第34話 黒紫の木
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
次に目を開けたとき、世界はやけに静かだった。
炎のうねりも、骨を焼く痛みも、喉を裂く叫びも——何一つ、残っていない。 耳に届くのは、炉の残り火が時折ぱちりと弾ける音と、どこか遠くで水の滴る気配だけだ。
(……朝か)
すぐには確信出来なかったが、板の壁の隙間から差し込む光が、夜のそれではないことだけは分かる。 青とも白ともつかない淡い光が、薄く埃の舞う室内を照らしていた。
シンは、ゆっくりと瞬きをした。
瞼が重くない。 目の奥にこびりついていたはずの熱も、霞も、すっかり薄れている。
試しに、深く息を吸ってみた。
(……軽い)
胸の奥が、ひゅう、と綺麗に開く。 いつもは、肋骨の内側に錆びた釘でも打ち込まれているかのように、息を吸うたびどこかが軋んでいた。 今は、それがない。
肺いっぱいに冷たい空気が満ちて、それが何の抵抗もなく吐き出せる。
「……」
寝台の藁の上で、シンはしばらく天井を見上げていた。 粗末な木板。梁に巻き付けられた布。節目からのぞく古い染み。 昨日も、その前も、同じ景色を見ていたはずなのに——今は妙に輪郭がはっきりしている。
(本当に……生きてるのか)
胸に手を当てる。
心臓は確かに打っていた。 弱くもなく、早くもない。規則正しく、力強く。
あの地獄のような三日三晩のあとで。 血と炎に焼き尽くされる感覚のあとで。
それでも、今、自分はここにいる。
ゆっくりと、上体を起こす。
背中に走る筋肉が、素直に命令を聞いた。 腕に力を込めると、その力がきちんと骨と筋に伝わる。
思わず、自分の体に目を落とす。
痩せてはいる。だが、以前のように骨と皮だけというほどではない。 乾いた紙のようだった皮膚には、わずかながら血の気が戻り、筋張っていた腕には細いが確かな筋肉の線が浮かんでいた。
(こんな感覚……どれくらいぶりだ)
指を握り、開く。 掌の中に宿る熱は、黒粉のそれとは違った。焼けるような焦燥ではなく、じんわりと広がる体温だ。
立ち上がろうと膝に力を込める。 足元に置かれた粗い木の床板の冷たさが、裸足の裏からすぐ伝わってきた。
ふらつきは——ない。 頭が回らずに倒れそうになることもない。
「……」
寝台から立ち上がった瞬間、背中のどこかがじり、と熱を発した。
(……?)
胸でも腹でもない。もっと後ろ側、肩甲骨のあたり。 痛みではない。かといって、炉の熱とも違う。 じわじわと炭火に近づいたときのような、焦げる前の温度。
同時に、鼻先をかすめる匂いがあった。
(煙……?)
思わず振り返るが、炉の火は小さいままだ。煙がもうもうと上がっているわけでもない。 それなのに、確かに微かな焦げ臭さが鼻を刺してくる。
ゆっくりと息を吸い込む。 焚き火の煙とは違う。もっと細く、肌にまとわりつくような匂いだ。
(俺、から……?)
ばかな、と頭の隅で思いながら、シンは壁際に視線を向けた。 そこには、金属板が立てかけられている。磨かれてはいないが、かろうじて人影が映る程度には光を返している。
シンはその前まで歩き、服の裾と襟を乱暴に引き下げた。
金属板に映る背中を、角度を変えながら覗き込む。
「——なんだ、これは」
思わず声が漏れた。
自分の背の中央、背骨の線に沿うように、黒とも紫ともつかない濃い色の線が一本走っていた。 古い木の幹を思わせる、歪で、しかし一本芯の通った線。
そこから左右へ、枝分かれするように細い赤い線が伸びている。 枝のように絡み合いながら背中一面に広がっているが、どの線も途中で途切れず、幹へときちんと繋がっている。
黒紫の幹。 そこから生えた、焔を閉じ込めたような赤い枝。
そのどれもが、皮膚の下に焼き付けられたように浮き上がっており、ところどころ、線と線の隙間から黒い煙が細く立ちのぼっていた。
煙はすぐに空気に溶けて消えるが、背中の紋様そのものは消えない。 むしろ、呼吸に合わせるように、かすかに脈打っている。
(……木か?)
イメージとして浮かんだのは、何処かで見た、大木の枝ぶり。 ただし、その木は生きているのか死んでいるのか分からない。 幹は夜の色で、枝は燃え尽きる寸前の炭火のように赤く光る。
指先で触れようとして——シンは、寸前でやめた。
触れたら、焼ける。 そんな確信が、一瞬のうちに全身を駆け巡った。
皮膚の上にあるはずなのに、もっと深く、骨や血に絡みついている。 そんな「感触」が、目を通して、勝手に伝わってくる。
(前は……こんなもの、なかった)
当然だ。 今までの人生で、背中にこんな紋様が刻まれていた覚えはない。
(スルトラの腕……)
血の夜の記憶がよみがえる。 彼女の右腕に走っていた、焼け焦げた黒い線。 その隙間から赤い光が揺らめき、黒い煙が滲み出ていた様。
今、金属板に映る自分の背中は——あれとよく似ていた。
違うのは、線の形だ。 スルトラの腕は火傷のような乱雑な走り方だったが、シンの背中のそれは一本の幹から枝が伸びるように、ある程度の秩序を持って広がっている。
(あいつの血を……飲んだ)
喉がかすかに鳴る。 鉄と煙の味。内側から焼き直されるような苦しみ。 三日三晩、意識の底でのたうち回った炎。
あの結果が、これなのだとしたら——
「……」
シンは服を元に戻し、ゆっくりと背筋を伸ばした。 紋様はそこにある。 だが、今のところ、痛みはない。ただ、静かに、熱だけを宿している。
胸の奥に意識を向ける。 ざわめきは、遠かった。
神は、この近くにはいない。 そのことだけは、はっきりと分かる。
(外の空気を吸うか)
これ以上ここで考えていても、おかしな方向にしか転がらない。 シンはそう判断し、扉へ向かって歩き出した。
◆
扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
狭い窪地の上の空は、まだ朝の色を残している。淡い雲の切れ間から、弱々しい陽光が差し込んでいた。 岩と木々に囲まれたその底で、小さな集落はすでに動き始めている。
連れてこられたときと、同じ場所。 しかし、見える光景はまるで違っていた。
あのときは、皆どこか身を竦め、フードを深く被り、袖や布で体の一部を隠していた。 今は——隠していない。
窪地の中央付近では、焚き火の周りに数人が集まっていた。 鍋をかき混ぜる者。串に肉を刺す者。火の番をする者。 そのうちのひとり、背の高い男は両腕が肩口から先まで黒い岩のように硬化しており、指先は鋭い鉤爪になっていた。
水場の方では、女が桶を運んでいる。 足元から膝にかけては人間の脚だが、太ももの途中から先は鱗に覆われた魚の尾のように変化している。歩くたびに鱗がきしりと音を立て、水しぶきがわずかに蒸気となって立ちのぼる。
小屋の影では、子どもたちが石を蹴って遊んでいた。 片目だけが真っ黒になっている子。耳の先が獣のように尖っている子。背中に、未完成の翼のような突起が生えている子。 笑い声は普通の子どもと変わらないが、その影は明らかに「人の形」だけではなかった。
岩壁の近くで座り込んでいる老人の背中には、太い棘が何本も生えていた。
別の男は顔の半分が滑らかな仮面のように固まり、その無表情の半面と、もう半分の普通の顔とが奇妙な対比をなしている。
異形の度合いはさまざまだ。
ほぼ全身が魔獣のように変わってしまった者もいれば、手先や目の色だけが違うような者もいる。
だが——一つだけ共通していることがあった。
(スルトラより、みんな……)
誰もが、あの女よりも「魔獣寄り」だ。 スルトラの異形は、腕一本と、そこから漏れる炎の筋だけに見えた。 今目に入る連中は、誰もが彼女よりも体の変化が大きい。
シンは不意に立ち止まり、集落全体を見回してしまった。
その視線の重なりに気づいたのか、何人かがこちらを一瞥する。 敵意とまではいかないが、警戒の色を含んだ目。 すぐに視線をそらす者もいれば、興味深そうに見つめてくる子どももいる。
シンがどう振る舞うべきか決めかねていた、その時だった。
「……だから、あんまりじろじろ見るなっつっただろ」
背後から、少し呆れたような声が飛んできた。
振り向くと、スルトラが小屋の陰から歩いてくるところだった。
赤銅色の髪を後ろでざっくりと束ね、肩には浅い傷の走る革の鎧。
右腕には、例の黒い線がくっきりと浮かび、その隙間で赤い光がゆらゆらと揺れている。皮膚の表面からは、細い黒い煙が立ちのぼり、空気に溶けて消えていた。
「……悪い」
シンは素直に頭を下げた。
「慣れてねぇのは分かるが、見世物じゃねぇからな、あいつらは」
スルトラは肩をすくめ、窪地の連中を顎で示す。
「隠したって隠しきれねぇから、ここにいる。隠して生きる場所もねぇから、ここに集まった。……だからせめて、目だけは刺さねぇでやってくれ」
「分かった。気をつける」
シンがそう答えると、スルトラはじっと彼の顔を見つめた。
数呼吸ほどの沈黙のあと——彼女は口の端をわずかに持ち上げる。
「身体の調子はどうだ?」
シンプルな問いだった。
シンは胸に手を当てる。
「……驚くほどいい。正直、気味が悪いほどだ」
それでも、と続ける。
「久しぶりに、まともに息が出来る。立っているだけで骨が軋まないのも、ずいぶん久しぶりだ。……遅くなったけど、助けてくれてありがとう」
スルトラは鼻を鳴らした。
「良いってことよ」
言葉は軽いが、その目には少し安堵の色が見える。
「こっちも打算で助けたしな」
「……打算?」
シンは思わず聞き返した。
スルトラは一瞬だけ目を伏せ、それからまたシンを見た。
「そうだよ。あたしは慈善家でも聖女でもねぇ。こっちにも欲しいもんがあって、お前を生かした」
どこか投げやりな口調だったが、冗談ではないとすぐ分かる響きだった。
「詳しい話は後だ。他にも聞きたいことは山ほどあるだろうしな」
スルトラは背中をぽん、と叩いた。
背中の紋様がじり、と応えるように熱を帯びる。
「それより先にだ。飯にしよう。あれからまた長く寝てたから、腹も減ってるだろ?」
そう言われて初めて、腹の奥がぐう、と鳴った。 三日三晩の苦しみのあと、さらに眠り続けたのだ。体が燃料を求めているのも無理はない。
「……確かに」
シンは苦笑する。
「腹は、酷く減ってる」
「だろうな」
スルトラは窪地の入口の方をちらりと見やる。
「ニールもそろそろ帰ってくる頃だ。夜に仕掛けた罠の見回りに行ってる。ついでに獲物がかかってりゃ、今日の肉も増える」
スルトラはくるりと背を向け、小屋の方へ顎をしゃくった。
「さ、戻るぞ。外で立ったまま考え込んでも、ロクな答えは出ねぇ」
シンは頷き、スルトラの後に続いた。
◆
小屋の中は、朝の光のせいか少し広く感じられた。
炉には新しい薪がくべられ、弱い炎が静かに揺れている。
テーブルの上には木の皿と椀が三つ。壁際には干し肉が吊るされ、その隣の籠には芋や乾いたパンが無造作に入れられていた。
「そこ座ってろ」
スルトラが顎で丸太椅子を示す。
シンは言われた通り椅子に腰を下ろし、周囲を見回した。
昨夜まで、ここはただ痛みの渦の中で意識を失う場所でしかなかった。
今見れば、生活の匂いがする。
炉の前に置かれた毛皮。壁際の棚に並べられた木の器。
隅には簡素な道具箱があり、中には刃物や針、薬草を束ねたものが見えた。
(……ここで、あの三日を)
思い出しかけて、シンは考えるのをやめた。
代わりに、スルトラの動きに目を向ける。
彼女は芋を手際よく切り、鍋に投げ入れていく。
干し肉の束から何枚かはがし、これも小さく刻んで鍋へ。そこに水を注ぎ、炉の上にかけた。
火にかけられた鍋が、じわじわと温まり始める。 スルトラの右腕の黒い線が、炎に呼応するようにわずかに赤く明滅した。
その光景を見ていると、背中の紋様がかすかにうずく。 同じ種類の熱が、どこかで繋がっている——そんな感覚。
鍋から白い蒸気が立ち上り始めたころ、扉が軋む音がした。
「——お?」
ニールが入ってきた。
肩には紐で吊るされた小さな獣が一匹。
「目ぇ覚ましてんじゃねぇか」
ニールは獣を入口近くの壁に立てかけ、土で汚れた外套を軽く払った。
「体調はどうだ?」
「快調だよ」
シンは素直に答えた。
「こんなに楽に立てるのは、本当に久しぶりだ。……ニールにも、迷惑をかけた。すまない」
ニールは鼻を鳴らした。
「ホントだぜ。人生で一番濃密な時間だったよ」
その言い方は皮肉半分だが、笑いも混じっている。
「叫ぶわ泣くわ暴れるわ、最後は死んだみてぇに動かねぇわでよ。おかげで寝不足で頭が痛ぇ」
「……すまない」
シンが視線を落とすと、ニールは苦笑して片手を振った。
「お前が好きでやってたわけじゃねぇのは分かってるさ。文句があるなら、そこの火の女に言う」
「おい」
鍋をかき混ぜていたスルトラが、じろりと睨んだ。
「生かしたのは誰だと思ってんだ」
「はいはい、感謝してますよスルトラ様」
ニールは両手を上げて見せる。
「マジでな。こいつが息してんのは、お前の血のおかげだ。だからその鍋、俺の分は気持ち多めで頼む」
「図々しい奴」
そう言いながらも、スルトラの口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「話はそれぐらいにして、飯でも食おう」
鍋の蓋を少し開けると、芋と肉の煮えた匂いが一気に広がった。
簡素だが、空きっ腹にはこたえられない香りだ。
スルトラは木の匙で中身を混ぜ、頃合いを見て火から下ろす。 三つの椀に、芋と肉、そして熱い汁をたっぷりとよそい、テーブルの上に並べた。
「ほら。冷めねぇうちに食え」
シンの前にも、湯気を立てる椀が置かれる。
スープの表面に浮かぶ油の輪が、光を受けて揺れている。
芋はほろほろと崩れそうで、肉は少し固そうだが、匂いだけで唾液が出てきた。
「感謝します」
言葉を口にしてから、シンは自分で少し笑う。
(まだ、こういう言葉が出るのか)
神父だった頃の習慣が、体のどこかに残っていたらしい。
匙を取り、一口すくって口に運ぶ。
熱が舌を刺し、そのあとで芋の甘味と肉の塩気が広がる。 喉を通るとき、少しだけ痛みが走ったが、拒まれるような苦しさはない。
胃の奥に落ちていく感覚に、体が素直に「受け入れた」と頷いていた。
「どうだ」
向かいでスルトラが腕を組む。
「うまい」
シンは短く答えた。
「……本当に、うまい」
「そうか」
スルトラは少しだけ目を細め、自分の椀にも匙を入れた。
ニールはと言えば、既に半分ほど食べ進めている。
「三日寝込んで起きた直後とは思えねぇ食いっぷりだな」
「腹が減りすぎてた」
「そりゃそうだ」
ニールは芋を噛みながら言う。
「お前、地獄みてぇな三日過ごして、そのあと丸一日近く死体みたいに眠ってたからな。そりゃ腹も減る」
三人での食事は静かだったが、重苦しくはなかった。
ニールが罠の様子を少し話し、スルトラが必要な情報だけ拾っては短く返す。 外では、異形たちの話し声や笑い声がかすかに聞こえ、窪地の一日が動き出しているのが分かった。
シンは、自分の椀の中身が少しずつ減っていくのを眺めながら、身体の隅々に血と熱が巡っていくのを感じていた。
(生きてる)
何度目か分からないその実感が、今度は否定されなかった。
椀の底が見える頃には、体の芯の冷たさが和らいでいた。
固まっていた肩も、自然と力が抜ける。
「よし」
スルトラは自分の椀を空にすると、それらをまとめて棚の上に置いた。
水で軽くすすぎ、伏せておく。
炉の火に小さな薪を一本足すと、炎がふっと勢いを取り戻した。
その橙の光が、小屋の中をゆっくりと揺らしている。
スルトラは、テーブルにもたれかかるように立ち、二人の顔を順番に見た。
「さて——」
赤銅色の瞳が細められる。
「腹も膨れたし、頭も多少は回るだろう」
室内の空気が、ほんの少しだけ引き締まった。
シンは無意識に背筋を伸ばし、ニールも椅子の上で姿勢を正す。
炉の炎がぱちりと弾け、背中の紋様がじんわりと熱を帯びる。
スルトラは、短く息を吐いて言った。
「——さて、話をしようか」
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