第5話 血と祈りの境界
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
光が戻らないまま、三日が経った。
聖都リオラは曇りに覆われ、いつもの祈りの声も、どこか沈んでいる。
孤児院の門には黒布がかけられ、扉の前には白い花が山のように積まれていた。
リリア・セインは膝をつき、冷たい地面に指を押し当てた。
その下に、ミナが眠っている。
昨日までは「神に選ばれた子」と呼ばれ、祝福されていた少女。
いまは、誰も名前を呼ばない。
――神に感謝を。
その言葉を口にする者の声には、もう震えが混じっていた。
「リリア……そろそろ休め」
ヴェイル隊長の声は低く掠れていた。
彼もまた、あの“黒衣の男”を見たのだ。
だが、神に仕える者たちは一様に口を閉ざしている。
「神の敵が現れた」
「試練の一つだ」
「天が見ておられる」
――どれも祈りの形をしていたが、現実の血を拭う言葉ではなかった。
「……あの男は何者なんですか」
リリアの声は静かだった。
「わからん。報告では、街道沿いでも同じような被害が出ている。子どもばかりが狙われている」
「子ども……だけ……?」
「ああ。神に近い者ばかり、だそうだ」
リリアの中で何かが音を立てて崩れた。
神に近い者。
祝福の印を持つ者。
それはつまり――ミナだ。
彼女は胸に手を当てた。
あの日、ミナを守れなかった手。
剣を抜いたのに届かなかった距離。
目の前で、命が光に変わる瞬間。
焼きつくように残る。
「……あの男は、どうしてそんなことを……」
「理解しようとするな。あれは悪だ」
ヴェイルの言葉は鋭く、重かった。
「悪」――そう言えば、すべてが整理される。
だがリリアの心は、整理されなかった。
ミナの胸を貫いた刃。
それを振るった男の顔。
血を舐め、笑いながら、何かを必死に押さえていたあの目。
完全な悪とは思えなかった。
むしろ、痛みを抱えて狂っていた。
リリアは立ち上がる。
墓前に置かれた白い花が、風で小さく揺れた。
「……隊長、私は行きます」
「行く? どこへ?」
「あの男を探します!」
「リリア!」
ヴェイルの声を背に、リリアは振り返らなかった。
孤児院を出ると、街は異様な静けさだった。
聖都の中央通りを歩く修道士たちは目を伏せ、祈りを口にしている。
“神に感謝を”――その言葉が、空気を縛りつける鎖のように響いていた。
リリアの胸の中で、もう一つの声が囁いた。
――本当に、神は見ているの?
剣を握る手に、少しだけ力が入る。
リリアは歩いた。
門を抜け、街の外へ。
灰色の雲の下、遠くで雷鳴が響く。
神の御業と呼ばれた光が、いまは罪の証のように街を照らしている。
***
少ない目撃情報を頼りに夕刻、リリアは郊外の村に着いた。
かつて巡礼の途中で泊まったことのある小さな村だ。
しかし、そこにはもう人の気配がなかった。
祈りの旗は倒れ、扉は半開き、血の跡が道を横切っている。
風が吹くと、布がちぎれたような音がする。
「……ひどい……」
地面には、羽根のような白い粉が散らばっていた。
血と混じって、乾いている。
まるで、焼けた光の残骸のようだった。
家の影で、かすかな息の音がした。
リリアは剣に手をかけ、慎重に覗き込む。
そこには、小さな男の子が倒れていた。
顔は土に汚れ、胸のあたりが黒く焦げている。
生きてはいる――だが、何かが違う。
瞳が虚ろで、唇が震えていた。
「だ……れか……」
その声は、まるで別の何かが喉を通しているような、濁った響きだった。
リリアは膝をつき、手を握った。
「大丈夫、助けるわ」
少年の喉から、低い声が漏れた。
「……ひ……か……り……」
次の瞬間、少年の身体が弓なりに反り、口から白い煙を吐き出した。
光が、身体の内側からこぼれ出る。
それは“祝福”ではなく、苦痛の光だった。
「っ……!」
リリアはとっさに後ろへ飛び退く。
少年の身体が震え、背中から白い羽のような形が現れる。
しかしそれは羽ではない。骨と皮膚が捻じれ、光が肉を裂いていた。
悲鳴を上げる暇もなく、少年は崩れ落ちた。
光が消える。
静寂。
その光景の中に、一歩、足音があった。
黒衣の男。
リリアの呼吸が止まる。
男は、前回と同じ外套を着ていた。
血が乾き、泥がこびりついている。
刃の先から、黒い煙が滲んでいた。
それでも、歩くたびに確かな熱を残す。
「お前……!」
リリアは剣を抜く。
だが、男は目を合わせようとしない。
何かを呟きながら、少年の亡骸に膝をついた。
「……遅かったか……」
その声はかすれていて、震えていた。
リリアは目を見開く。
その声に、怒りよりも痛みを感じた。
だがすぐに、刃を構え直す。
「罪を償え……お前が殺した!」
男は顔を上げた。
瞳の奥に、狂気と哀しみが同居している。
「……黙れ。お前らが……神が……こいつらを……」
「なにを言って――!」
雷鳴が割れた。
同時に、男の身体から紫の光が弾ける。
空気がねじれる。
リリアは剣を構え、前へ。
光と闇がぶつかり合い、砂塵が舞う。
戦いは、一瞬のようで永遠だった。
刃と刃がぶつかり、叫びが夜に溶ける。
リリアの剣が男の頬を裂く。
男の刃がリリアの腕を掠める。
血が飛び散り、雨がそれを洗い流す。
息を切らせ、互いに距離を取る。
男の瞳は熱に浮かされ、焦点を失っている。
「天使……お前らの神は……」
その言葉の続きを、雷がかき消した。
リリアは思った。
――この男は、狂っている。
でも、心のどこかでわかってしまった。
狂っているのは、彼だけではない。
この世界そのものが、何かに侵されている。
神の名のもとに、血が流れ、祈りが人を縛る。
“神に感謝を”と唱えるたびに、誰かが犠牲になる。
リリアは、震える手で剣を構え直した。
男は笑った。
哀しいほどに、人間らしい笑い方だった。
「……お前も、その光に喰われるぞ」
その言葉だけを残し、男は闇の中へと消えていった。
雨が止み、風が静かになる。
リリアの頬を、一筋の涙が伝う。
それが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。
空の雲の切れ間から、光が一筋落ちる。
それは暖かいはずの光なのに、ひどく冷たく感じた。
――神に感謝を。
祈りの言葉が、誰の口からも出なかった夜だった。
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