第29話 神が嗤う街
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
扉の向こうの声は、夜気よりも冷たかった。
「——神父シン。神の名において命ずる、この扉を開けよ」
ロランの家の中で、空気が固まった。 竈の火が小さく鳴り、壁の影だけが揺れる。
ロランがじっと扉を見つめる。分厚い指先が、無意識に机の縁を掴んでいた。ニールは窓のそばから離れ、わざとゆっくりと息を吐いた。
「来やがったな……」
低く呟くと、ニールはシンの方へ視線を向ける。
「立てるか」
「……ああ」
膝は重かったが、立てないほどではない。黒粉の禁断症状はまだ完全には引いていない。胸の奥のざわめきは、もはや「遠く」ではなかった。——すぐそこ。壁一枚を隔てた向こう側で、あの異様な気配が笑っている。
ロランは一度だけ、深く息を吸った。瞼が震える。だが、扉に向き直った時、その顔には奇妙な覚悟が浮かんでいた。
「……出る。俺が前に立つ」
「ロラン——」
「いいから黙ってろ。ニール、お前は後ろで余計なことを言うな」
そう言って、ロランは扉に近づく。 手が一瞬止まり、それから閂を外した。
扉が軋む音とともに、冷たい夜気が流れ込む。 外は暗い。だが、その暗さを押し返すように、白い光がいくつもゆらめいていた。灯された槍先の灯。鎧の隙間で揺れる札の光。聖騎士達の影が、規則正しく並んでいる。
その列の前に、一歩だけ進み出ている影があった。
重い鎧。肩当てには翼を模した装飾。胸の中央に刻まれた紋章が、灯の光を鈍く跳ね返している。手には鞘に収められた長剣。一歩踏み出すたび、その金具が静かに鳴る。
アルヴァ=セルディン。
名を呼ばれずとも分かった。 胸のざわめきが、それだけを指し示していた。
「ロラン・グレイ」
鎧の男——アルヴァが、ゆっくりと名を呼んだ。その声はよく通り、澄んでいた。威厳があり、揺らぎがない。周囲の聖騎士達が自然と背を伸ばす種類の声。
「はい……アルヴァ様」
ロランが頭を垂れる。肩がわずかに震えていた。
「確かに“神父シン”をかくまっているな」
「……はい。詰所からの通達どおり、すぐに知らせました。どうか、この家で捕らえられるなら——」
ロランの言葉を、アルヴァの手が制した。 白く長い指が、ひらりと空気を切る。
「分かっている。よく知らせた。お前の報告で、ここまで早く辿り着けた」
ロランの背中から、わずかに力が抜ける。安堵にも似た息が漏れた。ニールはその様子を見て、奥歯を噛みしめる。
(……通報してやがったか)
それ自体は想定の範囲内だった。 聖騎士に睨まれたら、この町では生きていけない。ロランがそれを恐れて動いたところで、責めきれるものではない。
——だが、問題はその先だ。
「シンを、こちらへ」
アルヴァが言う。 ロランが半身を引き、家の中へ手を伸ばした。
「……悪いな、シン。こうするしか——」
言葉の続きは聞こえなかった。
胸のざわめきが、急に音を変えたのだ。
あの夜、森の中でルナの中にいた“何か”と対峙した時と同じ——いいや、それ以上に濃く、べっとりとした気配が、目の前の鎧から溢れ出した。
シンの喉が、勝手に鳴る。
(——ここだ)
東の先でうごめいていたざわめき。村で感じた、いくつもの細い線。その一番太い束が、今はこの一点に凝縮されている。
アルヴァ=セルディン。
その中に、神がいた。
「……やあ」
唐突に。
誰にも聞こえないような小ささで——だが、シンの耳にははっきりと届く声が、夜気の隙間を滑り込んだ。
「また会ったね」
柔らかい。人懐っこくさえ聞こえる声。 森でルナの口から聞いたあの声と、同じ響き。
シンの背筋に冷たいものが走る。
「……っ」
言葉が喉で止まる。
アルヴァの唇は、ほとんど動いていなかった。だが、声は確かにそこから漏れている。聖騎士達は気づかない。ロランも、ニールも。
——いや、一人だけ。
ニールが、ごくりと喉を鳴らした。
(……同じだ。レトの中で喋ってた時と——同じ声だ)
あの納屋。子どもの顔の皮を被った“何か”が、ルナの口調で神父をからかっていた時の声。そのままだ。
手のひらに汗が滲む。 ニールはポケットの中で指を握りしめた。
「神父シン」
今度の声は、はっきりと外に向けられたものだった。 アルヴァが一歩、家の前に進み出る。靴の下で石畳が鳴る。
「自ら出てくるつもりはないか」
立ち尽くすシンの肩に、ニールがそっと手を置いた。
「……行け。ここで籠もっても、家ごと潰される」
それはただの推測ではなかった。 ニールの目には、アルヴァの右手がわずかに鞘にかかっているのが見えていた。抜かれれば、きっとこの家は無事では済まない。
「……分かった」
シンは一歩前へ出た。 ロランの横を通り過ぎる時、ロランが視線を逸らした。罪悪感と恐怖とが混ざった気配が、袖から伝わってくる。
「すまん……すまん……」
小さな声。 シンは答えられなかった。ただ扉をくぐり、外の冷気に身を晒す。
アルヴァの視線が、シンを捉えた。
氷のように澄んだ目。 その奥で、何か別のものが笑っている。
「ようやく顔を見せたな、神父」
公衆用の声で、アルヴァが言う。 その言葉に、周囲の聖騎士達がざわめいた。
「こいつが……」
「妻を殺したって噂の……」
「黒粉に溺れて神を冒涜した——」
ささやきが飛び交う。 シンの胸の奥で、何かがきしんだ。エマの顔。床一面の血。ルナの笑い。黒い血の熱。
アルヴァが、ゆっくりと顎を上げる。
「神の家を血で汚し、黒粉に手を染め、なお生き延びた神父シン。——お前の行いは、神の秩序から外れている」
その声は厳粛で、裁きの宣告そのもののようだった。
「よって、ここに告げる。お前は“異端者”だ」
低いざわめきが広がる。 シンの足元が、わずかに揺れたように感じた。
(異端……)
今さらだ、とも思う。 既に神を憎み、黒粉を口にし、娘を奪われている。何を今さら、という感情と、名前を与えられたことによる冷たい現実とが胸の中で絡み合う。
その時、アルヴァの視線が、ふとシンの肩の後ろへ移った。
「……そして、そこの男もだ」
家の影から半身を出していたニールに、その目が向く。
「元聖騎士ニール。黒粉の売買に手を染め、異端者と行動を共にした。お前もまた、異端だ」
「はっ。ようやく正式な肩書きがついたわけだ」
ニールは薄く笑った。乾いた笑いだった。
「異端者ニール。響きは悪くねぇな」
「黙れ」
後列の聖騎士が怒鳴る。剣の柄に手が伸びる。だがアルヴァが指先を僅かに動かすと、その手は止まった。
アルヴァは、ほんの少しだけ目を細める。 次の瞬間——その口元がほとんど分からないほどに、わずかに歪んだ。
「……いいね、その目」
そのひと言は、小さく、小さく。 ニールの耳にだけ、届いた気がした。
(やっぱり、同じだ……)
鳥肌が立つ。 ニールは歯ぎしりを噛み殺した。
「アルヴァ様」
その時、ロランが一歩前に出た。 顔は引きつっていたが、声は決死のように張っていた。
「こいつらのことは……俺が通報した。町に迷惑をかけたくなかっただけだ。だから、その——」
「分かっている」
アルヴァが振り向いた。 その表情は、穏やかですらあった。
「お前はよくやった、ロラン・グレイ。この町のために、神のために」
ロランの肩から力が抜ける。 ほっとしたような笑みが、口元に浮かんだ。
「……それなら——」
「だからこそ」
次の瞬間、その笑みは凍りついた。
「ここで、終わらせておこう」
アルヴァの右手が、鞘から剣を半分だけ引き抜いた。
金属音は、ほとんど聞こえなかった。 ただ、空気だけがひきつるような音を立てた。
シンの目には、見えた。 剣身が光った——ように見えた瞬間、ロランの胸元に薄い線が走るのが。
「……え?」
ロランが、自分の胸元を見下ろす。 服の上から、すっと赤が滲んだ。
深くも、大きくもない。ただの一本の線。 だが、その線は時間をおいて開き、血が溢れた。
周囲の空気が震える。
「ロラン!」
ニールが叫んだ。 シンも駆け寄ろうとしたが、足が動かない。視界がゆらめく。
「な、何で……」
ロランが膝をつく。 アルヴァは微かに首を傾げた。
「違法な取引を続けてきた商人。黒粉を運び、闇の金に手を染めてきた。——その罪は、消えない」
「お、俺は……通報を……」
「そうだ。最後に一つだけ、正しいことをした」
アルヴァの声は、優しかった。
「だから苦しまないようにしてやった。神は慈悲深い」
ロランの体が崩れ落ちる。 地面に倒れた瞬間、その目から光が消えた。
竈で見せた笑い。借りがどうのと軽口を叩いていた声。 それらが、あっけなく途切れた。
「……ロラン……」
シンの口から、名が零れた。
(まただ)
守れなかった。 家族も、子どもも、そして今、借りを返そうとした男も。自分の周りにいた人間が、次々に消えていく。
胸の中で、黒いものが膨れ上がる。 ざわめきと、怒りと、憎しみとが絡み合い、喉を焼いた。
「てめぇ……」
ニールが、一歩、前に出た。 顔色は悪くない。怒りで血が巡っている。
「てめぇのどこが慈悲だ、クソ神さまが」
その言葉に、周囲の聖騎士達が一斉にざわめいた。
「貴様、何を——」
「口を慎め!」
剣が半分抜かれかけた。空気がぴりつく。 だが、その時——
アルヴァが笑った。
口元に、ほんの少しだけ。 聖騎士達が見れば「冷笑」と呼びたくなるような、シンとニールには見慣れた“神の笑い”が浮かぶ。
「面白いね、ニール」
低く、小さい。 だが確かに、神の声だった。
「前に会った時より、ずっといい顔をするようになった」
「……二度と会いたくなかったがな」
ニールは吐き捨てる。 喉が震えていたが、目は逸らさなかった。
「ロランを殺す必要はなかった。こいつは、ただ炭を焼いて生きてきただけだ。裏稼業に手を染めたのも、昔お前らのせいで足を潰されて、働き場を失ったからだ。……ずっと、お前らの尻拭いをしながら、黙って生きてきたんだよ」
「そうだね」
アルヴァ——の中の神が、さらりと言う。
「だから、飽きたんだ」
心臓が、一度止まった。
「え……?」
シンの喉から、思わず声が漏れた。
アルヴァは、さも当然のことのように続ける。
「ただ黙って生きて、ただ静かに終わる人間は、つまらない。最後の最後で少しだけ役に立って、はいさようなら。それでおしまい。——それも悪くないけど、今はもっと面白いものが見たい気分なんだ」
世間に向けた英雄の顔と、シン達に向けた神の声とが、同じ唇から別々に溢れ出る。
「誰に向かって喋ってやがる……」
ニールが奥歯を軋ませる。 聖騎士の一人が堪え切れず、前に出た。
「アルヴァ様、この者達は——」
「分かっている」
アルヴァは剣を鞘に戻した。 その音が、異様に静かに響く。
「異端者二名。黒粉に汚された神父と、堕ちた元聖騎士。——本来ならここで裁きを下すべきだ」
シンの手が震える。 腰の袋の中で、黒粉の小瓶が微かに触れ合う音がした。指先が、それに伸びかける。
ニールが、その手首を掴んだ。
「やめろ。今ここで入れたら、本当に終わる」
その囁きが、辛うじて現実に引き戻す。
アルヴァは二人をじっと見つめ、それからふっと視線を逸らした。
「——しかし」
その声に、聖騎士達がわずかにざわめく。
「こいつらをここで斬ったところで、何が残る? 死体と、血の匂いと、面倒な後始末だけだ」
淡々とした言い方だった。
「神の敵ならば——もっと、よく熟れてからでも遅くはない」
胸のざわめきが、一瞬、笑ったように震える。
(遊んでやるよ)
そんな声が、シンには聞こえた気がした。
「包囲を解け」
アルヴァが命じる。 聖騎士達が動揺した。
「しかし、アルヴァ様——」
「命令だ」
鋭い一言で、皆の口が閉じる。 隊長格の男が一歩前に出て、しぶしぶ頷いた。
「……はっ。では一旦、詰所へ戻るということでよろしいですね」
「そうだ。この町での“異端の噂”は、既に十分広がっている。あとは好きなように逃げ、好きなようにもがけばいい」
アルヴァはそう言って、シン達に視線を戻した。
「逃げたいなら、逃げるといい。山でも森でも、底の抜けた穴でも好きなところへ」
その口調は、まるで子どもに遊び場を示す大人のようだった。
「どこへ行っても、私達は——ううん、
“ぼく”は、ちゃんと見つけるけどね」
最後の一言は、完全に“神”の声だった。 シンの胸の奥で、糸が強く引かれる。
「……っ」
喉が詰まる。 言葉が出ない。
「行くぞ」
耳元で、ニールの声がした。 いつの間にか、ロランの倒れた体に布をかけていたその手が、シンの腕を強く引く。
「ここはもう終わりだ。ロランも、お前の家も、この町も。——だったら、生き延びる方に賭けろ」
シンは振り返る。 地面に横たわるロランの姿が、布越しの膨らみになってそこにある。
「ロラン……」
名前を呼んでも、返事はない。 当たり前だ。それでも呼ばずにはいられなかった。
「行け」
ニールが重ねて言う。 アルヴァは微笑み、少しだけ肩をすくめた。
「さあ、どうぞ。今ならまだ、背中は撃たない」
その余裕が、逆に背筋を冷やした。 シンは歯を食いしばり、ロランから目を離した。
「……行こう、ニール」
「ああ」
二人は踵を返した。 聖騎士達の列が、わずかに割れる。誰も剣を抜かない。ただ鋭い視線だけが、背中に突き刺さる。
ロランの家を離れ、坂を下り、灰町の外れへと足を運ぶ。 振り返れば、いつでもあの鎧がそこに立っている気がした。だが振り返らなかった。振り返れば、足が止まる。
町の外に出るころには、夜明け前の空がわずかに白み始めていた。
「……どこへ行く」
シンが問う。 ニールは前を見たまま答えた。
「山だ。宛てはねぇ。だが、谷を越えて、煙の上がらねぇ場所を探す。目立たねぇ所にな」
「追っては——」
「来ない」
ニールはきっぱりと言った。
「あいつは、今は来ねぇ。今の顔を見りゃ分かる。——“もっと後で”の方が面白いって顔だ」
シンは唇を噛んだ。 胸のざわめきが、まだ遠くで笑っている。
ルナ。 神。 魔獣。 黒粉。 異端。
全てが絡まり合って、行き先の見えない糸になっている。
「……ニール」
「何だ」
「俺は——」
言いかけて、言葉が見つからなかった。
ロランを守れなかったこと。 エマを救えなかったこと。 ルナを取り戻せていないこと。 神への憎しみと、娘への愛情とが、同じ胸の中で渦を巻いていること。
そのどれもが、言葉にならない。
「……何でもない」
代わりにそう絞り出すと、ニールは肩をすくめた。
「いいさ。今は何も考えなくていい。ただ一つだけだ。——生き延びろ」
灰町の影が遠ざかる。 山の輪郭が、夜明けの空に黒く浮かび上がる。
行く宛てもなく、帰る場所もなく。 ただ一つの糸——胸のざわめきだけを抱えたまま、シンとニールは山の闇へと足を踏み入れた。
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