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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第33話 半身の目覚め

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。


 闇の底から、ゆっくりと浮かび上がる感覚があった。


 炎にくべられているような苦しみが途切れず永遠に続いた——ような気がする。

 時間の感覚はとうに壊れていた。

 叫んで、喉を潰して、意識が落ちて、また浮かび上がって、また燃やされて——その繰り返し。


 だが今、ようやく、胸の中の焔がひとつ息をついたように静まっていた。


 重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。


「……ここは……」


 かすれた声が、自分のものとは思えないほど遠く聞こえた。

 見慣れない天井。粗末な板。隙間を布で塞いだ梁。

 鼻に入るのは煙と血と、乾いた木の匂い。


(生きてる……のか?)


 シンは、そこで初めて自分の胸に手を当てた。


 心臓は、確かに打っている。

 弱くもなく、異様に早くもなく——むしろ、以前よりも力強く、規則正しく。


 体を起こそうとした瞬間、全身に違和感が奔った。


「……?」


 痛み、ではない。

 むしろ、その逆だ。


 筋肉が軽い。

 骨の軋みがない。

 肋骨の内側でいつも張り付いていた重さが、嘘みたいに薄くなっている。


 手を握る。

 指先に、脂汗ではなく、熱が宿っている。


(……身体が……)




 木の扉が軋む音がした。


「……ん?」


 外から差し込む光が、少し眩しい。

 影が伸びて、中に入ってくる。


「——おい」


 聞き慣れた声が、呆れたように、それでいて安堵を滲ませて響いた。


「起きてんのか、クソ神父」


 ニールだった。


 薄汚れた外套の裾には土がこびりつき、肩には細かい木屑が乗っている。外で何かしらの雑用をしていたのだろう。

 だが顔は、珍しく心底ほっとしたような色を浮かべていた。


「……ニール」


 シンが名を呼ぶと、ニールの目が見開かれる。


「おお、本当に目ぇ覚ましてやがる」


 大股で近づいてきて、寝台の脇にしゃがみ込む。


「三日三晩だぞ。ずっと唸って暴れて、途中からは叫ぶ力もなくなって、それでも呻きっぱなしで……ここしばらくは、逆に死んだみてぇに動かなくなったからよ」


 ニールは頭をかいた。


「正直、もう駄目かと思ってた」


 三日——と聞かされても、実感はなかった。

 だが、喉の奥のひび割れと、体の底に溜まった疲労だけは、それが嘘でないと告げている。


「……水……」


「ああ、分かってる。喉もカラカラだろうし、腹も減ってるはずだ」


 ニールは立ち上がる。


「ちょっと待ってろ。水と何か腹に入るもん、持ってくる」


 そう言って、小屋の奥の扉から出て行った。


 残された静寂の中で、シンは改めて自分の体を確かめる。


 指を開く。

 掌を見つめる。


 色は少し悪いが、乾いた紙のようだった皮膚は、いくらか肉を取り戻している。

 筋張っていた腕にも、薄く筋肉の筋が浮いていた。


 肩を回す。

 背骨が鳴る——はずだったが、音はしない。

 代わりに、関節が滑らかに動く感覚だけが残る。


(……これは本当に、俺の体か?)


 胸の奥に意識を沈める。

 あの、絶え間なく蠢いていたざわめき——神の気配を指し示す糸は、今は静かだった。

 消えたわけではない。

 遠くで、かすかに、霞の向こうで震えている。


 近くに神はいない。


 それだけが、はっきりと分かった。



 間もなく、再び扉が開く。


「よっ、と」


 ニールが片手に桶、もう片手に皿を持って戻ってきた。

 後ろからは、スルトラもついてきている。


 スルトラは外套を着ていない。

 半袖から伸びた右腕には、黒い線が焼き付いたように走り、その隙間で赤い光が微かに揺れている。


「ほら、水だ。少しずつ飲めよ」


 ニールが桶から木の椀に水を汲み、シンの手に持たせる。


 シンはゆっくりと口を付けた。


 冷たい水が、ひび割れた喉を通って胃に落ちていく。

 その感覚だけで、少し泣きそうになった。


 続いて、皿の上のものを見下ろす。

 固くなったパンと、塩で煮た芋。贅沢なものではないが、匂いだけで腹が鳴った。


「……ありがとう」


 かろうじてそう言って、シンはパンをちぎる。

 顎に力を込めると、思っていたよりも簡単に噛み千切れた。


(噛める……)


 少し前まで、黒粉が切れた後の食事は拷問に近かった。

 顎は重く、喉は食べ物を拒み、胃は受け付けなかった。

 今は——痛みこそ残っているが、確かに食べ物として体が受け入れている。


「本当に生き延びやがったか」


 スルトラが、感心したように鼻を鳴らした。


「気合だって言ったがな。正直、半分以上は諦めてたぞ」


 シンは、食べる手を止めてスルトラを見る。


「……そうか」


「そうだ」


 スルトラは腕を組み、じろじろとシンの全身を眺めた。


「ま、何にせよ——」


 きっぱりと言う。


「生き延びたことには変わりねぇ。おめでとうと言うべきか、残念と言うべきかは迷うところだがな」


「残念……?」


 シンが眉をひそめると、スルトラは口角だけで笑った。


「晴れてお前は、“普通の人間”じゃなくなった」


 炉の火がぱち、と鳴る。


「いや、正確に言うなら——“半分だけ人間”だな」


「ちょっと待て」


 先に反応したのはニールだった。


「どういう意味だ、それは」


「聞きてぇか?」


「当たり前だ。こっちは三日間こいつが死ぬかどうか見てたんだぞ」


 ニールが食ってかかるような口調になると、スルトラは肩をすくめた。


「お前も言ってただろ」


 視線をニールからシンへ移す。


「“体がぐちゃぐちゃに作り変えられたみてぇだ”ってな。

 その通りだ。あの血の地獄を越えた時点で、お前の身体は実際に作り変えられた。——“半分、魔獣に”ってことだ」


 シンの手が、膝の上で固まる。


「半分……魔獣……」


「そうじゃなきゃ、あの血に耐えられるはずがねぇ」


 スルトラは淡々と言った。


「普通の人間なら、一口で焼き切れる。

 骨も肉も、全部、内側から炭になる。

 お前の場合は、すでに魔獣の血を浴びて、黒粉で誤魔化しながら生きてた。だから——」


 スルトラは指で、二本の線を描くような仕草をする。


「人と魔獣の境目に、無理やり立たされてたんだよ。

 そこに、俺の血をぶち込んだ。

 人間のままなら死んでる。

 魔獣になりきれなきゃ死んでる。

 だが、お前はその真ん中を選んだ。……半分だけ、こっち側に足を踏み入れた」


 シンは言葉を失った。


 指先が、じんじんと熱い。

 胸の奥に宿った新しい焔が、自分のものなのか、別の何かなのか分からない。


「……俺は」


 絞り出す。


「もう、人間じゃなくなったのか」


 問いは、思っていたよりも幼かった。


 スルトラは首を横に振る。


「間違えるなよ」


 いつになく真面目な声だった。


「半分は人間だ」


 シンをまっすぐ見据える。


「お前の心も、記憶も、名前も、全部、人間のもんだ。

 俺達みたいに体があからさまに異形化して、完璧に魔獣になったわけじゃねぇ。

 見た目だって、今のところはほぼ人間だ。……目つきはちょっと悪くなったがな」


 ニールが、そこでふっと笑いかける。


「そうだな。前より悪人ヅラになった」


「フォローになってねぇぞ、それ」


 スルトラが苦笑する。


「ただ——」


 言葉を継ぐ。


「これからも、黒粉は必要だろうな」


 シンの喉が、ごくりと鳴る。


「……やっぱり、そうか」


「体の奥に食い込んだ魔獣の血と、今打ち込んだ俺の血と、お前自身の人間の部分。

 それが綱引きしてる状態だ。

 何も入れなきゃ、どっちかに引きずられて壊れる。

 ただ、前みたいに“粗悪な粉”じゃなくて——きちんとしたやり方を考える必要はあるがな」



 ニールが少し肩をすくめる。


「つまり、こいつは正式に“こっち側”の半分ってわけか」


「そういうこった」


 スルトラはあっさり認めた。


「嫌なら今すぐ心の準備を変えろって言っても、もう遅い。

 生き延びた時点で、お前は人間と魔獣の両方に片足突っ込んだ。

 嫌でも、そのまま歩くしかねぇ」


 シンは、自分の掌を見つめた。


 拳を握る。

 開く。

 その動き一つ一つに、以前にはなかった重みと軽さが同居している。


 力を入れれば、今までなら折れていたであろう骨が、しなやかに受け止める。

 耳を澄ませば、小屋の外を吹く風の音や、遠くの焚き火の爆ぜる音まで拾える気がした。


(半分……魔獣)


 神に近づくために。

 神を殺すために。

 ルナを取り戻す、あるいは、せめて——


 そのために、ここまで堕ちたのだとしたら。


 どこまでが、自分の選択だったのか。


 分からない。



「……まぁ」


 スルトラが、唐突に声の調子を緩めた。


「今は難しいこと考えなくていい」


 炉の火に薪を一本くべる。


「飯食って、寝ろ。それだけだ。三日も叫びっぱなしだったんだ。体も頭も、まともに動かねぇだろ」


 ニールも頷く。


「そうだ。神がどうだの、魔獣がどうだのは、明日以降でいい。今は生きてるだけで上等だ」


 ニールは皿を指でつついた。


「ほら、芋、もう少し食え。残したらもったねぇ」


「……ああ」


 シンは頷き、少しずつ芋を口に運んだ。

 味は薄い。だが、今はそれで十分だった。


 皿が空になる頃には、体の芯に少しだけ熱と重みが戻っていた。


「よし」


 ニールは皿と椀をまとめて持ち上げる。


「後は俺達が片付ける。お前は横になれ」


「本当に、今は何も考えるな」


 スルトラが立ち上がり、外套を手に取る。


「考え始めると、どうせろくでもねぇ方向にしか行かねぇからな。……それは明日、喧嘩しながら決めてやる」


 その言い方には、妙な明るさがあった。


「じゃあ、少し外の様子見てくる」


 ニールが扉の方へ向かう。


「俺も行く」


 スルトラも続く。

 二人は扉の前で振り返った。


「シン」


 ニールが片手を軽く上げる。


「生き返り、おめでとさん」


 スルトラも、顎をしゃくった。


「半分こっちへようこそだ。——とりあえず、今日は寝ろ」


 扉が軋み、外の光が一瞬差し込んでから閉じられる。

 足音が遠ざかり、小屋の中には再び炉の音だけが残った。



 シンは、ゆっくりと寝台に身を横たえた。


 藁のきしむ音。

 背中に当たる感触。

 それらがひどく鮮明だ。


(……半分、魔獣に)


 スルトラの言葉が、頭の中で何度も反芻される。


(俺は、人間じゃなくなったのか)


 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 エマの顔が浮かぶ。

 怒った顔も、笑った顔も。

 あの夜の、血に濡れた顔も。


 ルナの笑い声が、どこか遠くで響く。

 あどけない笑い。

 天使憑きになってからの、どこかぎこちない笑み。


(ルナ……)


 スルトラは言った。


 娘はもう助からない。

 人間には戻れない。

 天使憑きになった時点で、神に乗っ取られるか、魔獣になるかの二択だ、と。


(本当に、そうなのか)


 喉の奥で、何かが引っかかる。


(何か……方法は、あるはずだ)


 根拠はない。

 だが、諦める言葉をそのまま呑み込むには、胸の中がうるさすぎた。


 神のことも、まだ知らないことばかりだ。


 スルトラは、神と繋がっていた時間が長いと言っていた。

 天使憑きになりかけて、耐えて、魔獣になった。

 なら——神の癖や心の動きも、人間よりは知っているはずだ。


(神のことも、もっと……聞かなきゃな)


 血の味の記憶が、舌の奥で甦る。

 鉄と煙と、熱。


 今は、考えれば考えるほど頭が重くなるだけだ。

 しかし、問いだけは残ったまま、胸に沈んでいく。


 ルナをどうするか。

 神をどう殺すか。

 半分魔獣になった自分に、何ができるのか。


(今は——)


 瞼が重くなる。

 炉の火が、だんだんと遠くなる。


 体の芯に残った疲労が、遅れて押し寄せてきた。

 三日分の痛みと叫びが、一気に重りになってのしかかる。


(……少しだけ……寝る)


 そう思ったところで、意識はふっと手を離された。


 炎の音を子守歌に——

 シンは、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

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