒れ、像は砕け、顔のない頭部の欠片が地面に散っている。台座に刻まれた祈りの言葉は熱で溶け、波のような皺になっていた。読み取れない祈りは祈りではない、と思った瞬間、罪悪感が胸を噛んだ。
「生き残りだ」
エレナが身を低くし、崩れた壁の影を指差した。老人がひとり、膝を抱いて座っていた。目は濁っているが、耳はまだ働いているらしく、近づく足音で顔を上げる。
「聖騎士……か」
「はい。怪我は?」
「平気だ、もう慣れた……いや、慣れていない。慣れたくない」
老人の笑いは咳に変わった。リリアは水袋を差し出し、しゃがみ込む。
「何があったのか、教えてください」
「夜だ。雨は降っていなかったが、湿った夜だった。子の泣き声がして、見ると、聖堂の扉が開いておってな。中が明るいわけじゃない。黒い煙が低く漂って、鈍い音がした。叩く音だ。像が、壊れる音だ」
老人は手を震わせた。指の爪の間に黒い煤が詰まっている。
「黒い外套の……背の高い者がいて、刃が、光らんのだ。光らんのに、よく見えた。赤いものが、見えた」
リリアは無意識に指を固く組んだ。
「子どもたちは?」
「泣いた。祈った。あれは祈りだった。逃げたくて、助けを呼びたくて、言葉を探すと、人は祈るんだな……。だが、あいつは……」
老人は言葉を探し、見つけられず、口を閉ざした。肩が上下に揺れる。
「――黒衣の男だ」
エレナが低く言う。リリアは頷いたとも頷かなかったとも言えない顔で立ち上がった。土の上に膝が付いた跡があった。膝と、片手と、靴の縁。ひとり分。重さはあるが、大人数の荒らした跡ではない。祈りの台座の前に、深い足の踏み込みの痕が左右に二歩、そして前へ。刃を振り抜いた足の使い方だ。
崩れた内陣の奥、床石の割れ目に、薄く黒ずんだ粉のようなものが溜まっていた。リリアは指で少しすくって匂いを嗅ぐ。鉄の匂いと、苦い草の匂い、焼けた薬の匂い。どこかで嗅いだことのある匂いだった。そうだ、街の裏通りで捕えた密売人が、同じような匂いを放っていた。黒い粉――市井で噂される“麻薬のようなもの”。
「これ……麻薬に似てる」
「麻薬?」
「ええ、昔処刑された錬金師が作ったっていう。痛みも恐れもなくなる代わりに、理性が壊れる。そんな噂の粉よ」
「まさか、あの黒衣が?」
「あり得る。あの目……人の目じゃなかった」
エレナは口を覆い、聖堂の残骸を見渡した。「麻薬で狂って、子どもを殺す……それで笑っていたの?」
リリアは返事をしなかった。息の奥が焼ける。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかない。
(神に背く者……)
村の外れに、まだ息のある女がいた。肩口に切り傷があり、布が血で固まっている。エレナが手際よく布を外し、包帯を巻く。女は震える唇で話した。
「黒い人が……笑ってた。聖堂の中で。笑って、それから……頭を壁に打ち付けて……『うるさい、うるさい』って」
リリアの耳の奥にあの気配が蘇る。――うるさい。祈りが鳴る。あれは言葉じゃなかった。ただの叫び。理性を失った咆哮。
「子どもたちの声が……止まって、あと、静かになって……」
女はそこまで言うと、声を失った。包帯の白がやけに清潔に見える。血の色が悪いものではないように見える。目は嘘をつく、とリリアは思った。
そのとき、外から馬の嘶き。ヴェイル隊長が駆けてきた。外套の裾は泥で重くなっている。
「状況を」
リリアは見たものを淡々と並べた。聖堂の破壊、像の粉砕、粉の残滓、刃の跡、足跡、焦げ跡、血の位置、残った手袋。ヴェイルは最後まで聞き、目を閉じて息を吐いた。
「――黒衣の男だな」
「はい」
「麻薬……いや、“黒い粉”を使っていたか」
「確証はありません。ただ、匂いが同じでした」
「……神に背く者が使う毒だ。聖堂でそれを撒くなど、冒涜以外の何物でもない」
ヴェイルは聖堂に視線をやり、砕けた像の隙間を見つめた。
「討伐命令が正式に降りた。抵抗すれば、斬れ」
「了解しました」
夕方、風が変わる。焦げと鉄の匂いが遠のき、土の冷たさが戻ってくる。リリアは廃墟の中央でひとり膝をついた。焦げた床に、まだ黒い粉が残っている。指先でなぞると、粉は静かに崩れ、皮膚に張り付いた。わずかに痺れるような感覚。
(これが……奴の力の源?)
祈りを冒涜する毒。神の光を拒む粉。リリアの中で、憎悪が形を得ていく。子どもを殺し、聖堂を焼き、神を嘲る外道――その名も知らぬ男。
「必ず……止める」
呟いた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
帰路、草原を渡る風の中に別の音が混じった。金属の薄い鳴り。馬が耳を立てる。エレナが手綱を短く持ち直した。
「聞こえた?」
「ああ。前方、丘の陰」
二人は馬を下り、音のする方へ進んだ。草の海に身を沈め、呼吸を浅く、足をゆっくり。草がふくらんだところに、黒い影が座っていた。背を丸め、膝を立て、額を乗せている。肩が上下に波打つ。呼吸が荒い。刃が隣に横たわり、刃先から細い黒い煙が上に伸びて、風にちぎれていた。
リリアは拳を握り、膝で地面を押して立ち上がった。エレナが袖をつかむ。
「待って」
「今度は、逃さない」
その言葉は自分に向けたものだった。喉が熱くなり、奥で何かが鳴る。鳴りは怒りではなく、空洞に風が通る音に似ていた。
影がゆっくり顔を上げた。フードの下、目がある場所が暗い。目は見えないのに、見られている感覚がある。影は自分のこめかみを拳で叩き、舌の奥で短く笑った。乾いた音。笑いと言い切れない。何かを追い払うような、合図のような。
「――黒衣の男」
リリアの声は低く、刃の背で擦った石のように固かった。影は返事をしない。膝を投げ出し、ゆっくりと片手を伸ばして刃の柄を手繰り寄せる。動きが重い。酔っている者のような遅さだが、遅さの中にいつでも切り替わる収縮がある。獣が欠伸の途中で跳びかかるときの筋肉のまとめ方をしている。
「やめろ」
エレナが囁く。リリアは一歩、前に出た。草が左右に割れる。距離が縮む。影が顔を少し傾け、鼻から強く息を吐いた。空気が乾いた。
刃が閃いた。起き上がる前の、座った姿勢のままの、低い水平。リリアは踏み込み、刃を受け、手首を返して外へ流す。火花が散る。金属の鳴りが丘に短く跳ね返る。影の肩が近い。息が熱い。焦げた草と薬草の匂いが喉を刺す。
「……あ……」
影が小さく声を漏らした。意味のある言葉ではない。痛みとも快楽ともつかない音。リリアは剣を押し込み、相手の中心線をずらしながら膝で距離を詰めた。影の顎に肩が当たり、二人は絡まるように地面に倒れ込む。草と土と金属と皮革の混ざった匂いが、世界の匂いのすべてのようになる。
影は近い。フードの隙間から覗いた額に古い傷。眉間に浅い皺。頬に新しい切り傷。唇が乾いてひび割れている。舌の先で血を舐め、喉が鳴る。目は――見えない。暗さに遮られているのか、彼自身が閉じているのか。
「なぜ、子どもを――」
問いは刃より鈍い。返答は――ない。影は拳で自分の頭を一度殴り、歯を食いしばり、笑った。笑いは短く、壊れた弦の音のようだった。
「……どけ」
かすれた声。命令というより、反射に近い響き。リリアは答えず、刃を押さえ込む腕に力を込めた。肘の筋が熱くなる。影の肩が沈み、次の瞬間、両足が同時に弾けた。地面を蹴った音と同時に体が浮き、反転する。視界が裏返り、背中が草に叩き付けられた。肺から空気が逃げる。世界が薄く白くなる。耳に血の音が満ちる。
影は立ち上がらない。四つん這いのまま少し離れ、膝を抱えて座り直した。刃は手の届く場所に置いたまま。呼吸を数える。自分に数を教えている子どものように、唇だけが動く。ひとつ、ふたつ――そこまで見えた。声にはならない。言葉は彼の中で意味を失っている。
「立てよ」
自分でも驚くほど静かな声だった。影は応えない。代わりに、ゆっくりとこちらを見た。目が、見えた気がした。暗さの中に濁った琥珀色。焦点は定まっていない。熱と粉と血で泳いでいる。だが、一瞬だけ、澄む。透明なものが底の方から浮かび上がる。水底の石が奇跡的に光を受けるみたいに。
その瞬間、影の肩が震え、笑いが割り込んだ。澄んだものは泡になって弾けた。
「……たのしい」
ひどく小さな声。子どもが秘密を共有するときのような声音。血の味に酔っている者の声でもある。
「――最低」
言葉が先へ続かなかった。影は刃を拾い、立ち上がりもしないまま、刃を草に走らせてその根元を切った。草が倒れる。一本、二本。まるで線を引くように。地面に円を描く。先ほど村で見た焦げた輪に似ている。彼は輪の外へ膝をずらし、こちらを見た。
「くるな」
輪は護りではない。境目だ。自分の中の何かと外の何かを分けるための。
リリアは答えのかわりに一歩踏み出した。輪を跨ぐ。影の顔には驚きも怒りもない。ただ、乾いた唇が少しだけ上がった。笑いというより、痙攣に近い。
刃が来る。低いところから高く。肩で受け、返し、押し、払い、押し込む。音は短い。どの音も長く残らない。風の音がすぐ奪っていく。体が覚える角度と重さで、世界が回り始める。相手の癖が一つ見えた。左の踵が地面を撫でるとき、次に来るのは捻りの入った突き。突きの後の、呼吸を置く位置。そこへ――
「ここまで」
エレナの声が背中に刺さった。刃と刃の線がぴたりと止まる。彼女の剣先が影の喉元に近い空気を押さえ、ヴェイルの手がリリアの肩を掴んで引く。いつの間に追いついたのか。二人の影が視界の端に落ちてくる。
「拘束する」
ヴェイルの声。影は視線を上げず、刃を地面に落とした。落ちた刃は草を噛んで止まり、黒い煙だけが細く立ち上がる。影は額を自分の膝に押し付け、耳を塞ぐ子どものように両手を頭に当てた。
「……うるさい」
誰の声にも向けられていない文句。空に、地面に、自分の頭蓋に、言っている。
縄が用意される。リリアは呼吸を整え、歩み寄る。縄の繊維の手触りが、祈りの数珠と同じであることに一瞬だけ気づき、吐き気がした。
縄が影の手首に触れた瞬間、体が跳ねた。獣の発作のような速さで肘が上がり、肩が抜け、手首が縄から逃げ、逆の手で刃を拾い、地面に線を描くように一歩、二歩。動きには無駄がない。考えない体の動き。教わるのではなく、残る種類の技術だ。
エレナの剣が空を切り、ヴェイルの腕が空を掴む。影は背を向け、丘の影へ滑り込んだ。追おうとした足が、一瞬だけ地面に吸い付いた。輪の線だ。足裏に残る焦げの粉が、皮を通じて熱を伝える。彼が自分のために引いた境目。越えられはするが、越えるたびに何かが削れる種類の線。
「追うぞ」
ヴェイルの声で、リリアは足を上げる。丘を駆け、草を裂く。影は速いが、無尽蔵ではない。粉の熱は持続せず、体を削る。息の音が短く高くなる。肩が落ちる。足の運びがわずかに乱れる。距離が縮まる――その瞬間、影は自分の頭を石に打ち付けた。鈍い音がした。リリアの足が思わず止まる。反射のどこかが、その自己破壊の動きに遅れる。理解が追いつかないからだ。理解できない動きは、剣よりも危うい。
影はその一瞬の間に向きを変え、斜面を転がるように降り、低木の影に消えた。葉が跳ね、枝が揺れ、音はすぐに風に紛れた。待て、と声を出した自分の声が、自分の耳に届かない。
足を止める。胸が焼ける。肺の奥が痛い。掌に残る縄の繊維の感触が、まだ皮膚を刺す。ヴェイルとエレナも足を緩めた。三人の呼吸が重なる。夜の気配が早い。雲は厚く、暗さが地面から這い上がってくる。
「……逃した」
呟くと、エレナが肩に手を置いた。軽い。軽いのに、体がそれに沈む。
「生きてる。次はある」
ヴェイルは周囲を見渡し、短く言った。
「今は退く。暗い。地の利は奴にある」
帰り道、リリアは何度も小さな手袋の重さを確かめた。掌に収まる小ささ。指の短さ。泥の匂いが、汗と混じって別の匂いになっていく。目を閉じると、縄の手触りがまた蘇る。祈りの数珠の感触と同じだという事実が、喉に刺さったまま取れない。
夜、宿舎に戻る。窓の外は音がない。街は眠っている。祈りは――眠っているのか、起きているのか、わからない。机に手袋を置き、日誌を開く。行の間に血の匂いが立ち上る気がする。記録は祈りに似ている。言葉は列になり、列は道になる。だが今日は、列が途中で途切れて、道が宙に浮いた。
――ラング村、聖堂破壊。像粉砕。刃痕深し。黒い粉の残滓(鉄と草の匂い)。足跡一。環状の焦げ跡。子供多数死亡。生存者少数。黒衣の男と一致。拘束未遂。逃走。
ペン先が止まる。最後の欄に、書きかけの言葉がある。「所感」。いつもなら簡単だ。今日感じたこと、学んだこと、次に活かすこと。だが、所感が見つからない。感情に名前がない。怒りでも悲しみでもなく、何かが裏返ったような感覚。
窓に額を当てる。冷たい。冷たさはまだ信じられる。信じられるものがあることに、ほっとしてしまう自分が嫌になる。
「……なぜ」
問いは小さく、ひとりごとの大きさで、部屋に落ちる。答えはない。当たり前だ。答えはいつも遅い。祈りより遅い。死より遅い。
扉が叩かれ、ヴェイルが入ってきた。彼は机の横に立ち、手袋を見た。
「それは」
「村の子の、ものです」
「戻すといい。墓へ」
「はい」
ヴェイルは立ったまま、少しの間黙っていた。沈黙の中には言葉より多くの意味が入ることがある。彼はやがて低く言った。
「明朝、正式な討伐隊が出る。お前も行け」
「命令がなくても行きます」
「……そうだろうな」
ヴェイルの口元に、笑いとも苦さともつかないものが浮かんだ。彼は扉に向かい、手をかけ、振り返らずに言った。
「リリア。祈れ」
言葉が胸に刺さる。祈りは、いまや刃の形をしている。握れば血が出る。けれど、彼はそれでも祈れと言った。祈ることしか、残っていないのかもしれない。あるいは、祈りがまだ何かを持っていると信じているのかもしれない。
扉が閉まり、部屋に音が戻る。自分の呼吸と、机の木が鳴る小さな音と、遠い犬の吠える声。窓辺に膝をつき、指を組む。額に当てる。声にならない言葉が喉の奥で形を作り、壊れる。祈りは言葉がなくてもできる、と誰かが言っていた。誰だっただろう。思い出せない。祈りは、思い出すためのものではないのだ、と別の誰かが答えた気がした。思い出せない誰かの言葉に救われる夜がある。
「――神に」
続きが出ない。続きは、自動的に口をついて出るものだった。今日は、その自動が壊れている。代わりに、別の言葉が上がってきた。短く、固い。石を飲み込むような言葉。
「――次は、止める」
指をほどく。手の平に残る縄の痕が赤い。机の上の手袋は、その赤を映して色を受け取ったように見える。錯覚だ。皮は外から色を受け取らない。ただ、目がまた嘘をつく。
灯を落とす。暗さがやってくる。暗いことが救いになる夜もある。暗さは、何も見せない。見せないことが、少なくとも誰かを傷つけない。
横になり、目を閉じる。眠りは来ない。来ないことにも意味はあるのだろうか。意味を探す頭がぐるぐる回る。回る音がうるさい。うるさい、と思った瞬間、彼の声が重なった。――うるさい。彼は頭を殴っていた。自分の中の音を止めるために。
(あなたの中で、何が鳴っているの)
答える声はない。代わりに、指の中で数が動いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。あの丘で影が数えていた数。祈りではなく、数。数えることは祈りの代わりになるのかもしれない。数は裏切らない。ひとつの次はふたつだ。ふたつの次はみっつだ。だから、明日が来る。明日が、ひとつ増える。
――明日、止める。
目を閉じたまま、言葉を置く。祈りの形は変わる。変わってしまったものは戻らない。戻らないものを抱えたままでも、歩くしかない。刃は磨く。靴紐は結ぶ。手袋は墓へ戻す。死んだ子どもの名は忘れない。忘れないことは祈りだ。
夜が深くなる。街が眠る。犬が二度吠え、遠くのどこかで扉がきしむ。誰かの足音が階段を上り、止まり、また下りる。世界は動いている。動いている世界の中で、ひとつだけ動かないものがある。それは、黒い外套の影。目を閉じても、そこにいる。
――次は、止める。
繰り返す。数える。ひとつ、ふたつ。やがて数はぼやけ、音は薄くなり、眠りが、意地悪な友人のように遅れてやってきた。
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