第35話 神の生まれ方
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
「——さて、話をしようか」
スルトラの声に、炉の炎が小さく揺れたように見えた。
シンは、膝の上で組んでいた手をぎゅっと握り直す。
「……神についてだ」
自分でも驚くほど、声はまっすぐに出た。
「神について知ってることを、教えて欲しい」
その言葉に、スルトラの視線がゆっくりとこちらを向く。
赤銅色の瞳が、炎を映して細く光った。
「だろうな……」
短く言って、スルトラはテーブルの端に腰を預けた。 腕を組み、顎を引き、少しだけ考えるように目を伏せる。
「ただ、先に言っとくが——俺が知ってるのは断片的なものだ。それでも良いか?」
「ああ」
シンは迷わず頷いた。
「全部なんて求めてない。お前が見たもの、感じたものを、そのまま教えてくれればそれでいい」
スルトラはしばらく黙ってシンを見つめ、それからふっと息を吐いた。
「……了解。じゃあ、勝手に喋る」
ニールが、椅子の背にもたれたまま、わずかに身じろぎする。
「こっちも聞いてていいんだよな?」
「むしろ黙って聞いてろ」
「へいへい」
ニールは肩をすくめ、口だけは軽く笑わせたまま、真面目な目でスルトラを見た。
◆
「どこから話したもんか……」
スルトラは、自分の右腕を一瞥した。 黒い線が皮膚の上を走り、その隙間からかすかな赤い光と黒い煙がにじむ。
「知っての通り、俺は神に取り憑かれてた時期がある」
それはすでに聞いた言葉だ。 だが今は、その一言の重みが、以前とは段違いに感じられた。
「その時にな」
スルトラは、こめかみを軽く指で叩く。
「神の意識と、少し混ざるっていうのか……あいつの記憶の断片が、時々流れてきたんだよ」
「記憶……?」
シンが思わず問い返すと、スルトラは肩をすくめた。
「神が“思い出してる”って言ったほうが近いかもしれねぇな。あいつ自身も全部を理解してるわけじゃないんだろうが、それでも俺には見えた。感じた」
そこでスルトラは、目を細めた。
「それで分かったんだが——あいつが産まれたのは、何百……いや、何千年前か。はっきりした数なんか分からねぇが、人間が石や棒を持って狩りをしてた頃だ」
言葉と共に、スルトラの視線はどこか遠くへ向かう。
炉の炎が、別の景色を映しているかのように揺れた。
「その頃の人間は、いつも死と隣り合わせだった。まぁ、当然だな。碌な寝床も医者もねぇ。飯だって、その日食えるかどうかの博打みたいなもんだ。怪我すりゃそのまま腐る。病気になりゃ祈るしかねぇ」
スルトラの声は淡々としているが、その奥には生々しいものが滲んでいた。
「子どもは簡単に死ぬ。大人だって、ちょっと転べば骨が折れて、そのまま動けなくなって、獣に食われる。それが“普通”だった」
室内の空気が、じわじわと冷たくなる。
「そんな人間が、皆、何を考えてたか分かるか?」
スルトラが、テーブル越しにシンを見る。
「……いや」
シンは首を振った。 答えは何となく想像がついたが、軽々しく口にしていいものではない気がした。
代わりに、喉の奥で言葉を押し殺す。
スルトラは、ほんの少しだけ口角を上げた。
「簡単さ。“死にたくねぇ”“生きたい”ってことだよ」
その言葉は、驚くほど静かだった。
「腹が減っても。“生きたい”
寒くて眠れなくても。“生きたい”
家族が目の前で獣に喰われても、疫病で倒れても、自分だけは。“まだ死にたくねぇ”」
炉の火がぱちりと鳴る。
「神はな。そんな人間の祈りから産まれた。人間の守り神だ」
静かに、スルトラはそう言った。
◆
「いやいや、それはおかしくねぇか?」
沈黙を破ったのはニールだった。
彼は片肘をテーブルに乗せ、眉をひそめる。
「生きてるもんは皆そう思うだろ? 動物だって同じだ。獣だって、魚だって、虫だって、自分から死にに行くやつはいねぇ。皆、生きたがる。……その理屈なら、神なんていくらでも産まれちまう」
「そうだな」
スルトラはすぐに肯定した。
「その通りだ。そこだけ切り取れば、お前の言う通りだよ」
そして、ニールをじっと見据える。
「ただ、人間と動物には違いがある」
「何だそれ?」
「言葉だよ」
スルトラは短く答えた。
「お前らも聞いたり、実感したことがないか?」
言いながら、彼女は指を一本立てる。
「前向きな発言ばっかりする奴は、妙に運が良かったり、成功を引き寄せたりする。逆に、後ろ向きなことばかり口にしてる奴は、どんどん落ちぶれていく。……そういう話」
ニールが、思わず「う」と言葉を詰まらせた。
心当たりはあるのだろう。
「祈りもそうだ。祈りの“言葉”ってのがあるだろ?」
スルトラは続ける。
「『どうか助けてください』『どうか無事でありますように』……そんなのを、何度も何度も口にする。自分のために。家族のために。仲間のために」
炉の炎が、ゆらゆらと揺れた。
「言葉にはな、力があるのさ」
その一言に、シンの胸がぴくりと動いた。
神父として祈りを教えていた頃の記憶。 教会で、信者たちに祈りの文句を唱えさせていた日々。 それが全部、神のための餌やりだったのだとしたら——
「……確かにな」
ニールがぽつりと言う。
「“言った通りになる”って話は、村でもよく聞いた。
『どうせ無理だ』って言い続けてた奴は、本当に何やっても駄目だったし……
逆に『俺はやれる』ってうるさいくらい言ってた馬鹿は、いつの間にか何とかしてた」
「だろ」
スルトラは軽く頷いた。
「それなら今も、いろんな神様が産まれてなきゃおかしくねぇんじゃねぇか?」
ニールはそこで本題を投げた。
「今だって皆、『金が欲しい』『楽したい』『モテたい』って口にしてんだろ。
それを言葉ってやつが拾うなら、欲望の数だけ神だか何だかが出来そうなもんだ」
「一人一人の言葉は、そんなに強くないさ」
スルトラは即座に否定した。
「一人だけが何かを言葉にしたところで、神なんか産まれない。
それでも、人ひとりの人生を変えるくらいの力はある。だが、世界を変えるほどじゃねぇ」
そこで、スルトラはわざとらしく指を二本立ててから、それを折りたたんだ。
「当時はな——ほぼすべての人間が、『生きたい』と願ったんだよ」
言葉が、部屋の空気を叩いた。
「ほんの一部じゃない。村一つとか国一つでもない。
生きてる人間ほぼ全員が、“生きたい”“死にたくねぇ”って、毎日、毎瞬、頭の中で、口の中で、心の中で繰り返してた」
スルトラの目に、遠い光景がよぎる。
「雨が降れば、『流されて死にたくねぇ』
獣の声が聞こえれば、『喰われたくねぇ』
腹が鳴れば、『飢えて死にたくねぇ』
病が流行れば、『次は自分の番になりたくねぇ』」
炉の炎がぱちぱちと音を立てる。
「数え切れねぇ数の“生きたい”が、世界中に渦巻いてたんだよ。
祈りとも呼べねぇ、叫びに近い言葉がな」
スルトラは片手をゆっくりと握った。
「そりゃあ——神ぐらい産まれるさ」
その声は、淡々としていながら、どこか諦めにも似た響きを含んでいた。
「つまり、神の正体は」
スルトラははっきりと言葉を区切った。
「『生への渇望』と言う概念そのものだ」
◆
「概念……」
シンはその言葉を、口の中で転がした。
神は人だと思っていた。
人を超えた何か。天から降りてきた存在。意志を持ち、感情を持ち、話し、笑い、怒り、選ぶ“誰か”。
だが今、スルトラの口から語られたのは、それとは違う。
(生への渇望……)
死にたくない。 生きたい。
その感情は、シンにもよく分かる。 今この瞬間だって——あの三日間を越えた今だって——まだ死にたくないと思っている。
だが、その感情が、積み重なって、凝り固まって、形を持った何かになる。
それが、“神”。
(……そんなものが)
胸の奥がざわめいた。 嫌悪とも、怒りともつかないざらついた感情。
「なんだそれ?」
先に声を上げたのはニールだった。
彼は両手を広げて、大げさに肩をすくめる。
「概念なんてどうすりゃいいんだよ?」
半ば叫びだった。
「殴るのか? 斬るのか? 刺すのか? 焼くのか? どれもこれも“モノ”相手の話だろ。
生への渇望? そんなもん、どこにいるんだよ。どこ殴りゃいいんだよ。どこに刃を突き立てりゃ死ぬんだ?」
シンも、そこで胃のあたりをぎゅっと掴まれた気がした。
(神を殺す)
そのために、生き残った。 半分魔獣になってまで、戻れない場所だらけになっても、それでもなお、生きることを選んだ。
その「相手」が、“概念”などと言われてしまったら。
スルトラは、そんな二人の顔を順番に見て、肩をすくめた。
「どうも出来ないさ」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
「切ったり殴ったり出来ない。それ以前に、どこにいるのかも分からねぇ。
この世に存在してるのかどうかすら、はっきりしねぇからな」
ニールが舌打ちする。
「それが出来りゃ、真っ先に殺してる」
スルトラの口元に、かすかな苦笑いが浮かんだ。
「とっくの昔にな」
室内に、再び沈黙が落ちる。
炉の炎だけが、ぱちぱちと音を立てながら——
“生きたい”という言葉の残響を、ゆっくりと舐めていた。
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