第28話 赤い予兆
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
夜明け前の森は、息を殺していた。木々の隙間から滲む淡い光が霧を乳白色に染め、湿った土が靴裏に絡みつく。
「……その格好、もう限界だな。神父服のままじゃ目立つ」
前を歩くニールが振り返りもせずに言った。
シンの裾には泥がこびりつき、肩の布には血が乾いて黒く固まっている。街に入れば、一目で怪しまれる格好だった。
「……替えがない」
「ある。街に着いたら揃える。服も靴も全部だ。神父のままじゃ死ぬ」
短く、迷いのない言い方だった。
シンは頷くしかなかった。
◆
街の入り口は静かだった。昼下がりの陽は薄く、風に炭の匂いが混じる。山の斜面に寄り添うように並ぶ家々はどれも煤け、屋根の隙間から煙がゆるく立ち上っている。遠くでは斧の音と、誰かが木を割る音。
「ここが“灰町”だ。昔はもっと賑やかだったんだがな」
ニールが呟く。声は低いが、懐かしさが滲む。
「ここの誰かが、取引相手なのか」
「ああ。ロランって男だ。昔、一緒に荷物を運んだ。気の良い男だよ。」
「信用できるのか」
「借しがある。だから、大丈夫だ」
ニールの言葉には、短いが確かな響きがあった。
ニールは人の流れを避け、路地裏にある古着屋の看板を指した。
「ここだ。」
扉を開けると、埃の匂いと乾いた布の擦れる音。
天井からは色あせた服が吊るされ、棚には靴と手袋。
奥から、背の低い店主が現れた。
「何をお探しで?」
「旅用の服を一式。動きやすくて、地味なやつだ」
店主は奥の棚を漁り、包みを一つ持ってきた。
灰黒のシャツとズボン、薄手の革靴、簡素な腰帯、そして黒い外套。
「着てみな。寸法は悪くねぇと思う」
ニールがシンに渡す。
シンは神父服のボタンを外し、裏口の陰で静かに脱いだ。
布を丸め、紐で縛り、袋に入れる。
それが、もう自分の“過去”であることを理解していた。
代わりに新しい服を身に通す。
動きやすく、軽い。
黒の外套を羽織ると、鏡代わりの鉄板に映る姿は、もう“神父”ではなかった。
ただの黒衣の男。
「……悪くない」
「そうだろ。金は俺が出す。……後で倍にして返してもらうがな」
ニールは店主に金を渡し、声を落とした。
「この二人を見たって話は、誰にもするな。分かるな?」
店主は一瞬だけ息を詰め、すぐに頷いた。
金貨の重みが理解を早めたのだろう。
ニールは軽く礼を言い、袋を肩にかけて店を出た。
「さぁ、行くぞ。」
ロランの家は、街外れの小高い場所にあった。古い石垣の上に建つ木の家で、軒先には干された炭袋がいくつも吊るされている。扉を叩くと、すぐに中から声が返った。
「誰だ」
「ニールだ。」
一瞬の沈黙。そのあと、重い足音が近づき、扉が軋んだ音を立てて開く。
「……本当にお前か」
現れた男は、がっしりとした体格で、灰色の髪を後ろに束ねていた。腕には火傷の跡。目の奥が深く沈んでいる。ロランはしばらくニールを見つめ、それから不意に笑った。
「はは、まさか生きて帰ってくるとはな。おい、入れ。冷えてるだろう」
家の中は狭いが整っていた。壁際に炭袋が積まれ、机の上には帳簿と酒瓶が散らばっている。ロランは瓶を手に取り、ニールの前に置いた。
「何年ぶりだ?」
「七年になるな。……覚えてたか」
「忘れるかよ。お前が俺を救ったんだ」
ロランは笑って酒を注いだ。ニールが困ったように目を逸らす。
「救ったってほどのもんじゃねぇ。俺が荷車を引っ張っただけだ」
「俺は足を潰して動けなかった。あの時、運んでくれてなきゃ今頃ここにいねぇ。……借りはまだ返してねぇぞ」
「今、返してくれりゃ助かる」
「何だ、また厄介事か」
「そうだ。こいつを一晩、泊めてやってほしい」
ニールが後ろを振り返る。
ロランの視線がシンに向く。短く、鋭い。だがそのあと、ふっと肩の力を抜いた。
「……ずいぶん血の匂いがするな。追われてるのか」
「少しな」
「ま、言いたくねぇこともあるだろ。——寝床くらいはある。食い物は期待するなよ」
「……助かる」
「借りは一つ返したことにしとく。あと九つ残ってるがな」
ロランは笑い、竈に火を入れた。赤い火がゆらめき、部屋の影が動く。ニールの表情が少し和らいだ。
◆
ロランは酒を飲みながら、昔話を断片的にこぼした。ニールはほとんど口を挟まず、時折うなずくだけだった。
「お前がいなくなってから、この町もずいぶん変わった。見回りが増えた。夜の号令もな。静かなのに、見られてる気がする」
「聖騎士か?」
「ああ。巡回が多い。」
ロランの声がわずかに低くなる。
シンはその言葉に反応しかけたが、口を閉ざした。
胸の奥で、ざわめきがわずかに波打つ。
東の線は細く、切れずに続いている。
ニールはその変化を察したように目を向けた。
「シン、休め。今は考えても仕方ねぇ。」
「……分かった」
シンは立ち上がり、ロランに軽く頭を下げて部屋の奥へ向かった。
背後で、ニールとロランが短く言葉を交わす。
金と物の話のようでもあり、互いの過去を確かめ合うようでもあった。
◆
夜が深くなる。外の風が強まり、木の壁が軋む。小屋の隅で、シンは嫌な気配で目が冷めた。
胸のざわめきが、再び強くなる。
遠くから、確かな“気配”が近づいてくる。
人の歩調ではない。
一定の間をおいて、ゆっくりと、しかし確実に——こちらへ向かっている。
部屋の隅、火の光がわずかに揺れる。
竈の前で、ロランが背を向けて座っていた。
その向こうで、ニールが窓の外をじっと見ている。
「……感じるのか?」
ニールの声が低く落ちる。
シンは頷いた。
「東から。いや……今は、もうこの町の外だ」
「やっぱりか」
ニールが窓を閉める。
外の気配が、風ごと押し寄せてくる。
馬の蹄、鉄の音。
遠くで、鈍い号令のような声が響いた。
ロランが立ち上がる。
昼間の陽気さが消えていた。
「——ニール、何を持ち込んだ」
「お前に迷惑をかけるつもりはなかった」
「今さらだ。だが、お前が本気で困ってる顔は久しぶりに見た」
ロランはそう言って、短く笑った。
だがその笑いの奥に、微かな怯えがあった。
窓の外で、金属が擦れる音。
夜の空気が重くなる。
「……囲まれてるな」
ニールが小声で言った。ロランは黙って頷く。火がひとつ、ぱちりと弾けた。
シンの胸のざわめきが、最高潮に達する。
もはや遠くではない。
それは、この建物のすぐ外にある。
扉の向こうで、誰かが足を止めた。
風が止む。
息を吸う音が、やけに大きく響いた。
その静寂の中で、最初の一声が落ちた。
「——神父シン。神の名において命ずる、この扉を開けよ」
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