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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第28話 赤い予兆

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

夜明け前の森は、息を殺していた。木々の隙間から滲む淡い光が霧を乳白色に染め、湿った土が靴裏に絡みつく。


「……その格好、もう限界だな。神父服のままじゃ目立つ」


 前を歩くニールが振り返りもせずに言った。

 シンの裾には泥がこびりつき、肩の布には血が乾いて黒く固まっている。街に入れば、一目で怪しまれる格好だった。


「……替えがない」


「ある。街に着いたら揃える。服も靴も全部だ。神父のままじゃ死ぬ」


 短く、迷いのない言い方だった。

 シンは頷くしかなかった。



 街の入り口は静かだった。昼下がりの陽は薄く、風に炭の匂いが混じる。山の斜面に寄り添うように並ぶ家々はどれも煤け、屋根の隙間から煙がゆるく立ち上っている。遠くでは斧の音と、誰かが木を割る音。


「ここが“灰町”だ。昔はもっと賑やかだったんだがな」


 ニールが呟く。声は低いが、懐かしさが滲む。


「ここの誰かが、取引相手なのか」


「ああ。ロランって男だ。昔、一緒に荷物を運んだ。気の良い男だよ。」


「信用できるのか」


「借しがある。だから、大丈夫だ」


 ニールの言葉には、短いが確かな響きがあった。


ニールは人の流れを避け、路地裏にある古着屋の看板を指した。


「ここだ。」


 扉を開けると、埃の匂いと乾いた布の擦れる音。

 天井からは色あせた服が吊るされ、棚には靴と手袋。

 奥から、背の低い店主が現れた。


「何をお探しで?」


「旅用の服を一式。動きやすくて、地味なやつだ」


 店主は奥の棚を漁り、包みを一つ持ってきた。

 灰黒のシャツとズボン、薄手の革靴、簡素な腰帯、そして黒い外套。


「着てみな。寸法は悪くねぇと思う」


 ニールがシンに渡す。

 シンは神父服のボタンを外し、裏口の陰で静かに脱いだ。

 布を丸め、紐で縛り、袋に入れる。

 それが、もう自分の“過去”であることを理解していた。

 代わりに新しい服を身に通す。

 動きやすく、軽い。

 黒の外套を羽織ると、鏡代わりの鉄板に映る姿は、もう“神父”ではなかった。

 ただの黒衣の男。


「……悪くない」


「そうだろ。金は俺が出す。……後で倍にして返してもらうがな」


 ニールは店主に金を渡し、声を落とした。


「この二人を見たって話は、誰にもするな。分かるな?」


 店主は一瞬だけ息を詰め、すぐに頷いた。

 金貨の重みが理解を早めたのだろう。

 ニールは軽く礼を言い、袋を肩にかけて店を出た。


「さぁ、行くぞ。」


 ロランの家は、街外れの小高い場所にあった。古い石垣の上に建つ木の家で、軒先には干された炭袋がいくつも吊るされている。扉を叩くと、すぐに中から声が返った。


「誰だ」


「ニールだ。」


 一瞬の沈黙。そのあと、重い足音が近づき、扉が軋んだ音を立てて開く。


「……本当にお前か」


 現れた男は、がっしりとした体格で、灰色の髪を後ろに束ねていた。腕には火傷の跡。目の奥が深く沈んでいる。ロランはしばらくニールを見つめ、それから不意に笑った。


「はは、まさか生きて帰ってくるとはな。おい、入れ。冷えてるだろう」


 家の中は狭いが整っていた。壁際に炭袋が積まれ、机の上には帳簿と酒瓶が散らばっている。ロランは瓶を手に取り、ニールの前に置いた。


「何年ぶりだ?」


「七年になるな。……覚えてたか」


「忘れるかよ。お前が俺を救ったんだ」


 ロランは笑って酒を注いだ。ニールが困ったように目を逸らす。


「救ったってほどのもんじゃねぇ。俺が荷車を引っ張っただけだ」


「俺は足を潰して動けなかった。あの時、運んでくれてなきゃ今頃ここにいねぇ。……借りはまだ返してねぇぞ」


「今、返してくれりゃ助かる」


「何だ、また厄介事か」


「そうだ。こいつを一晩、泊めてやってほしい」


 ニールが後ろを振り返る。

 ロランの視線がシンに向く。短く、鋭い。だがそのあと、ふっと肩の力を抜いた。


「……ずいぶん血の匂いがするな。追われてるのか」


「少しな」


「ま、言いたくねぇこともあるだろ。——寝床くらいはある。食い物は期待するなよ」


「……助かる」


「借りは一つ返したことにしとく。あと九つ残ってるがな」


 ロランは笑い、竈に火を入れた。赤い火がゆらめき、部屋の影が動く。ニールの表情が少し和らいだ。



 ロランは酒を飲みながら、昔話を断片的にこぼした。ニールはほとんど口を挟まず、時折うなずくだけだった。


「お前がいなくなってから、この町もずいぶん変わった。見回りが増えた。夜の号令もな。静かなのに、見られてる気がする」


「聖騎士か?」


「ああ。巡回が多い。」


 ロランの声がわずかに低くなる。

 シンはその言葉に反応しかけたが、口を閉ざした。

 胸の奥で、ざわめきがわずかに波打つ。

 東の線は細く、切れずに続いている。

 ニールはその変化を察したように目を向けた。


「シン、休め。今は考えても仕方ねぇ。」


「……分かった」


 シンは立ち上がり、ロランに軽く頭を下げて部屋の奥へ向かった。

 背後で、ニールとロランが短く言葉を交わす。

 金と物の話のようでもあり、互いの過去を確かめ合うようでもあった。



 夜が深くなる。外の風が強まり、木の壁が軋む。小屋の隅で、シンは嫌な気配で目が冷めた。


 胸のざわめきが、再び強くなる。

 遠くから、確かな“気配”が近づいてくる。

 人の歩調ではない。

 一定の間をおいて、ゆっくりと、しかし確実に——こちらへ向かっている。


 部屋の隅、火の光がわずかに揺れる。

 竈の前で、ロランが背を向けて座っていた。

 その向こうで、ニールが窓の外をじっと見ている。


「……感じるのか?」


 ニールの声が低く落ちる。

 シンは頷いた。


「東から。いや……今は、もうこの町の外だ」


「やっぱりか」


 ニールが窓を閉める。

 外の気配が、風ごと押し寄せてくる。

 馬の蹄、鉄の音。

 遠くで、鈍い号令のような声が響いた。


 ロランが立ち上がる。

 昼間の陽気さが消えていた。


「——ニール、何を持ち込んだ」


「お前に迷惑をかけるつもりはなかった」


「今さらだ。だが、お前が本気で困ってる顔は久しぶりに見た」


 ロランはそう言って、短く笑った。

 だがその笑いの奥に、微かな怯えがあった。

 窓の外で、金属が擦れる音。

 夜の空気が重くなる。


「……囲まれてるな」


 ニールが小声で言った。ロランは黙って頷く。火がひとつ、ぱちりと弾けた。


 シンの胸のざわめきが、最高潮に達する。

 もはや遠くではない。

 それは、この建物のすぐ外にある。


 扉の向こうで、誰かが足を止めた。


 風が止む。

 息を吸う音が、やけに大きく響いた。


 その静寂の中で、最初の一声が落ちた。


「——神父シン。神の名において命ずる、この扉を開けよ」

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