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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第3話 小さな光

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

昼の鐘が二つと半分、聖都リオラの空で重なった。午前の用事がひと区切りつく合図だ。聖騎士団の訓練場では、木剣の音が残響のように風の中へほどけていく。リリア・セインは額の汗を袖で拭き、呼吸を整えると、磨いたばかりの床のように心がすうっと平らになった。


 ――神に感謝を。


 今日の午後は、孤児院の手伝いに加えて、収穫祭の飾り付けの準備がある。祭りの主役は子どもたちだ。紙の花、旗、鈴、色糸。光はいつも空から降るけれど、人の手でつくる光も確かにある。そういうものが街をやさしく明るくする、とリリアは思う。


「今日は私も行くよ」

 エレナが肩を軽く叩いた。彼女は縄跳びが上手く、子どもたちに人気だ。

「隊長は?」

「大工と打ち合わせ。折れた柵を直すそうだ。『釘は欲張るな、必要なだけだ』って」

「マダムも塩の話で同じことを言ってた」

「似た者どうしだね」


 二人で笑い、白い外套の裾をそろえて歩き出す。尖塔の陰影は短くなり、パン屋の棚には小麦の甘い匂いが満ちていた。通りのタイルは朝の祈りで擦られたせいか、薄く光っている。誰もが一度は指で十字を切って通る角の小祠には、小さな花が新しく供えられていた。


 孤児院に着くと、門の鐘を鳴らすより先に、中から歓声が飛び出した。

「リリアおねえちゃん! エレナおねえちゃん!」

「見て見て! 紙、いっぱい!」

「今日ね、うさぎ作る!」

「剣は?」

「あとで」


 玄関の棚には宝物が増えていた。角の丸い白い石、青い糸を巻いた木の軸、欠けたボタン。昨日よりも、並び方が整って見える。シスター・メルが手を拭きながら微笑んだ。

「ようこそ。今日の担当は、紙の花と旗のひも通しです」

「任せてください。神に感謝を」


 居間の長机には色とりどりの紙が山のように積まれ、糊の匂いがふんわり漂っている。マダム・ローザが臨時で持ってきた木の型抜きを押すたび、花びらの形が、きちんとした輪郭で紙から外れる。ロアンは最初は丁寧だったが、すぐに飽きて走り出した。エレナが縄を探しながら追いかける。双子のマルタとニコは、椅子の上で誇らしげに旗の紐を通している。舌を少し出すのが二人同時で、思わず笑ってしまった。


 ミナは、机の端に場所を作り、白い紙を前に座っていた。彼女の前だけ、紙の山が小さくて、周りの色が少ない。今日は何を描くのだろう、とリリアは近づく。

「ミナ、何を作る?」

「秘密」

「秘密?」

「うん。できたら見せる」

「じゃあ、私はお手伝い担当ね。糊をちょっと貸して」

「半分だけあげる」

「ありがとう」


 糊の蓋を開けると、甘い小麦の匂いがする。紙が指先に吸いつき、形が花になっていく。子どもたちの笑い声、紙が擦れる音、鈴を試しに鳴らす小さな音。遠くの台所では鍋が静かに歌っている。孤児院の午後は、音で満ちているのに、うるさくない。


「リリア、これ、どう?」

 マルタが掲げた旗は、黄色と青の交互だ。バランスがいい。

「きれい。窓に飾ろうか」

「飾る!」

「神さま、見えるかな?」

「もちろん。神さまは高いところが好きだからね」


 子どもたちは一斉に窓辺に集まり、背伸びをして旗を吊るす。ガラスに映る外の光と色が重なって、部屋の中にも小さな祭りがやってくる。その中で、リリアはふと気づく。ミナの首の印が、昨日より少しだけ、輪郭がはっきりしている。真珠の粉を濃く塗り直したような、ささやかな差。呼吸に合わせて、ごく短い間隔で明滅している。


「ミナ、その首……痒くない?」

「ううん。あったかいよ。ここにね、ちいさい声が住んでる」

「小さい声?」

「静かな声。怒らない声。眠たい声」

「眠たい声は、いいね」

「うん。夜みたい」


 リリアは頷く。祝福の印。それはきっと、神に近いしるし。神に近いなら、やさしいはず。そう信じることに、何の無理もない。


 紙の花が机いっぱいに咲く頃、エレナが「外に風船!」と声を上げた。誰かが寄付したらしい、薄い膜の袋がひと束。ヴェイルが大人の肺活量で膨らませ、子どもたちに渡す。ロアンが一番に手を伸ばし、弾ませて笑う。ミナは少し離れて、風船を見上げているだけだった。光を追う目だ、と思った。


 しばらくして、庭で休憩を取ることにした。ラベンダーの間に敷いた布の上に、蜂蜜水と胡桃のクッキー。祈ってから皆で手を伸ばす。ミナはカップを両手で包んだ。指が白い磁器に半分埋まって見えるほど、小さい手だ。


「ねぇ、お姉ちゃん」

「なあに」

「空って、光の中?」

「うん。空は光の家みたいなもの」

「じゃあ、光は家に帰る?」

「夜になったら、少しね。でもまた朝には降りてくる」

「そっか」

 ミナは満足そうに頷き、蜂蜜水を一口飲んだ。喉が嬉しそうに動いた。


 休憩のあと、庭の隅で小さな騒ぎが起こった。ロアンが両手で何かを抱えて走ってくる。

「鳥! 鳥が落ちてた!」

 それは灰のような羽の小鳩で、翼の片方が少し汚れている。リリアはそっと受け取り、羽を広げて傷を確かめた。骨は折れていない。泥が硬く固まっているだけだ。

「水を。あと柔らかい布」

 エレナが走り、シスターが小さな桶と布を持ってきた。リリアは鳩の羽をほんの少しだけ水で濡らし、泥を指の腹で優しく落としていく。鳩は目を瞑り、時々短く喉を鳴らした。ミナが近づきすぎない距離で見守っている。

「ねむたい声?」

「うん。似てる」

「よく見えてるね、ミナ」

「ううん、聞こえるだけ」


 羽がきれいになると、鳩はゆっくり立ち上がり、泉の縁にぴょんと移った。首を傾げ、陽の差す方を確かめると、低く飛んで塀の上に移り、またほんの少しだけ高く飛んで、屋根瓦の線に止まった。子どもたちが拍手する。鳩は一度だけこちらへ首を向け、丸い目で何かを確かめるように見た。光の中に溶けるように遠ざかっていく背を、皆で見送った。

「よかったね」

「よかった!」

「神に感謝を」

「神に感謝を」


 午後の終わり、飾り付けの計画を整理するため、リリアは帳面を広げた。窓の位置、旗の長さ、紙の花の配分。子どもたちに仕事を分けると責任感が生まれる。明日の役割表を作り、名前の横に小さな印をつけていった。ミナの欄には「白い花係」と書いた。本人に見せると、彼女は嬉しそうに頷いた。

「白い花、たくさん作る」

「でも、手は疲れないようにね」

「うん。半分は秘密のやつ」

「秘密のやつ?」

「できたら、見せる」


 秘密、という言葉は子どもたちの間で光る。あげたり、貰ったり、内緒にしたりする。秘密は大抵、優しさの形をしている。リリアはそう思う。隠すのは恥や悪ではなく、大切だから包むのだ。祈る時に目を閉じるみたいに。


 夕刻、祈りの鐘が二つ続けて鳴り、孤児院の空気が少し冷たくなった。手洗いをして、整列して、短い夕の祈り。指を組んで額に軽く当てる。声は合唱のようにそろい、窓から差す光はその声をすくう網のように見える。


「今日の食事に感謝します。手伝ってくれた人に感謝します。転ばなかった足に、ほどけなかった結び目に、喧嘩しなかった口に、神に感謝を」

「神に感謝を」


 食卓の後、最後の遊びの時間。エレナが縄を回し、子どもたちが飛ぶ。ロアンが三回目でつまずき、笑ってやり直す。双子はいつも同じタイミングで引っかかる。リリアは拍子を取りながら数を数える。ミナは部屋の隅で、白い紙を細く裂いて何本も糸のようにし、それを指で編んでいる。ときどき首の印をそっと押さえる仕草をするが、痛そうではない。そこに住んでいる「眠たい声」に、よしよしと毛布をかけるような、そんな手つき。


 片付けを始める頃、外はすでに薄紫だった。ロアンが旗の紐をぎゅっと引っ張りすぎて、結び目がひとつほどけた。リリアはしゃがみ込み、丁寧に結び直す。蝶々結び。真ん中を親指で押さえる。

「ねえ、それ、朝みたい」

「朝?」

「真ん中が、あったかいから」

「そう。朝はあったかい」


 玄関で見送りの列をつくる。子どもたちは順番に抱きつき、ハイタッチをして、靴の紐を確認する。ミナは最後に来た。白い紙の束を胸に抱え、目をきらきらさせている。

「秘密、半分できた」

「ほんと?」

「明日、見せる」

「楽しみにしてる」


 門の外で、シスター・メルがいつもどおりの笑顔を見せた。

「今日はたくさん進みました。神に感謝を」

「神に感謝を。明日は旗を外に出します」

「ええ、空に揺れるのはきっときれい」


 帰り道、石畳は昼間よりも音が小さい。店の灯が増え、油の香りと香草の匂いが混じり合う。リリアはふと、背中に視線のようなものを感じて振り向いた。尖塔の上に一番星。見守られている。そう思うのに、胸の奥に小さなひっかかりが残った。指でほどけそうでほどけない糸の結び目のような感覚。けれど、それは不安ではない。名前のない注意、みたいなものだ。足取りは乱れず、呼吸も穏やかなまま、団の門へ着く。


 宿舎の部屋に入ると、机の上の小皿に載せた白い石が、窓からの光を淡く返した。昨日ロアンからもらったお守りだ。指で触れると、まだ温度を覚えている。日誌を開く。今日の記録を淡々と書きつけていく。配布した紙の枚数、旗の紐の長さ、子どもたちの様子、鳩の手当て、明日の役割。最後に「特記事項」の欄に、短く追記する。


――ミナ、白紙を細く裂き、糸状に編む。首の印、明滅やや短い。体温平常。食欲良好。笑顔多し。秘密の作業を楽しんでいる。


 ペン先を持ち上げ、天窓の方へ目をやる。もう星は三つに増えている。窓を少し開けると、夜の最初の風が網のように入り、カーテンの裾をふわりと持ち上げた。指を組み、額に軽く当てる。今日という輪郭が、祈りの形で心に収まっていく。


「今日、誰も泣かなかったことに感謝します。旗がきれいに揺れたことに感謝します。鳩が空へ帰ったことに感謝します。秘密を、秘密のまま渡せたことに感謝します。神に、感謝を」


 ベッドに横たわり、目を閉じる。内側の闇は、すぐに薄い金色で満たされた。まぶたの裏で、紙の花が静かに開く。白い糸が指の間でほどけずに続いていく。遠くの鐘がひとつ。遅れて、もうひとつ。呼吸がその間にすっと収まり、世界はちゃんと回っている、とリリアは思う。


 眠りに沈む直前、ふっと胸の中で何かが明滅した。ミナの首の印と同じ速さで。音はしない。痛くもない。ただ、光がそこにいる、と伝えてくる。ありがとう、と心の中で言う。光は返事をしない。けれど、聞いている。祈りはいつだって、片道でも大丈夫だ。


 ――神に感謝を。


 その言葉で、今日も静かに閉じた。明日は旗が外に出る。紙の花はもっと増える。子どもたちは走り、笑い、秘密を交換し、ミナは白い糸を編む。リリアは剣を磨き、床を磨き、胸の前で指を組む。世界は、正しく回っている。


 リリアは眠った。街も眠った。祈りだけが、眠らなかった。

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