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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第4話 黒衣の男

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

朝から曇りだった。

 聖都リオラの空は、珍しく光を閉じ込めたまま、沈黙している。鐘の音もいつもより重たく、街の空気がゆっくりと動く。


 リリア・セインは聖堂の外階段を下りながら、胸の前で小さく祈った。

 ――神に感謝を。

 それはもう反射のような言葉だった。

 祈れば、世界は正しく戻る。いつだってそうだった。


 だが今日は、少しだけ違う。

 胸の奥で、微かにざらつくような音がする。

 昨夜から頭の片隅に残る映像――ミナの首の印。

 あれは昨日よりも、はっきりと光を帯びていた。


 「祝福だよ」とシスターは言った。

 けれど、リリアの中でその言葉が、なぜか冷たく響いた。


 午後、リリアはいつものように孤児院へ向かった。

 通りの人々は祭りの準備で忙しく、色紙と旗を運んでいる。

 神の祝福を讃える歌が、遠くの鐘楼から響く。

 ――神は見ておられる。

 ――神に感謝を。


 扉を開けると、シスター・メルがいつものように迎えてくれた。

「今日は早いのね、リリア」

「ええ。旗を外に出そうと思って」

「助かるわ。子どもたちは庭にいるの。朝からずっと遊びたがってね」

「神に感謝を」


 庭では、子どもたちが笑っていた。

 ミナが真っ白な紙の花を束ねて走ってくる。

「お姉ちゃん! 見て! できた!」

「きれい……。本当に白いね」

「うん、光のにおいがするの」

 リリアは笑って受け取る。だが、その花の中心に、ほんのかすかに光る粒を見つけた。

 息をのむ間もなく、風が通り過ぎ、白い花弁が散った。

 ふと空を仰ぐと、雲の切れ間から光が一筋、地面を刺していた。


 その光の中に、ひとりの影が立っていた。


 黒衣の男。

 外套の裾は土で汚れ、肩口には乾いた血。

 顔の半分が髪に隠れ、表情は見えない。

 背中には何本もの紋様が焼き付いたような痕があり、呼吸のたびに黒い煙のようなものが立ちのぼる。


「誰……?」

 リリアが呟いた瞬間、男は歩き出した。

 迷いも、ためらいもない。

 まっすぐに、ミナへ向かって。


 「待って! ここは子どもたちの――」

 言葉が終わるより先に、空気が震えた。

 男の足元から紫色の光が走り、石畳を焼く。

 何かを飲み込むような熱が広がり、匂いが変わる。鉄の匂い。焦げた血の匂い。


 リリアは剣を抜いた。

「やめなさい!」

 だが男は振り向かない。

 ミナが一歩、後ずさる。

 光の粒が彼女の周りに集まり、髪がふわりと浮く。


「やめて! その子は――」


 その瞬間。

 黒衣の男が動いた。

 速い。

 リリアの目が追いつくよりも早く、空気が裂け、音が消える。


 ミナの胸に、黒い刃が沈んだ。


 光が砕けた。

 耳鳴りだけが残る。

 世界の色が、薄紙のように剥がれていく。


「……なにを、してるの……?」

 リリアの声は、喉から漏れただけだった。

 男は答えない。

 いや、答えるという行為の形をしていなかった。

 ただ、息を荒げ、喉の奥で笑っていた。


「あぁ……あぁぁ……ッ……ハァ、ははっ……あぁぁあ……」


 笑いとも、泣きともつかない声。

 身体を震わせ、血に濡れた刃を舐める。

 唇の端が切れ、赤黒い線が頬を伝う。


 「貴様……っ!」

 リリアは剣を構えた。だが男はまるで気にしていない。

 刃を引き抜くと、ミナの小さな体が糸の切れた人形のように倒れた。

 光は完全に消え、血の色がその代わりに広がる。


「――神に選ばれた子よ! どうして……!」

 リリアの叫びが空を裂く。

 男は、のろのろと首を傾けた。


「うるせぇ……」

 その声は、まるで骨が軋む音のようだった。

「……光……まぶしい……うるせぇんだよ……」


 狂気の熱が、空気を歪めていく。

 男は自分の頭を爪で掻きむしり、歯を鳴らし、そして笑う。

 リリアが踏み込む。

 剣が男の肩を裂く――が、彼は痛みを感じていない。

 むしろ、嬉しそうに息を吐く。

「もっと……もっとだ……」

 笑いながら、リリアの腕を掴み、地面に叩きつけた。


 視界がぐらりと揺れ、息が止まる。

 男の呼吸が耳元で響く。荒い、熱い、狂った息。

 瞳が焦点を結ばず、ただどこか遠くを見ている。

 人ではない。そう感じた。


 「……なんで……こんなことを……!」

 リリアの声は涙混じりだった。

 男は答えない。

 血の滴る刃を舐め、にやりと笑う。


「まだ……いる……まだ……天使……」


 その言葉の意味が、リリアにはわからなかった。

 ただ、血の中で光が消えていくのを見ているしかなかった。


 男は自分の頭を壁に何度も打ち付け、そしてふらつく足取りで立ち上がった。

 肩が上下に揺れ、息が荒い。

 血の跡を残したまま、門の方へと歩いていく。


 リリアは倒れたまま、動けなかった。

 剣を握る手が震えている。

 ミナの身体を抱き上げると、まだ温かかった。

 瞳は閉じていない。空を見ている。


「……ミナ……」

 呼んでも、返事はなかった。


 シスター・メルが駆けつけ、悲鳴を上げる。

 エレナが遅れて到着し、リリアの肩を支える。

「何が……何があったの……!?」

 リリアは声を出せなかった。

 ただ、腕の中の重さだけを感じていた。


 光の街の中心で、血が流れている。

 祈りの場所で、誰もが恐怖に口を閉ざす。

 そしてリリアは呟いた。


 「神に……感謝を……」


 涙で濡れた声。

 それは祈りではなく、絶望の形をした言葉だった。


 遠ざかる黒衣の男の背中を、リリアは見ていた。

 もうどこへ向かうのか、わからない。

 彼の足跡だけが、土の上で黒く燃えていた。


 風が吹く。

 旗が音を立て、白い花びらが血に濡れて、赤く染まった。

 リリアの胸の奥で、何かが小さく軋む。


 その日を境に、リリアの世界は静かに壊れ始めた。


 ――神に感謝を。

 それは、この街で最も恐ろしい言葉になった。

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