第33話 半身の目覚め
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
闇の底から、ゆっくりと浮かび上がる感覚があった。
炎にくべられているような苦しみが途切れず永遠に続いた——ような気がする。
時間の感覚はとうに壊れていた。
叫んで、喉を潰して、意識が落ちて、また浮かび上がって、また燃やされて——その繰り返し。
だが今、ようやく、胸の中の焔がひとつ息をついたように静まっていた。
重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
「……ここは……」
かすれた声が、自分のものとは思えないほど遠く聞こえた。
見慣れない天井。粗末な板。隙間を布で塞いだ梁。
鼻に入るのは煙と血と、乾いた木の匂い。
(生きてる……のか?)
シンは、そこで初めて自分の胸に手を当てた。
心臓は、確かに打っている。
弱くもなく、異様に早くもなく——むしろ、以前よりも力強く、規則正しく。
体を起こそうとした瞬間、全身に違和感が奔った。
「……?」
痛み、ではない。
むしろ、その逆だ。
筋肉が軽い。
骨の軋みがない。
肋骨の内側でいつも張り付いていた重さが、嘘みたいに薄くなっている。
手を握る。
指先に、脂汗ではなく、熱が宿っている。
(……身体が……)
◆
木の扉が軋む音がした。
「……ん?」
外から差し込む光が、少し眩しい。
影が伸びて、中に入ってくる。
「——おい」
聞き慣れた声が、呆れたように、それでいて安堵を滲ませて響いた。
「起きてんのか、クソ神父」
ニールだった。
薄汚れた外套の裾には土がこびりつき、肩には細かい木屑が乗っている。外で何かしらの雑用をしていたのだろう。
だが顔は、珍しく心底ほっとしたような色を浮かべていた。
「……ニール」
シンが名を呼ぶと、ニールの目が見開かれる。
「おお、本当に目ぇ覚ましてやがる」
大股で近づいてきて、寝台の脇にしゃがみ込む。
「三日三晩だぞ。ずっと唸って暴れて、途中からは叫ぶ力もなくなって、それでも呻きっぱなしで……ここしばらくは、逆に死んだみてぇに動かなくなったからよ」
ニールは頭をかいた。
「正直、もう駄目かと思ってた」
三日——と聞かされても、実感はなかった。
だが、喉の奥のひび割れと、体の底に溜まった疲労だけは、それが嘘でないと告げている。
「……水……」
「ああ、分かってる。喉もカラカラだろうし、腹も減ってるはずだ」
ニールは立ち上がる。
「ちょっと待ってろ。水と何か腹に入るもん、持ってくる」
そう言って、小屋の奥の扉から出て行った。
残された静寂の中で、シンは改めて自分の体を確かめる。
指を開く。
掌を見つめる。
色は少し悪いが、乾いた紙のようだった皮膚は、いくらか肉を取り戻している。
筋張っていた腕にも、薄く筋肉の筋が浮いていた。
肩を回す。
背骨が鳴る——はずだったが、音はしない。
代わりに、関節が滑らかに動く感覚だけが残る。
(……これは本当に、俺の体か?)
胸の奥に意識を沈める。
あの、絶え間なく蠢いていたざわめき——神の気配を指し示す糸は、今は静かだった。
消えたわけではない。
遠くで、かすかに、霞の向こうで震えている。
近くに神はいない。
それだけが、はっきりと分かった。
◆
間もなく、再び扉が開く。
「よっ、と」
ニールが片手に桶、もう片手に皿を持って戻ってきた。
後ろからは、スルトラもついてきている。
スルトラは外套を着ていない。
半袖から伸びた右腕には、黒い線が焼き付いたように走り、その隙間で赤い光が微かに揺れている。
「ほら、水だ。少しずつ飲めよ」
ニールが桶から木の椀に水を汲み、シンの手に持たせる。
シンはゆっくりと口を付けた。
冷たい水が、ひび割れた喉を通って胃に落ちていく。
その感覚だけで、少し泣きそうになった。
続いて、皿の上のものを見下ろす。
固くなったパンと、塩で煮た芋。贅沢なものではないが、匂いだけで腹が鳴った。
「……ありがとう」
かろうじてそう言って、シンはパンをちぎる。
顎に力を込めると、思っていたよりも簡単に噛み千切れた。
(噛める……)
少し前まで、黒粉が切れた後の食事は拷問に近かった。
顎は重く、喉は食べ物を拒み、胃は受け付けなかった。
今は——痛みこそ残っているが、確かに食べ物として体が受け入れている。
「本当に生き延びやがったか」
スルトラが、感心したように鼻を鳴らした。
「気合だって言ったがな。正直、半分以上は諦めてたぞ」
シンは、食べる手を止めてスルトラを見る。
「……そうか」
「そうだ」
スルトラは腕を組み、じろじろとシンの全身を眺めた。
「ま、何にせよ——」
きっぱりと言う。
「生き延びたことには変わりねぇ。おめでとうと言うべきか、残念と言うべきかは迷うところだがな」
「残念……?」
シンが眉をひそめると、スルトラは口角だけで笑った。
「晴れてお前は、“普通の人間”じゃなくなった」
炉の火がぱち、と鳴る。
「いや、正確に言うなら——“半分だけ人間”だな」
「ちょっと待て」
先に反応したのはニールだった。
「どういう意味だ、それは」
「聞きてぇか?」
「当たり前だ。こっちは三日間こいつが死ぬかどうか見てたんだぞ」
ニールが食ってかかるような口調になると、スルトラは肩をすくめた。
「お前も言ってただろ」
視線をニールからシンへ移す。
「“体がぐちゃぐちゃに作り変えられたみてぇだ”ってな。
その通りだ。あの血の地獄を越えた時点で、お前の身体は実際に作り変えられた。——“半分、魔獣に”ってことだ」
シンの手が、膝の上で固まる。
「半分……魔獣……」
「そうじゃなきゃ、あの血に耐えられるはずがねぇ」
スルトラは淡々と言った。
「普通の人間なら、一口で焼き切れる。
骨も肉も、全部、内側から炭になる。
お前の場合は、すでに魔獣の血を浴びて、黒粉で誤魔化しながら生きてた。だから——」
スルトラは指で、二本の線を描くような仕草をする。
「人と魔獣の境目に、無理やり立たされてたんだよ。
そこに、俺の血をぶち込んだ。
人間のままなら死んでる。
魔獣になりきれなきゃ死んでる。
だが、お前はその真ん中を選んだ。……半分だけ、こっち側に足を踏み入れた」
シンは言葉を失った。
指先が、じんじんと熱い。
胸の奥に宿った新しい焔が、自分のものなのか、別の何かなのか分からない。
「……俺は」
絞り出す。
「もう、人間じゃなくなったのか」
問いは、思っていたよりも幼かった。
スルトラは首を横に振る。
「間違えるなよ」
いつになく真面目な声だった。
「半分は人間だ」
シンをまっすぐ見据える。
「お前の心も、記憶も、名前も、全部、人間のもんだ。
俺達みたいに体があからさまに異形化して、完璧に魔獣になったわけじゃねぇ。
見た目だって、今のところはほぼ人間だ。……目つきはちょっと悪くなったがな」
ニールが、そこでふっと笑いかける。
「そうだな。前より悪人ヅラになった」
「フォローになってねぇぞ、それ」
スルトラが苦笑する。
「ただ——」
言葉を継ぐ。
「これからも、黒粉は必要だろうな」
シンの喉が、ごくりと鳴る。
「……やっぱり、そうか」
「体の奥に食い込んだ魔獣の血と、今打ち込んだ俺の血と、お前自身の人間の部分。
それが綱引きしてる状態だ。
何も入れなきゃ、どっちかに引きずられて壊れる。
ただ、前みたいに“粗悪な粉”じゃなくて——きちんとしたやり方を考える必要はあるがな」
ニールが少し肩をすくめる。
「つまり、こいつは正式に“こっち側”の半分ってわけか」
「そういうこった」
スルトラはあっさり認めた。
「嫌なら今すぐ心の準備を変えろって言っても、もう遅い。
生き延びた時点で、お前は人間と魔獣の両方に片足突っ込んだ。
嫌でも、そのまま歩くしかねぇ」
シンは、自分の掌を見つめた。
拳を握る。
開く。
その動き一つ一つに、以前にはなかった重みと軽さが同居している。
力を入れれば、今までなら折れていたであろう骨が、しなやかに受け止める。
耳を澄ませば、小屋の外を吹く風の音や、遠くの焚き火の爆ぜる音まで拾える気がした。
(半分……魔獣)
神に近づくために。
神を殺すために。
ルナを取り戻す、あるいは、せめて——
そのために、ここまで堕ちたのだとしたら。
どこまでが、自分の選択だったのか。
分からない。
◆
「……まぁ」
スルトラが、唐突に声の調子を緩めた。
「今は難しいこと考えなくていい」
炉の火に薪を一本くべる。
「飯食って、寝ろ。それだけだ。三日も叫びっぱなしだったんだ。体も頭も、まともに動かねぇだろ」
ニールも頷く。
「そうだ。神がどうだの、魔獣がどうだのは、明日以降でいい。今は生きてるだけで上等だ」
ニールは皿を指でつついた。
「ほら、芋、もう少し食え。残したらもったねぇ」
「……ああ」
シンは頷き、少しずつ芋を口に運んだ。
味は薄い。だが、今はそれで十分だった。
皿が空になる頃には、体の芯に少しだけ熱と重みが戻っていた。
「よし」
ニールは皿と椀をまとめて持ち上げる。
「後は俺達が片付ける。お前は横になれ」
「本当に、今は何も考えるな」
スルトラが立ち上がり、外套を手に取る。
「考え始めると、どうせろくでもねぇ方向にしか行かねぇからな。……それは明日、喧嘩しながら決めてやる」
その言い方には、妙な明るさがあった。
「じゃあ、少し外の様子見てくる」
ニールが扉の方へ向かう。
「俺も行く」
スルトラも続く。
二人は扉の前で振り返った。
「シン」
ニールが片手を軽く上げる。
「生き返り、おめでとさん」
スルトラも、顎をしゃくった。
「半分こっちへようこそだ。——とりあえず、今日は寝ろ」
扉が軋み、外の光が一瞬差し込んでから閉じられる。
足音が遠ざかり、小屋の中には再び炉の音だけが残った。
◆
シンは、ゆっくりと寝台に身を横たえた。
藁のきしむ音。
背中に当たる感触。
それらがひどく鮮明だ。
(……半分、魔獣に)
スルトラの言葉が、頭の中で何度も反芻される。
(俺は、人間じゃなくなったのか)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
エマの顔が浮かぶ。
怒った顔も、笑った顔も。
あの夜の、血に濡れた顔も。
ルナの笑い声が、どこか遠くで響く。
あどけない笑い。
天使憑きになってからの、どこかぎこちない笑み。
(ルナ……)
スルトラは言った。
娘はもう助からない。
人間には戻れない。
天使憑きになった時点で、神に乗っ取られるか、魔獣になるかの二択だ、と。
(本当に、そうなのか)
喉の奥で、何かが引っかかる。
(何か……方法は、あるはずだ)
根拠はない。
だが、諦める言葉をそのまま呑み込むには、胸の中がうるさすぎた。
神のことも、まだ知らないことばかりだ。
スルトラは、神と繋がっていた時間が長いと言っていた。
天使憑きになりかけて、耐えて、魔獣になった。
なら——神の癖や心の動きも、人間よりは知っているはずだ。
(神のことも、もっと……聞かなきゃな)
血の味の記憶が、舌の奥で甦る。
鉄と煙と、熱。
今は、考えれば考えるほど頭が重くなるだけだ。
しかし、問いだけは残ったまま、胸に沈んでいく。
ルナをどうするか。
神をどう殺すか。
半分魔獣になった自分に、何ができるのか。
(今は——)
瞼が重くなる。
炉の火が、だんだんと遠くなる。
体の芯に残った疲労が、遅れて押し寄せてきた。
三日分の痛みと叫びが、一気に重りになってのしかかる。
(……少しだけ……寝る)
そう思ったところで、意識はふっと手を離された。
炎の音を子守歌に——
シンは、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
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