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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第32話 血火の賭け

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。



 スルトラの「生きろ」という言葉が、まだ耳の奥で熱を持っていた。


 炉の火がぱちぱちと鳴る。

 シンの肩を押さえる手の熱が、じわりと伝わってくる。


「——で、ひとつ確認だ」


 スルトラが、あっさりと調子を変えた。


「どんな黒粉を使ってたんだ?」


 ニールが目を瞬いた。


「どんな、って……」


 腰袋をごそごそと探り、指先で硬い感触に触れる。

 取り出したのは、口の欠けた小さな瓶。

 中身は、もう残っていない。粉の名残が、底に薄く貼りついているだけだ。


「……空だが、これだ」


「それでいい」


 スルトラは瓶をひったくるように受け取ると、栓の残骸を指先でどけ、そのまま鼻先へ持っていった。


 くん、と短く吸い込む。


「……なるほどな」


 顔をしかめ、肩をすくめた。


「粗悪品だ」


「は?」


 ニールの眉が跳ね上がる。


「待て。粗悪はねぇだろ。俺が作ったんだぞ、それ」


「だからだよ」


 スルトラは瓶を机に置き、指で軽く弾いた。


「悪いが、鼻はごまかせねぇ。血の匂いが死んでる。乾きすぎだし、熱も抜けきってる。こんなもんでよく立ってたなってレベルだ」


「おいおい、馬鹿にするにも程がある」


 ニールの声に棘が混じる。


「原料はちゃんとしてる。魔獣の血だ。水で薄めてもねぇし、変な葉っぱも混ぜてない。俺が仕入れてるのは、血だけをそのまま乾かした“純物”だ。余計なもんは入れてねぇ」


「“純物”ね」


 スルトラは皮肉っぽく笑った。


「血はどこで仕入れてる?」


「街の裏。俺専用のルートだ。魔獣狩りの後に回収された血を、塊のまま持ってくる連中がいてな。それを乾かして砕いた物を買ってる。あとは俺が薬草混ぜて、黒粉にする」


「乾かすのは?」


「さあな。そいつらの仕事だ。天日に晒してるとは聞いたが」


 スルトラは、露骨にため息をついた。


「やっぱりな」


 指先で瓶の口をなぞりながら、続ける。


「血はな、“生きてるうち”が一番強い。次に、まだ温い間。乾かして砕いて、何度も売り手の手を渡ってきたもんなんざ——残ってる力なんて、たかが知れてる」


「……だからって、粗悪品はねぇだろ」


「悪いが事実だ。

 お前がやってるのは、“生ごみを香辛料で誤魔化す料理”みてぇなもんだ。味はそれなりでも、中身は腐りかけ、ってやつだ」


 ニールの口元が引きつる。


「こっちはそれで喰ってきたんだ。客から文句言われたこともねぇ。効き目だって——」


「普通の人間には、十分なんだろうよ」


 スルトラは遮った。


「だが、そこの神父は“普通”から外れてる。お前が言ったんだろ、“体の仕組みをぐちゃぐちゃにされた”ってな」


 視線がシンに落ちる。


 息は荒く、額には冷たい汗。

 それでも、さっきよりは幾分か呼吸が落ち着いている。スルトラが肩を押さえ、呼吸を合わせさせていたからだ。


「血を浴びたって話、本当か」


 スルトラが改めて確認する。


「森で……魔獣の血をかぶったらしい。頭からだ」


 ニールが答える。


「普通なら、その場で神殿送りか墓送りだろうよ。こいつは生き残ったが、その代わり——」


「魔獣の血が、体の中まで入り込んだ」



 ニールが苦笑する。


「だから、こいつは黒粉を入れねぇと動けねぇ。少しでも間が空くと、禁断症状が出て来ちまう……」


「それはな」


 スルトラは、瓶を指先でつまみ上げ、ひらひらと振った。


「“黒粉が弱いから”でもある。

 片足を深い沼に突っ込んだまま、浅い水たまりで洗い流そうとしてるようなもんだ。そりゃ、いつまでも足は重い」


 スルトラは瓶を棚の隅に放り投げた。

 中身のかすれた粉が、かしゃりと乾いた音を立てる。


「シンが血を浴びたってんなら、話が早い」


 スルトラの右腕の黒い線が、ぼうっと淡く光った。


「……何をする気だ」


 ニールが目を細める。


「決まってる」


 スルトラはあっさりと言った。


「俺の血を飲ませる」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「は?」


 ニールが間の抜けた声を出す。


「待て、それは——」


「気でも触れたか」と言いかけた言葉が、喉で絡まる。


「血を、そのまま、だと? そんなもん、強すぎるに決まって——」


「それは“普通の人間”の話だ」


 スルトラは即答した。


「こいつの場合は逆だ。今までのが弱すぎたんだよ。生の血を頭から浴びたくせに、あとで干からびた血の粉で繋いでりゃ、そりゃ体の方が混乱する。どっちへ行きたいのか分からねぇまま引き裂かれて、今みたいな状態になる」


 指先がテーブルを軽く叩く。


「だったら、一回はっきりさせてやった方がまだマシだ。血を浴びた時点で、もう“普通の黒粉”じゃ足りなくなる。

 本気でこっち側に引きずるか、そこで折れて死ぬか……どっちかだ」


「おい、縁起でもねぇことをさらっと言うな」


「事実だろ」


 スルトラはニールを見据えた。


「さっきお前が言った。

 “血と黒粉で体の仕組みをぐちゃぐちゃにされた”ってな。

 だったら、そのぐちゃぐちゃになった先で、どっか一ヶ所に落ち着かせてやる必要がある。

 今の半端な状態が、一番タチが悪い」


 言いながら、スルトラは炉の脇に立てかけてあった小さな短剣を手に取った。


「待て、まだ——」


 ニールが立ち上がる。


 その言葉を遮るように、スルトラが顎でシンを示した。


「お喋りしてる時間も、もうなさそうだぞ」


 シンの体が、びくりと跳ねた。


 さっきまで落ち着きかけていた呼吸が、突然乱れる。

 喉の奥から、空気をかき集めるような音が漏れた。


「……っ、は……」


 肺が空気を拒む。

 胸の内側で、熱と冷たさが同時に暴れ回る。

 骨が、内側からこじ開けられるように軋み、筋肉が勝手に引き攣る。


 視界の端が赤く染まり、次の瞬間には白く飛んだ。

 耳鳴りが、雷鳴のような轟きに変わる。


(——また、来る)


 黒粉が切れた後、何度か味わった地獄。

 だが、今度のそれは比べものにならなかった。


「シン!」


 ニールが肩を掴む。

 シンはテーブルにしがみつこうとしたが、指先に力が入らない。木の縁から手が滑り、膝が床に落ちた。


 胃の奥がひっくり返るような吐き気。

 だが吐くものは何もない。

 代わりに、喉の奥から熱い空気だけがこぼれる。


「息をしろ!」


 ニールの声が遠い。

 スルトラの掌が背中を殴るように叩く。


「まだだ、ここで止まるな」


 視界がぐにゃりと歪む。

 炉の火が伸びたり縮んだりを繰り返し、その輪郭が何度も重なっては千切れた。


(——うるさい)


 体の全部が、何かに引っ張られている。

 皮膚は剥がされそうで、骨は抜かれそうで、血は逆流しそうで、それでも心臓だけは構わず打ち続ける。


「……っ、あ、が……」


 声にならない音が漏れる。


「見ての通りだ」


 スルトラの声は冷静だった。


「ここで何もしなくても、いずれどこかで壊れる。なら——」


 短剣をくるりと回し、刃の向きを確かめる。


「——賭ける価値はある」


「……本気かよ」


 ニールは歯ぎしりをした。


「その血がどれだけ危ねぇか、お前が一番分かってんだろ」


「分かってるさ」


 スルトラは、にやりと笑った。


「だからこそ、だ」


 右手を持ち上げる。

 黒い線が走る手首のあたりに、短剣の刃を当てる。


「ちょっと待て!」


 ニールが一歩踏み出した。


「シンに選ばせ——」


「選ばせてる時間は、もうねぇ」


 スルトラの声が鋭くなった。


「お前も見てるだろ。そいつはもう、自分で自分の選択肢を握れてねぇ。今やらなきゃ、選ぶ前に落ちる」


 ニールは言葉を失った。


 床に倒れ込んだシンの体が、痙攣するように跳ねる。

 指先が床板を掻き、爪の間に木屑が入り込む。

 歯を食いしばったはずの口の隙間から、うめきとも叫びともつかない音が漏れ続ける。


「いや……」


 ニールの喉の奥から、小さな声が漏れた。


「……だったら、せめて——」


「支えてやれ」


 スルトラが短く言った。


「お前にできるのは、それだけだ」


 そして、自分の手首に刃を滑らせた。


 皮膚が開く感触は、驚くほどあっさりしていた。

 血が溢れ出す——普通なら、そうなるはずだった。


 だが、スルトラの血は“流れ出た”というより、“溢れた”と言った方が近かった。


 深い赤。

 ほとんど黒に近い、濃い色。

 炉の火を映しているわけでもないのに、表面が微かに光を帯びている。



「……気分のいいもんじゃねぇな」


 ニールが顔をしかめる。


「当たり前だ。やる方もやられる方も地獄だよ」


 スルトラは、開いた手首をシンの口元へ持っていく。


「シン」


 名を呼ぶ。


「聞こえるなら、噛みつけ」


 シンの瞼が、小さく震えた。

 聞こえているのかどうか、分からない。

 だが次の瞬間——


 ずるり、と首がわずかに持ち上がり、口がスルトラの手首へと寄っていった。


「よし、そのまま——」


 スルトラが言い終える前に、シンの唇が傷口に触れた。


 血の味が、口内に広がる。


 苦味。

 鉄の匂い。

 焦げた煙のような、鼻腔を焼く香り。

 それら全部が、一度に押し寄せる。


 舌が、反射的にそれを拒もうとした。

 だが、次の瞬間——


 喉が勝手に、血を飲み込んだ。


「——っ!」


 シンの体が、爆発したように跳ねた。


 中から火をつけられたような熱が、全身を駆け巡る。

 さっきまでの疼きや痛みとはレベルが違った。

 骨の一本一本に細い針を通され、その針に火をつけられたような感覚。


 視界が、真っ赤に染まる。

 炉の火も、スルトラも、ニールも、全部が赤い水の中に溶けていく。


「おい、押さえろ!」


 スルトラの叫びが、遠くで響く。


 ニールは我に返り、シンの肩と腕に覆いかぶさるようにして押さえつけた。

 暴れる力は、いつものシンの比ではない。

 痩せた体のはずなのに、筋肉が弾丸のように膨れ上がり、関節が軋んだ。


「くそっ、暴れんな!」


 ニールの腕がきしむ。

 押さえ込んだ肩の下で、筋肉が蛇のように蠢く。


 シンの喉から、獣とも人ともつかない咆哮が漏れた。


「——ああああああああああッ!!」


 手首から流れ込む血を、体の奥が貪る。


 細胞の一つ一つに火が移され、そのたびに何かが壊れては、別の何かに置き換わる。


 熱い。

 痛い。

 それだけでは足りない。


 自分という形そのものが、焼き直されている。


(やめろ——)


 心のどこかが叫んだ。

 だが、体は止まらない。

 血を拒めば、その場で壊れるだけだと本能が知っている。


「もっと飲め!」


 スルトラの声が飛ぶ。


「中途半端が一番まずい! 飲み切れ!」


 シンの顎が大きく開き、喉がまた血を飲み込む。

 胃の中が熱で膨れ、内臓が焼かれるような苦痛が走る。


 ニールの腕に、汗と血と熱がべったりと張り付いた。


「死ぬなよ、クソ神父……!」


 ニールは歯を剥き出しにし、肩に体重をかける。


 スルトラの手首から流れ出る血は、やがて細くなり——止まった。


 傷口の周りが、赤く光を帯び始める。

 焼け焦げたような黒い線がじわりと広がり、その中で肉が蠢き、裂け目を内側から縫い閉じていく。


 数呼吸の間に、ぱっくりと開いていた傷は、細い白い線を残すだけになった。


「……毎度のことだが」


 スルトラは軽く手首を振った。

 血の匂いが室内に充満している。


「我ながら気持ち悪いな…」


 シンの体はまだ暴れていた。

 床板がきしみ、寝台の脚がずれ、テーブルの上の器が落ちて割れる。


 ニールはそれでも離さない。


「落ち着け! 今ここで暴れ死にしたら、全部無駄だぞ!」


 シンの目は、すでに何も映していなかった。

 白目が血で滲み、瞳だけが獣のように細く光っている。


「今夜が山だ」


 スルトラが低く言った。


「ここを越えられるかどうかは、お前次第だ。……気合い入れろよ、神父」


 炉の火が、まるでそれに応えるように、ぼうっと勢いを増した。

 血と煙と熱に満ちた小屋の中で——シンの叫びだけが、いつまでも止むことなく続いていた。

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