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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第31話 異形

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

 外套の女の背は、山道を選ぶのに迷いがなかった。

 踏み固められた道ではない。人の気配を避けるように、獣道と岩の隙間ばかりを選んで進む。枝が顔に当たり、靴は泥に沈む。それでも女は振り返らず、一定の歩調を崩さない。


 黒粉の最後の一回分は、すでに体に吸い込まれている。筋肉はまだ動いたが、その奥で、何かがじわじわと軋んでいた。

 胸のざわめきは、遠い。

 さっきまで耳を塞ぎたくなるほど近くにあったそれが、今は霧の向こうにぼやけている。


 神は、ここにはいない。


 それだけが、かろうじて救いだった。



 どれくらい歩いたか分からない頃、急に視界がひらけた。


 山の斜面がえぐれたような窪地。

 周囲を高い岩と木々が囲んでいるため、外からは見えにくい。谷底ほど深くもなく、崖ほど開けてもいない、その中途半端な窪みの底に——家々があった。


 といっても、きちんとした村というほどではない。

 粗い板を組んだだけの小屋。岩陰にめり込むように建てられた半地下の穴。布と枝で簡単に覆っただけの掘っ立て小屋。それが十軒あるかどうか。


 煙が上がっている。

 火の匂いと、焼いた肉の匂い。

 そして、獣のような匂い。


 外套の女が窪地の縁で足を止めた。


「ここだ」


 短くそう言って、躊躇なく斜面を降りていく。

 シンとニールも後に続いた。


 窪地の中には、人影がいくつかあった。

 水場で桶を洗っている者。

 焚き火のそばで何かを炙っている者。

 子どもらしき小さな影もいる。


 一見すれば、ただ暮らしているだけの人間の集まり。

 ——だが、近づくほどに、違和感が濃くなった。


 焚き火の前に座る男の首筋には、黒い筋のようなものが浮き出ている。皮膚の下で炎が固まったような模様が、脈に合わせてわずかに脈打っていた。

 水場の子どもは、袖の隙間から覗く手の甲に細かい鱗が混ざっている。指先は人間の形だが、爪が異様に厚く尖っていた。

 通り過ぎた女はフードを深く被っていて顔は見えないが、裾から伸びた足首は片方だけ毛に覆われ、獣のような関節の曲がり方をしていた。


 シンは思わず足を止めかけた。

 ニールも、眉をひそめて笑いも皮肉も引っ込めている。


(……人、か?)


 身体の半分だけ、何か別のものにすり替えられたような姿。

 ——異形——そうとしか表現出来ない。


「じろじろ見るな」


 前を行く外套の女が、短く釘を刺した。


「ここにいる連中は、見られることに慣れてねぇ。武器沙汰になっても面倒だ」


「……悪かった」


 シンは視線を落とした。


 異形の者達は、こちらをちらりと見るだけで、近寄ってはこない。

 警戒はしているが、襲いかかってくる気配はない。

 何人かは女の背中を一瞥し、そのまま視線をそらした。


 認められている——そんな空気だった。



 窪地の奥、岩肌に半ば埋まるように建った小屋の前で、女は足を止めた。

 他の小屋より少しだけ大きい。

 扉は厚く、隙間風を防ぐためか、外側からも布が巻かれている。


「入れ」


 女は振り向きもせずに言い、先に扉を押し開けた。


 中は暗かった。

 だが、奥の炉に小さな火が点いていて、目が慣れると狭い室内が見えてくる。

 壁際に粗末な棚と、木のテーブル。

 藁を詰めた寝台が二つ。

 床に敷かれた毛皮。

 装飾らしいものは何もないが、殺風景というほどでもない。


「腰、下ろせ。」


 女は外套を脱ぎ、入口のフックに掛けた。


 やっと、その姿がはっきり見えた。


 髪は赤銅色。短く切り揃えられ、首の後ろでざっくりと束ねられている。目は琥珀色で、火を見る獣のようによく光る。

 右腕だけ、肘から先の輪郭が少しおかしい。

 皮膚の上に焼け焦げたような黒い線が走り、その隙間から赤い光が揺らめいている。指は人の形だが、関節がわずかに長すぎる。拳を握るたび、指の間から薄い熱が漏れるのが分かった。


 それ以外は、ほとんど人間と変わらない。


「さっきは悪かったな。ああでもしねぇと、ここは守れねぇ」


 女は炉の前の丸太に腰を下ろし、顎で向かいを示した。


「座れ。話をしよう」


 シンとニールはテーブルを挟んで座る。

 女はしばらく二人を眺め、口を開いた。


「まずは名前からだな。俺はスルトラ。ここをまとめてる」


「まとめてる?」


「長とか、頭とか、好きに呼べ。そんな大層なもんじゃねぇ」


 スルトラは肩をすくめた。


「お前らは?」


「……シンだ。名字は、もういらない」


 シンが短く名乗ると、ニールも続いた。


「ニール。元聖騎士、今は何でも屋だ」


「元聖騎士、ね」


 スルトラの口元が、わずかに歪む。

 笑いとも皮肉ともつかない表情だった。


「で、山の裏道ばっかり選んで歩く、黒粉の匂いべったりの神父と、その元聖騎士が、何でこんなとこまで流れてきた?」


「長くなる。順を追って話すと日が暮れる」


「構わねぇよ。ここには時計なんかねぇ」


 スルトラはそう言いつつも、先に別のことを確かめるように、視線を窓の方へ向けた。


「——その前に、一つ聞きたい」


 ニールが先に口を開いた。


「あんたの仲間たちだがよ」


 窪地で見た者達の姿が、脳裏に浮かぶ。


「あれは……病気って感じじゃねぇ。生まれつきとも違う。何なんだ?」


 スルトラはしばらく黙っていた。

 右手の指先で、炉の火を弄ぶ。

 指からわずかに漏れた火花が、薪の表面を舐めて消えた。


「ここにいるのは、全部」


 ゆっくりと言う。


「お前らの言う“魔獣”だ」


 空気が、わずかに重くなった。


「……冗談だろ」


 ニールが引きつった笑いをこぼした。


「魔獣ってのはな。人間の言葉なんざしゃべらねぇ。獣みてぇに唸って、稀に人を襲う奴しか知らねぇ。」


「見たことがあるのか?」


「あるさ」


 ニールの声は低かった。


「戦場でな。聖騎士団にいた頃、森一帯を焼き払って、魔獣の群れを狩り出した。目の前で人間を引きちぎってる奴も見た」


 シンも、村での光景を思い出していた。

 黒い血。

 歪んだ躯。

 動く何か。


「あんなのとは、違う」


 スルトラは、あっさり否定した。


「いや、違わねぇな。もっと正確に言うなら——“あれも同じだ”」


 スルトラは自分の右腕を見下ろした。

 指先から、かすかな炎が滲む。皮膚の下で何かが蠢いている。


「お前らが森や山で見た“魔獣”は、侵食が進みすぎた連中だ。理性を手放したか、手放すしかなかったか、そんなところだ。ここにいるのは、その一歩手前で何とか踏みとどまった奴らの残りだよ」


 ニールが息を呑む。


「つまり——」


「そう。ここにいるのは全部、“元は人間”だ」


 スルトラの声には、飾りがなかった。


「元は、天使憑きだ。あるいは、その候補だった連中。神に“選ばれて”、体を乗っ取られかけた奴らだな」


 シンの手が、無意識に膝の上で握り締められる。


「天使憑きが……魔獣に?」


「当たり前だろ」


 スルトラは鼻で笑った。


「神に選ばれて、奇跡を振るって、称えられて——それで終わるんだったら、こんなものは生まれてねぇ」


 右腕の炎の筋が、ぱちりと鳴る。


「神が中に入り込む。

 そいつの心を塗り潰す。

 喜びでも、感謝でも、信仰でもなく、ただ“都合のいい器”になるまで。

 ……その途中で、抵抗した奴らがいる。嫌だ、出ていけ、殺してやるって、最後まで足掻いた奴らがな」


 スルトラは自分の胸を、軽く叩いた。


「そいつらが、魔獣になる。神が飽きて出ていった後に、壊れかけの体と心だけが残る。ここにいるのは、その残りカスだ」


 沈黙が落ちた。


 シンの喉が、ひりつく。

 天使憑き。

 ルナ。

 村で喋っていた“神”。

 魔獣。


「……魔獣は、元は天使憑き」


 シンが絞り出すと、スルトラは頷いた。


「そうだ。そして天使憑きも、元は人間だ。だから天使も魔獣も人間、ってだけの話だよ」


 当たり前のように言われたその一言が、やけに重かった。



「で——」


 スルトラは右手の火を消し、二人を見た。


「お前らは、何で神を憎んでる?」


 唐突だったが、問い自体ははっきりしていた。

 ニールが先に口を開けかけたが、シンが先に声を出した。


「……娘を、連れていかれた」


 言葉にした瞬間、喉の奥が焼けたように熱くなる。


「ルナって女の子だ。俺の娘だ。神の家で天使憑きにされて……、連れてかれた」


 エマの叫び。

 ルナの笑顔。

 黒い血の匂い。

 全部が胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合う。


「妻も、殺された。……神の仕業だ」


 最後の一言は、声になっているのか自分でも分からないほど低かった。


 スルトラの瞳の色が、わずかに沈む。


「……そうか」


 短く呟き、視線をニールへ移した。


「お前は?」


「俺か」


 ニールは苦笑した。


「最初は巻き込まれただけだよ。黒粉をばら撒いて、それで食ってて、その途中で妙な神父に出会った。そいつの娘が天使憑きになって、神も出てきて——気づいたら一緒に逃げてた」


 そこまでは、投げやりな調子だった。

 だが、次の一言だけは声の色が変わった。


「ロランを殺した奴は、許せねぇ」


 炉の火が、ぱち、と鳴る。


「聖騎士の英雄様。中身は知らねぇが、あいつの剣でロランは死んだ。昔に少し荷運びしただけだ。それからは炭焼きで生きてきて、足を潰されて、それでも黙って働いてきた男だ。最後に少しだけ“正しいこと”したからって、何でそこで終わりなんだよ」


 唇が震えるのを、ニールは笑いで誤魔化した。


「だから、憎い。以上だ」


 スルトラは二人の顔を順番に見た。


「神に乗っ取られると、どうなるか知ってるか」


 今度は、先ほどより低い声だった。


「……天使憑きになる」


 シンが答えると、スルトラは首を横に振る。


「違う。二択だ」


 右手の指先が、わずかに光る。


「一つは、お前らの知ってる“天使憑き”。

 全部を受け入れて、自分を明け渡して、神の都合のいい口と手と足になる。英雄だの、聖女だの、立派な肩書きがつく方だな」


 もう一つ。


「もう一つは——あたしらみたいな“魔獣”。

 最後まで抵抗して、必死で拒んで、壊れかけのまま残る。理性が残るかどうかは、運としぶとさ次第だ」


 スルトラは、シンをまっすぐに見た。


「…つまりお前の娘は、神に見初められた時点で天使か魔獣の2択だ。」


 シンの心臓が、どくりと大きく跳ねた。


「だから——」


 スルトラの言葉は、刃よりも冷たかった。


「もう娘さんは、助からない」


 室内の空気が、一瞬、音を失った。


「……何だと」


 シンの声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


「取り返しはつかないって言ってんだ。

 神に乗っ取られて、器として“完成”した天使憑きは、人間に戻らない。人の記憶や振る舞いが残ってたとしても、それは神が被ってる皮みたいなもんだ。中身はもう——」


 そこまで言いかけたところで、椅子が鳴った。

 シンが立ち上がっていた。


「ふざけるな」


 自分でも抑えきれない声だった。


「ルナは——まだ笑ってた。俺のこと、覚えてた。あれが全部、嘘だって言うのか。神の真似事だって言うのか」


「落ち着け」


 ニールが立ち上がりかける。


「落ち着けるか!」


 怒鳴った瞬間、胸の奥で何かが裂けた。


 熱。

 痛み。

 心臓を握られたような圧迫。


「っ……!」


 膝が笑う。

 視界の端が白く霞んだ。

 シンは喉を押さえ、テーブルに手をついた。


「来たな」


 スルトラの声が遠くで聞こえる。


「……黒粉の禁断症状だ」


「さっき一回分入れたばかりだ。まだ早ぇだろ」


 ニールが焦ったように言う。


「もう、体の方が限界なんだろうよ。普通の中毒とは別の段階に入ってる」


 スルトラが立ち上がり、シンの肩を押さえた。

 その掌は熱かった。だが、黒粉の熱とは違う種類の熱だ。


「呼吸しろ。吸って、吐け。……テーブルひっくり返すなよ、貴重なんだ」


 冗談めかした口調だったが、押さえる手はしっかりしていた。


「……何で、こいつは黒粉なんか使った」


 スルトラがニールを見上げる。


「最初は——事故だ」


 ニールは肩で息をしながら答えた。


「森で、魔獣の血をまともに浴びた。頭からだ。普通なら死んでる量だ。だがこいつは生き残った。」


 スルトラの目が細められる。


「血を浴びた、ね」


「ああ。だから、こいつは黒粉を使わねぇと、半分死んだみてぇな状態になる。血と黒粉で、体の仕組みをぐちゃぐちゃにされたんだよ」


 シンの喉の奥から、ひゅうひゅうという音が漏れる。

 胸の内側で何かが暴れ、骨を内側から軋ませていた。


「黒粉は?」


「……もう、ない」


 ニールが短く答えた。


「俺の分も、あいつの分も。最後の一回は、さっき使った。今残ってんのは、壊れた瓶の欠片くらいだ」


「そうか」


 スルトラはシンの顔を覗き込んだ。

 汗で髪が額に貼り付き、唇は血の気を失っている。

 それでも、目だけはまだ燃えていた。


「娘さんが手遅れかもしれねぇって話をした直後に、これか」


 スルトラは小さく息を吐いた。


「……シン」


 名を呼ぶ。


「聞こえるか」


 シンはかろうじて頷いた。

 喉を締め付ける痛みの合間に、声を絞る。


「……聞こえる」


「いいか。娘さんは——あたしの見立てじゃ、もう人間としては戻らねぇ。取り戻せって言われても、方法なんか知らねぇ」


 シンの胸が再び軋む。

 だがスルトラは、そこで言葉を切らなかった。


「それでもだ」


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐに刺さる。


「お前自身はどうする。娘さんが手遅れかもしれなくても、まだ生きる意志はあるか?」


 問いはシンプルだった。

 逃げ場のない問いだった。


 エマの顔。

 ルナの笑顔。

 ロランの死体。

 神の笑い声。


 全部が胸の中で溶け合って、ひと塊の痛みになる。


(……終わらせたい)


 一瞬だけ、そんな弱い考えがよぎる。

 楽になりたい。

 全部投げ出して、何も感じたくない。


 だが、そのすぐ後ろを、別の声が押しのけた。


(それでも、まだ——)


 ルナが笑っていた顔。

 あの夜、確かに自分を見ていた瞳。


「……まだ」


 シンは歯を食いしばり、言った。


「まだ……諦めない」


 喉が焼ける。

 胸が痛む。

 それでも、言葉は出た。


「ルナが……もう戻らないって言われても、神を……殺したくなるだけだ。俺は、まだ生きて……そいつの首を、絞めたい」


 スルトラの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「よし」


 短く、それだけ言った。


「だったら——まだ話すことがある」


 炉の火が、ぱち、と勢いを増した。


「お前が生き延びれるかどうかは賭けだ。先ずは抗え。生きろ!」


 シンの胸の痛みは、まだ消えない。

 だが、その奥に、別の熱がじわじわと灯り始めていた。

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