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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第35話 神の生まれ方

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

 

「——さて、話をしようか」


 スルトラの声に、炉の炎が小さく揺れたように見えた。


 シンは、膝の上で組んでいた手をぎゅっと握り直す。


「……神についてだ」


 自分でも驚くほど、声はまっすぐに出た。


「神について知ってることを、教えて欲しい」


 その言葉に、スルトラの視線がゆっくりとこちらを向く。


 赤銅色の瞳が、炎を映して細く光った。


「だろうな……」


 短く言って、スルトラはテーブルの端に腰を預けた。  腕を組み、顎を引き、少しだけ考えるように目を伏せる。


「ただ、先に言っとくが——俺が知ってるのは断片的なものだ。それでも良いか?」


「ああ」


 シンは迷わず頷いた。


「全部なんて求めてない。お前が見たもの、感じたものを、そのまま教えてくれればそれでいい」


 スルトラはしばらく黙ってシンを見つめ、それからふっと息を吐いた。


「……了解。じゃあ、勝手に喋る」


 ニールが、椅子の背にもたれたまま、わずかに身じろぎする。


「こっちも聞いてていいんだよな?」


「むしろ黙って聞いてろ」


「へいへい」


 ニールは肩をすくめ、口だけは軽く笑わせたまま、真面目な目でスルトラを見た。



「どこから話したもんか……」


 スルトラは、自分の右腕を一瞥した。  黒い線が皮膚の上を走り、その隙間からかすかな赤い光と黒い煙がにじむ。


「知っての通り、俺は神に取り憑かれてた時期がある」


 それはすでに聞いた言葉だ。  だが今は、その一言の重みが、以前とは段違いに感じられた。


「その時にな」


 スルトラは、こめかみを軽く指で叩く。


「神の意識と、少し混ざるっていうのか……あいつの記憶の断片が、時々流れてきたんだよ」


「記憶……?」


 シンが思わず問い返すと、スルトラは肩をすくめた。


「神が“思い出してる”って言ったほうが近いかもしれねぇな。あいつ自身も全部を理解してるわけじゃないんだろうが、それでも俺には見えた。感じた」


 そこでスルトラは、目を細めた。


「それで分かったんだが——あいつが産まれたのは、何百……いや、何千年前か。はっきりした数なんか分からねぇが、人間が石や棒を持って狩りをしてた頃だ」


 言葉と共に、スルトラの視線はどこか遠くへ向かう。


 炉の炎が、別の景色を映しているかのように揺れた。


「その頃の人間は、いつも死と隣り合わせだった。まぁ、当然だな。碌な寝床も医者もねぇ。飯だって、その日食えるかどうかの博打みたいなもんだ。怪我すりゃそのまま腐る。病気になりゃ祈るしかねぇ」


 スルトラの声は淡々としているが、その奥には生々しいものが滲んでいた。


「子どもは簡単に死ぬ。大人だって、ちょっと転べば骨が折れて、そのまま動けなくなって、獣に食われる。それが“普通”だった」


 室内の空気が、じわじわと冷たくなる。


「そんな人間が、皆、何を考えてたか分かるか?」


 スルトラが、テーブル越しにシンを見る。


「……いや」


 シンは首を振った。  答えは何となく想像がついたが、軽々しく口にしていいものではない気がした。


 代わりに、喉の奥で言葉を押し殺す。


 スルトラは、ほんの少しだけ口角を上げた。


「簡単さ。“死にたくねぇ”“生きたい”ってことだよ」


 その言葉は、驚くほど静かだった。


「腹が減っても。“生きたい”

 寒くて眠れなくても。“生きたい”

 家族が目の前で獣に喰われても、疫病で倒れても、自分だけは。“まだ死にたくねぇ”」


 炉の火がぱちりと鳴る。


「神はな。そんな人間の祈りから産まれた。人間の守り神だ」


 静かに、スルトラはそう言った。



「いやいや、それはおかしくねぇか?」


 沈黙を破ったのはニールだった。


 彼は片肘をテーブルに乗せ、眉をひそめる。


「生きてるもんは皆そう思うだろ? 動物だって同じだ。獣だって、魚だって、虫だって、自分から死にに行くやつはいねぇ。皆、生きたがる。……その理屈なら、神なんていくらでも産まれちまう」


「そうだな」


 スルトラはすぐに肯定した。


「その通りだ。そこだけ切り取れば、お前の言う通りだよ」


 そして、ニールをじっと見据える。


「ただ、人間と動物には違いがある」


「何だそれ?」


「言葉だよ」


 スルトラは短く答えた。


「お前らも聞いたり、実感したことがないか?」


 言いながら、彼女は指を一本立てる。


「前向きな発言ばっかりする奴は、妙に運が良かったり、成功を引き寄せたりする。逆に、後ろ向きなことばかり口にしてる奴は、どんどん落ちぶれていく。……そういう話」


 ニールが、思わず「う」と言葉を詰まらせた。


 心当たりはあるのだろう。


「祈りもそうだ。祈りの“言葉”ってのがあるだろ?」


 スルトラは続ける。


「『どうか助けてください』『どうか無事でありますように』……そんなのを、何度も何度も口にする。自分のために。家族のために。仲間のために」


 炉の炎が、ゆらゆらと揺れた。


「言葉にはな、力があるのさ」


 その一言に、シンの胸がぴくりと動いた。


 神父として祈りを教えていた頃の記憶。  教会で、信者たちに祈りの文句を唱えさせていた日々。  それが全部、神のための餌やりだったのだとしたら——


「……確かにな」


 ニールがぽつりと言う。


「“言った通りになる”って話は、村でもよく聞いた。

 『どうせ無理だ』って言い続けてた奴は、本当に何やっても駄目だったし……

 逆に『俺はやれる』ってうるさいくらい言ってた馬鹿は、いつの間にか何とかしてた」


「だろ」


 スルトラは軽く頷いた。


「それなら今も、いろんな神様が産まれてなきゃおかしくねぇんじゃねぇか?」


 ニールはそこで本題を投げた。


「今だって皆、『金が欲しい』『楽したい』『モテたい』って口にしてんだろ。

 それを言葉ってやつが拾うなら、欲望の数だけ神だか何だかが出来そうなもんだ」


「一人一人の言葉は、そんなに強くないさ」


 スルトラは即座に否定した。


「一人だけが何かを言葉にしたところで、神なんか産まれない。

 それでも、人ひとりの人生を変えるくらいの力はある。だが、世界を変えるほどじゃねぇ」


 そこで、スルトラはわざとらしく指を二本立ててから、それを折りたたんだ。


「当時はな——ほぼすべての人間が、『生きたい』と願ったんだよ」


 言葉が、部屋の空気を叩いた。


「ほんの一部じゃない。村一つとか国一つでもない。

 生きてる人間ほぼ全員が、“生きたい”“死にたくねぇ”って、毎日、毎瞬、頭の中で、口の中で、心の中で繰り返してた」


 スルトラの目に、遠い光景がよぎる。


「雨が降れば、『流されて死にたくねぇ』

 獣の声が聞こえれば、『喰われたくねぇ』

 腹が鳴れば、『飢えて死にたくねぇ』

 病が流行れば、『次は自分の番になりたくねぇ』」


 炉の炎がぱちぱちと音を立てる。


「数え切れねぇ数の“生きたい”が、世界中に渦巻いてたんだよ。

 祈りとも呼べねぇ、叫びに近い言葉がな」


 スルトラは片手をゆっくりと握った。


「そりゃあ——神ぐらい産まれるさ」


 その声は、淡々としていながら、どこか諦めにも似た響きを含んでいた。


「つまり、神の正体は」


 スルトラははっきりと言葉を区切った。


「『生への渇望』と言う概念そのものだ」



「概念……」


 シンはその言葉を、口の中で転がした。


 神は人だと思っていた。

 人を超えた何か。天から降りてきた存在。意志を持ち、感情を持ち、話し、笑い、怒り、選ぶ“誰か”。


 だが今、スルトラの口から語られたのは、それとは違う。


(生への渇望……)


 死にたくない。  生きたい。


 その感情は、シンにもよく分かる。  今この瞬間だって——あの三日間を越えた今だって——まだ死にたくないと思っている。


 だが、その感情が、積み重なって、凝り固まって、形を持った何かになる。


 それが、“神”。


(……そんなものが)


 胸の奥がざわめいた。  嫌悪とも、怒りともつかないざらついた感情。


「なんだそれ?」


 先に声を上げたのはニールだった。


 彼は両手を広げて、大げさに肩をすくめる。


「概念なんてどうすりゃいいんだよ?」


 半ば叫びだった。


「殴るのか? 斬るのか? 刺すのか? 焼くのか? どれもこれも“モノ”相手の話だろ。

 生への渇望? そんなもん、どこにいるんだよ。どこ殴りゃいいんだよ。どこに刃を突き立てりゃ死ぬんだ?」


 シンも、そこで胃のあたりをぎゅっと掴まれた気がした。


(神を殺す)


 そのために、生き残った。  半分魔獣になってまで、戻れない場所だらけになっても、それでもなお、生きることを選んだ。


 その「相手」が、“概念”などと言われてしまったら。


 スルトラは、そんな二人の顔を順番に見て、肩をすくめた。


「どうも出来ないさ」


 あまりにもあっさりとした言葉だった。


「切ったり殴ったり出来ない。それ以前に、どこにいるのかも分からねぇ。

 この世に存在してるのかどうかすら、はっきりしねぇからな」


 ニールが舌打ちする。


「それが出来りゃ、真っ先に殺してる」


 スルトラの口元に、かすかな苦笑いが浮かんだ。


「とっくの昔にな」


 室内に、再び沈黙が落ちる。


 炉の炎だけが、ぱちぱちと音を立てながら——

 “生きたい”という言葉の残響を、ゆっくりと舐めていた。

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