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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第27話 灰の朝、静寂の道

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

 夜明け前の森は、息を殺していた。

 木々の隙間から滲む淡い光が、霧を乳白色に染めている。土は湿り、靴の裏に吸い付くようだった。背後では、ニールが無造作に煙草を噛み、吐き出した煙が白く浮かんで消えた。振り返らず、軽い口調でニールが言う。


「足、止めるなよ。昼までに丘を越えねぇと、見つかる」


「……分かってる」


 シンの声は掠れていた。

 黒粉の禁断症状が完全に抜けてはいない。

 脳の奥で熱が燻り、体の奥では時折、筋肉が勝手に痙攣する。

 それでも歩けた。神の気配が、どこか遠くで微かに引っ張る。

 東の方角。

 だが、今は逆を向いている。

 森の出口までは、あと二刻ほど。

 西の丘を越えた先に、ニールの伝手があるという炭焼き小屋の廃跡がある。今はそこを一時の隠れ場にする——それが二人の共通の目的だった。


「……悪い、考え事をしてた」


「だろうな。顔が“別の場所見てる奴”の顔してる。まさか、またざわめきが聞こえてんじゃねぇだろうな?」


「……感じてる。けど、東だ」


「東?」


 ニールの足が止まった。

 薄明かりの中で、煙草の火だけが赤く光る。


「……まさか、戻るとか言うなよ。今戻ったら詰みだぞ。聖騎士の詰所がもう動いてる」


「分かってる。行かない。……ただ、向こうに“何か”いる」


 シンの声は低かった。

 ざわめきは、昨夜よりもさらに鮮明に響いていた。胸の奥で糸を引くような感覚。

 天使憑き——あの“神”に繋がる存在が、東のどこかで蠢いている。

 ルナかもしれない。違うかもしれない。

 ただ、それを確かめる術はない。


 ニールは舌打ちして、歩き出した。


「……ったく、朝っぱらから縁起でもねぇ。行くぞ。西だ」


 歩を進めるたびに、ざわめきは遠ざかっていく。

 しかし完全には消えない。まるで、糸の先が引っかかったまま、少しずつ離れていくようだった。



 森を抜けると、岩肌が露出した丘に出た。遠くの木々の間に、黒く焦げた屋根が見える。炭焼き小屋の跡だった。


「ここだ」

 ニールが扉を押すと、軋んだ音とともに木の匂いが漂った。中は薄暗く、壁に掛けられた道具は錆びている。炉の跡と木箱がいくつか残っていた。

「風と雨は防げる。寝床ぐらいは何とかなる」


 シンは肩で息をしながら、木箱の上に腰を下ろした。

 視界の隅がまだ赤い。血の残像のようにちらつく。


「少し休め。俺は周りを見てくる」

 ニールは短く言って外へ出た。


 小屋の中に一人残されると、シンの胸のざわめきが再び強くなる。

 それは呼吸と同じリズムで鳴り、胸の奥を叩いた。

(……ルナ……?)

 声にならない声が喉で途切れる。

 東の方角。

 あのざわめきの先に、何かがある。


 扉が開き、ニールが戻ってきた。

「追っ手はいねぇ。今のうちに体を休めろ」

 彼は炉に小さな火を灯し、乾いた枝を投げ入れた。ぱち、と火花が散る。

「明け方になったら、もう一度動く。俺の取引相手がこの先の町にいる。手を貸してくれるかもしれねぇ」


「……助かる」

「助けてるわけじゃねぇ。金になるからだ」

 ニールはそう言って、肩をすくめた。


 小屋の中に火の音だけが残った。

 シンは壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。

 火の揺れが瞼の裏に映り、ざわめきがまた遠くで震える。


(東……ルナ……)

 唇がわずかに動く。

 その名を呼ぶたびに、胸の奥の何かがきしんだ。

 守りたいという思いと、壊したいという怒りが交互に波を打つ。

 どちらが自分のものなのか、もう分からない。


 眠気が重くなる。

 外の風が止み、森が静まり返る。

 火の音がひとつ、またひとつ消えていった。


 最後に耳に残ったのは、胸の奥のざわめきだけだった。


 昼過ぎ。

 外は晴れている。炭焼き小屋の前の丘の上に座り、二人は風を浴びていた。

 ニールは草を一本咥えながら、どこか遠くを見ている。

 シンはその隣で、ただ黙って空を見上げていた。


「……なぁ、シン。お前、神父って言ってたよな」


「……ああ」


「信じてんのか? 神を」


 その問いに、シンは答えられなかった。

 胸の奥では、あの血の匂いと、エマの声、ルナの笑いが入り混じっていた。

 神を信じるどころか、その存在を憎んでいる。

 だが、言葉にはできなかった。


「……わからない」


「そりゃそうだ。俺も分からねぇ」


 ニールは笑った。

 その笑いは軽いが、どこかに苦味があった。


「神を信じるのは楽だ。責任が神にあるからな。

 でも、そう言う奴は考える事を止めちまう。

 天使憑きだってそうだ。あいつらの言う事は疑いもしない。」


「……見たことがあるのか」


「ああ。元聖騎士だからな。

 天使憑きの英雄様の言う事は何でも正しいってよ。

 ……綺麗ごとだけじゃ、生きられねぇ」


 風が吹いた。

 丘の上の枯れ草が波のように揺れる。

 ニールは空を見たまま、静かに言った。


「だから俺は、神なんざ信じちゃいねぇ。

 信じたら、壊れる。

 俺はただ、“現実”を信じる」


 その言葉が、シンの胸に刺さる。

 現実——今の自分には、それしかない。



 夕刻、日が落ち始めた頃。

 遠くの森の影が長く伸び、炭焼き小屋の内部が赤く染まる。

 ニールが焚き火に火を入れ、干し肉を炙る。

 焦げた匂いが漂い、腹が鳴った。


「ほら、食え。生きてるうちは腹を満たせ」


「……ああ」


 シンは少しずつ食べた。

 食べるたびに、体が現実に戻ってくる気がした。


「なぁ、ニール」


「なんだ」


「お前……どうして俺を助けた?」


 ニールは火を見つめたまま、少し間を置いた。

 笑うでもなく、真顔でもなく、ただ淡々と答えた。


「縁起が悪いと思った。神父を見殺しにするなんてのはな。

今は見殺しにしとくべきだったと後悔してるよ。」


「…すまなかった」


「過ぎた事だ」


 短い沈黙。

 だが、そこには嘘はなかった。



 夜。

 風が冷たくなり、焚き火が小さく揺れた。

 シンは目を閉じたが、眠れなかった。

 胸のざわめきが、また動いている。

 北——さっきよりもはっきりと。


(……また、近い)


 息を潜め、体を起こす。

 隣ではニールが壁にもたれ、浅い眠りについていた。

 その呼吸を乱さぬよう、ゆっくりと外に出る。

 夜の森。月明かりが草を照らしている。


 胸の糸が、さらに強く引く。

 まるで、あの神が笑っているように。


(……ルナ……)


 心の奥で、静かに名を呼んだ。


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