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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第30話 山の影で

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

 灰町を離れてから、どれほど歩いたのか分からない。空はわずかに白み始めていたが、山道はまだ深い暗さに覆われていた。根の張った木々が足元を遮り、湿った土が冷たい靄を吸い込んでいる。シンとニールは道らしい道を避け、岩場と斜面を選んで上へ、奥へと進んでいった。


 背後から追う気配はない。

 だが、それが逆に不気味だった。


「あの鎧野郎……」


 先を歩くニールの悪態は、山に沈み込むようにくぐもって響く。


「慈悲だと? 笑わせんな……ロラン殺しといて“慈悲深い”か。あれで正気ぶってんのがなおタチ悪ぃ」


 怒鳴り声ではなかった。

 怒りを抑えすぎて、もはや毒のように低く沈んだ声。

 歩いていても苛立ちが抜けないらしく、石を蹴った足音だけがやけに鋭かった。


「ロラン……」


 シンはその名を呟き、唇を噛んだ。

 胸のざわめきが、今もどこかで震えている。あの時、アルヴァの中にいた“何か”が笑ったその余韻のように。


「ロランが通報したのは仕方ねぇ。聖騎士に睨まれりゃ、この町じゃ生きられねぇ。そこは……分かる」


 ニールは吐息を漏らした。


「だがよ。何で殺す必要がある?」


 その問いに答える必要はなかった。

 答えを知っているからこそ、二人は黙った。


 シンの足が少しもつれた。胸の奥が焼けるように熱い。黒粉の禁断症状が出始めている。頭の奥で鈍い痛みが波のように押し寄せる。


「……シン?」


「大丈夫だ……まだ歩ける」


 言葉に力がなかった。

 ニールは小さく舌打ちし、立ち止まった。


「黒粉、あとどれぐらいだ」


「……一回分だけ」


 小瓶の重みが、指先に伝わる。ほとんど空だ。残っている量はほんの僅か。


「使え。倒れるよりマシだ」


 シンは迷いなく瓶を開けた。苦い粉が舌に触れ、喉の奥を焼く。視界が一瞬揺れたあと、光が差し込むように輪郭がはっきりしていく。筋肉がわずかに熱を持ち、指に力が戻る。


「……行ける」


「言っとくが、これで最後だぞ。禁断症状が出たら、背負うのは俺だ」


 ニールはそう吐き捨てたが、声の奥には焦りが滲んでいた。



 山の斜面は荒れていた。急な崖に挟まれた細い道を、滑らないよう慎重に進む。谷底からは冷たい風が吹き上がり、枯れ葉を巻き上げていた。


「しかし……あいつ、完全に遊んでやがるな」


 ニールがぼそっと言った。

 アルヴァ=セルディン——いや、その中にいた神のことだ。


「“もっと熟れてから殺す”……か。胸糞悪ぃ台詞だ」


 シンは黙って歩いた。

 神の声。

 ルナの中で聞いたあの声。

 レトを通して喋ったあの声。


 それらが全部、アルヴァの中で重なった。


 胸の奥でざわめきが震える。

 東でも西でもなく、今は遠くのどこかで。


 そう確信するような気配だった。


 斜面を登り切り、二人は岩の間の狭い空間でいったん休憩した。風を避けられる場所で、ニールが腰を下ろす。


「はぁ……どこまで行きゃいいんだ」


「宛ては……ない」


「知ってるよ。聞いただけだ」


 ニールは額を押さえた。


「街に行きゃロランみたいな奴が、また出てくるぞ。黒粉の売人だなんだって言われりゃ、全員敵になる。だから追われるだけじゃねぇ。追われ続けるんだ」


 シンは返す言葉がなかった。

 ニールの言葉は事実だった。

 黒粉に関わる人間への視線は冷たい。異端となればなおさらだ。


「お前のざわめき?それがあれば彼奴等の場所が何となく分かるんだろ?出来るだけ離れようぜ」


 シンが顔を上げた。


「……分かってる」


「なら、生き延びろ。死んだら終わりだ」


 短いが現実に根ざした声だった。



 しばらく進み、深い谷にかかった倒木を渡る。足元の苔が滑り、風が吹けば落ちそうになる。二人は慎重に、時間をかけて進んだ。


 渡り切ったところで、シンが何かを感じて立ち止まった。


「……?」


 胸のざわめきではない。

 もっと、近い。

 全く別の気配。


 息をのむ気配よりも、静かだ。

 人間の足音でも、獣の唸りでもない——“息づかい”だけが静かにある。


「ニール」


「感じてる」


 二人は同時に振り返った。


 が、その直前。


「——止まれ」


 低い声が、斜面の影から響いた。

 鉄の硬い感触が、シンの首筋に押し当てられる。


 刃だ。

 鋭く、迷いがない刺し方。


 ニールも同じように背後を取られていたらしい。


 声は女だった。

 乾いた、喉を使い慣れていない声。


「動くな。少しでも動けば……切る」


 シンはゆっくり呼吸を整え、言葉を待った。


「お前たちは何者だ」


 ニールが先に口を開いた。


「ただの旅人だよ。追われてるだけだ。怪しいもんじゃねぇ」


「旅人が、こんな山奥を夜明け前に?」


「事情がある。あんたに危害加える気はねぇ」


 女は返事をしなかった。

 代わりに、息をひくつかせるような動作があった。


「……黒粉の匂い」


 シンは背筋が固まった。


「お前、中毒者か?」


「……ああ」


 否定しても無意味だ。

 シンは正直に答えた。


「もう……ない。残っていた分は使った」


 沈黙が落ちる。

 女の刃は首から離れないが、気配がわずかに揺れた。



「質問ばかりだな。あんたは何者だ」


 ニールの問いには答えず、女はもう一つだけ投げかけた。


「——神を信じているか?」


「……は?」


 ニールが素で聞き返した。

 あまりにも唐突すぎて、意味が分からない。


「答えろ」


 刃に力は入っていない。だが声には奇妙な圧があった。

 “確かめたい”という意思だけが剥き出しになっていた。


「信じてるか、信じてないか。それだけ答えろ」


 ニールは鼻で笑った。


「信じるわけねぇだろ。ロランを殺すような奴が“神の使い”だってんなら、神様はよほどのクソ野郎だ。俺は、信じない」


 その言い方には怒りもあったが、もっと深い拒絶が込められていた。


 女の気配が、ほんのわずかに和らぐ。


「……そっちの男」


 女の視線がシンに注がれているのが背中で分かった。


 シンは喉を動かした。


 神。

 エマの血。

 ルナの笑い。

 奪われたもの。

 壊されたもの。


 胸が痛むほど混ざり合って、言葉が一つしか出なかった。


「……憎い」


 ただ、それだけ。


 女は、そこでようやく刃を離した。

 外套の影で、彼女の肩がわずかに落ちる。


「そうか」


 その声は、最初よりも柔らかかった。


 女は剣を収めると、二人の前に回り込み、フードを深く被り直した。外套の隙間から覗く指先は人のものに似ているが、爪が黒く長い。袖の奥にわずかな鱗のような影が見えた。


 女はわずかに笑った気配を見せ、言う。


「……いいだろう」


 外套を翻し、山の奥へと背を向ける。


「ついてこい」


 その一言だけを残し、歩き出した。

 振り返らない。

 迷いもない。


 ニールがシンを見る。


「……行くか?」


「行くしかない」


 二人は外套の女の後を追った。

 山の影が深くなり、三人はその闇に飲まれていった。

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