第31話 異形
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
外套の女の背は、山道を選ぶのに迷いがなかった。
踏み固められた道ではない。人の気配を避けるように、獣道と岩の隙間ばかりを選んで進む。枝が顔に当たり、靴は泥に沈む。それでも女は振り返らず、一定の歩調を崩さない。
黒粉の最後の一回分は、すでに体に吸い込まれている。筋肉はまだ動いたが、その奥で、何かがじわじわと軋んでいた。
胸のざわめきは、遠い。
さっきまで耳を塞ぎたくなるほど近くにあったそれが、今は霧の向こうにぼやけている。
神は、ここにはいない。
それだけが、かろうじて救いだった。
◆
どれくらい歩いたか分からない頃、急に視界がひらけた。
山の斜面がえぐれたような窪地。
周囲を高い岩と木々が囲んでいるため、外からは見えにくい。谷底ほど深くもなく、崖ほど開けてもいない、その中途半端な窪みの底に——家々があった。
といっても、きちんとした村というほどではない。
粗い板を組んだだけの小屋。岩陰にめり込むように建てられた半地下の穴。布と枝で簡単に覆っただけの掘っ立て小屋。それが十軒あるかどうか。
煙が上がっている。
火の匂いと、焼いた肉の匂い。
そして、獣のような匂い。
外套の女が窪地の縁で足を止めた。
「ここだ」
短くそう言って、躊躇なく斜面を降りていく。
シンとニールも後に続いた。
窪地の中には、人影がいくつかあった。
水場で桶を洗っている者。
焚き火のそばで何かを炙っている者。
子どもらしき小さな影もいる。
一見すれば、ただ暮らしているだけの人間の集まり。
——だが、近づくほどに、違和感が濃くなった。
焚き火の前に座る男の首筋には、黒い筋のようなものが浮き出ている。皮膚の下で炎が固まったような模様が、脈に合わせてわずかに脈打っていた。
水場の子どもは、袖の隙間から覗く手の甲に細かい鱗が混ざっている。指先は人間の形だが、爪が異様に厚く尖っていた。
通り過ぎた女はフードを深く被っていて顔は見えないが、裾から伸びた足首は片方だけ毛に覆われ、獣のような関節の曲がり方をしていた。
シンは思わず足を止めかけた。
ニールも、眉をひそめて笑いも皮肉も引っ込めている。
(……人、か?)
身体の半分だけ、何か別のものにすり替えられたような姿。
——異形——そうとしか表現出来ない。
「じろじろ見るな」
前を行く外套の女が、短く釘を刺した。
「ここにいる連中は、見られることに慣れてねぇ。武器沙汰になっても面倒だ」
「……悪かった」
シンは視線を落とした。
異形の者達は、こちらをちらりと見るだけで、近寄ってはこない。
警戒はしているが、襲いかかってくる気配はない。
何人かは女の背中を一瞥し、そのまま視線をそらした。
認められている——そんな空気だった。
◆
窪地の奥、岩肌に半ば埋まるように建った小屋の前で、女は足を止めた。
他の小屋より少しだけ大きい。
扉は厚く、隙間風を防ぐためか、外側からも布が巻かれている。
「入れ」
女は振り向きもせずに言い、先に扉を押し開けた。
中は暗かった。
だが、奥の炉に小さな火が点いていて、目が慣れると狭い室内が見えてくる。
壁際に粗末な棚と、木のテーブル。
藁を詰めた寝台が二つ。
床に敷かれた毛皮。
装飾らしいものは何もないが、殺風景というほどでもない。
「腰、下ろせ。」
女は外套を脱ぎ、入口のフックに掛けた。
やっと、その姿がはっきり見えた。
髪は赤銅色。短く切り揃えられ、首の後ろでざっくりと束ねられている。目は琥珀色で、火を見る獣のようによく光る。
右腕だけ、肘から先の輪郭が少しおかしい。
皮膚の上に焼け焦げたような黒い線が走り、その隙間から赤い光が揺らめいている。指は人の形だが、関節がわずかに長すぎる。拳を握るたび、指の間から薄い熱が漏れるのが分かった。
それ以外は、ほとんど人間と変わらない。
「さっきは悪かったな。ああでもしねぇと、ここは守れねぇ」
女は炉の前の丸太に腰を下ろし、顎で向かいを示した。
「座れ。話をしよう」
シンとニールはテーブルを挟んで座る。
女はしばらく二人を眺め、口を開いた。
「まずは名前からだな。俺はスルトラ。ここをまとめてる」
「まとめてる?」
「長とか、頭とか、好きに呼べ。そんな大層なもんじゃねぇ」
スルトラは肩をすくめた。
「お前らは?」
「……シンだ。名字は、もういらない」
シンが短く名乗ると、ニールも続いた。
「ニール。元聖騎士、今は何でも屋だ」
「元聖騎士、ね」
スルトラの口元が、わずかに歪む。
笑いとも皮肉ともつかない表情だった。
「で、山の裏道ばっかり選んで歩く、黒粉の匂いべったりの神父と、その元聖騎士が、何でこんなとこまで流れてきた?」
「長くなる。順を追って話すと日が暮れる」
「構わねぇよ。ここには時計なんかねぇ」
スルトラはそう言いつつも、先に別のことを確かめるように、視線を窓の方へ向けた。
「——その前に、一つ聞きたい」
ニールが先に口を開いた。
「あんたの仲間たちだがよ」
窪地で見た者達の姿が、脳裏に浮かぶ。
「あれは……病気って感じじゃねぇ。生まれつきとも違う。何なんだ?」
スルトラはしばらく黙っていた。
右手の指先で、炉の火を弄ぶ。
指からわずかに漏れた火花が、薪の表面を舐めて消えた。
「ここにいるのは、全部」
ゆっくりと言う。
「お前らの言う“魔獣”だ」
空気が、わずかに重くなった。
「……冗談だろ」
ニールが引きつった笑いをこぼした。
「魔獣ってのはな。人間の言葉なんざしゃべらねぇ。獣みてぇに唸って、稀に人を襲う奴しか知らねぇ。」
「見たことがあるのか?」
「あるさ」
ニールの声は低かった。
「戦場でな。聖騎士団にいた頃、森一帯を焼き払って、魔獣の群れを狩り出した。目の前で人間を引きちぎってる奴も見た」
シンも、村での光景を思い出していた。
黒い血。
歪んだ躯。
動く何か。
「あんなのとは、違う」
スルトラは、あっさり否定した。
「いや、違わねぇな。もっと正確に言うなら——“あれも同じだ”」
スルトラは自分の右腕を見下ろした。
指先から、かすかな炎が滲む。皮膚の下で何かが蠢いている。
「お前らが森や山で見た“魔獣”は、侵食が進みすぎた連中だ。理性を手放したか、手放すしかなかったか、そんなところだ。ここにいるのは、その一歩手前で何とか踏みとどまった奴らの残りだよ」
ニールが息を呑む。
「つまり——」
「そう。ここにいるのは全部、“元は人間”だ」
スルトラの声には、飾りがなかった。
「元は、天使憑きだ。あるいは、その候補だった連中。神に“選ばれて”、体を乗っ取られかけた奴らだな」
シンの手が、無意識に膝の上で握り締められる。
「天使憑きが……魔獣に?」
「当たり前だろ」
スルトラは鼻で笑った。
「神に選ばれて、奇跡を振るって、称えられて——それで終わるんだったら、こんなものは生まれてねぇ」
右腕の炎の筋が、ぱちりと鳴る。
「神が中に入り込む。
そいつの心を塗り潰す。
喜びでも、感謝でも、信仰でもなく、ただ“都合のいい器”になるまで。
……その途中で、抵抗した奴らがいる。嫌だ、出ていけ、殺してやるって、最後まで足掻いた奴らがな」
スルトラは自分の胸を、軽く叩いた。
「そいつらが、魔獣になる。神が飽きて出ていった後に、壊れかけの体と心だけが残る。ここにいるのは、その残りカスだ」
沈黙が落ちた。
シンの喉が、ひりつく。
天使憑き。
ルナ。
村で喋っていた“神”。
魔獣。
「……魔獣は、元は天使憑き」
シンが絞り出すと、スルトラは頷いた。
「そうだ。そして天使憑きも、元は人間だ。だから天使も魔獣も人間、ってだけの話だよ」
当たり前のように言われたその一言が、やけに重かった。
◆
「で——」
スルトラは右手の火を消し、二人を見た。
「お前らは、何で神を憎んでる?」
唐突だったが、問い自体ははっきりしていた。
ニールが先に口を開けかけたが、シンが先に声を出した。
「……娘を、連れていかれた」
言葉にした瞬間、喉の奥が焼けたように熱くなる。
「ルナって女の子だ。俺の娘だ。神の家で天使憑きにされて……、連れてかれた」
エマの叫び。
ルナの笑顔。
黒い血の匂い。
全部が胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合う。
「妻も、殺された。……神の仕業だ」
最後の一言は、声になっているのか自分でも分からないほど低かった。
スルトラの瞳の色が、わずかに沈む。
「……そうか」
短く呟き、視線をニールへ移した。
「お前は?」
「俺か」
ニールは苦笑した。
「最初は巻き込まれただけだよ。黒粉をばら撒いて、それで食ってて、その途中で妙な神父に出会った。そいつの娘が天使憑きになって、神も出てきて——気づいたら一緒に逃げてた」
そこまでは、投げやりな調子だった。
だが、次の一言だけは声の色が変わった。
「ロランを殺した奴は、許せねぇ」
炉の火が、ぱち、と鳴る。
「聖騎士の英雄様。中身は知らねぇが、あいつの剣でロランは死んだ。昔に少し荷運びしただけだ。それからは炭焼きで生きてきて、足を潰されて、それでも黙って働いてきた男だ。最後に少しだけ“正しいこと”したからって、何でそこで終わりなんだよ」
唇が震えるのを、ニールは笑いで誤魔化した。
「だから、憎い。以上だ」
スルトラは二人の顔を順番に見た。
「神に乗っ取られると、どうなるか知ってるか」
今度は、先ほどより低い声だった。
「……天使憑きになる」
シンが答えると、スルトラは首を横に振る。
「違う。二択だ」
右手の指先が、わずかに光る。
「一つは、お前らの知ってる“天使憑き”。
全部を受け入れて、自分を明け渡して、神の都合のいい口と手と足になる。英雄だの、聖女だの、立派な肩書きがつく方だな」
もう一つ。
「もう一つは——あたしらみたいな“魔獣”。
最後まで抵抗して、必死で拒んで、壊れかけのまま残る。理性が残るかどうかは、運としぶとさ次第だ」
スルトラは、シンをまっすぐに見た。
「…つまりお前の娘は、神に見初められた時点で天使か魔獣の2択だ。」
シンの心臓が、どくりと大きく跳ねた。
「だから——」
スルトラの言葉は、刃よりも冷たかった。
「もう娘さんは、助からない」
室内の空気が、一瞬、音を失った。
「……何だと」
シンの声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「取り返しはつかないって言ってんだ。
神に乗っ取られて、器として“完成”した天使憑きは、人間に戻らない。人の記憶や振る舞いが残ってたとしても、それは神が被ってる皮みたいなもんだ。中身はもう——」
そこまで言いかけたところで、椅子が鳴った。
シンが立ち上がっていた。
「ふざけるな」
自分でも抑えきれない声だった。
「ルナは——まだ笑ってた。俺のこと、覚えてた。あれが全部、嘘だって言うのか。神の真似事だって言うのか」
「落ち着け」
ニールが立ち上がりかける。
「落ち着けるか!」
怒鳴った瞬間、胸の奥で何かが裂けた。
熱。
痛み。
心臓を握られたような圧迫。
「っ……!」
膝が笑う。
視界の端が白く霞んだ。
シンは喉を押さえ、テーブルに手をついた。
「来たな」
スルトラの声が遠くで聞こえる。
「……黒粉の禁断症状だ」
「さっき一回分入れたばかりだ。まだ早ぇだろ」
ニールが焦ったように言う。
「もう、体の方が限界なんだろうよ。普通の中毒とは別の段階に入ってる」
スルトラが立ち上がり、シンの肩を押さえた。
その掌は熱かった。だが、黒粉の熱とは違う種類の熱だ。
「呼吸しろ。吸って、吐け。……テーブルひっくり返すなよ、貴重なんだ」
冗談めかした口調だったが、押さえる手はしっかりしていた。
「……何で、こいつは黒粉なんか使った」
スルトラがニールを見上げる。
「最初は——事故だ」
ニールは肩で息をしながら答えた。
「森で、魔獣の血をまともに浴びた。頭からだ。普通なら死んでる量だ。だがこいつは生き残った。」
スルトラの目が細められる。
「血を浴びた、ね」
「ああ。だから、こいつは黒粉を使わねぇと、半分死んだみてぇな状態になる。血と黒粉で、体の仕組みをぐちゃぐちゃにされたんだよ」
シンの喉の奥から、ひゅうひゅうという音が漏れる。
胸の内側で何かが暴れ、骨を内側から軋ませていた。
「黒粉は?」
「……もう、ない」
ニールが短く答えた。
「俺の分も、あいつの分も。最後の一回は、さっき使った。今残ってんのは、壊れた瓶の欠片くらいだ」
「そうか」
スルトラはシンの顔を覗き込んだ。
汗で髪が額に貼り付き、唇は血の気を失っている。
それでも、目だけはまだ燃えていた。
「娘さんが手遅れかもしれねぇって話をした直後に、これか」
スルトラは小さく息を吐いた。
「……シン」
名を呼ぶ。
「聞こえるか」
シンはかろうじて頷いた。
喉を締め付ける痛みの合間に、声を絞る。
「……聞こえる」
「いいか。娘さんは——あたしの見立てじゃ、もう人間としては戻らねぇ。取り戻せって言われても、方法なんか知らねぇ」
シンの胸が再び軋む。
だがスルトラは、そこで言葉を切らなかった。
「それでもだ」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに刺さる。
「お前自身はどうする。娘さんが手遅れかもしれなくても、まだ生きる意志はあるか?」
問いはシンプルだった。
逃げ場のない問いだった。
エマの顔。
ルナの笑顔。
ロランの死体。
神の笑い声。
全部が胸の中で溶け合って、ひと塊の痛みになる。
(……終わらせたい)
一瞬だけ、そんな弱い考えがよぎる。
楽になりたい。
全部投げ出して、何も感じたくない。
だが、そのすぐ後ろを、別の声が押しのけた。
(それでも、まだ——)
ルナが笑っていた顔。
あの夜、確かに自分を見ていた瞳。
「……まだ」
シンは歯を食いしばり、言った。
「まだ……諦めない」
喉が焼ける。
胸が痛む。
それでも、言葉は出た。
「ルナが……もう戻らないって言われても、神を……殺したくなるだけだ。俺は、まだ生きて……そいつの首を、絞めたい」
スルトラの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「よし」
短く、それだけ言った。
「だったら——まだ話すことがある」
炉の火が、ぱち、と勢いを増した。
「お前が生き延びれるかどうかは賭けだ。先ずは抗え。生きろ!」
シンの胸の痛みは、まだ消えない。
だが、その奥に、別の熱がじわじわと灯り始めていた。
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