第26話 罵倒と合意
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
走った。背後の怒鳴り声が角を曲がるたびに遠のき、別の路地でまた近づく。ニールは前だけを見て、迷いなく手信号で進路を指示する。桶、木箱、洗濯縄。俺はそれらを踏み越え、滑り、また走った。肺は焼けているのに、足は思った以上に動く。過剰に入れた黒粉の熱が、まだ体の芯に残っている。
「ここから外周。しゃがめ。顔を上げるな」
低い塀をくぐり、軒下を這い、狭い水路に身を落とす。冷たい泥水が脛を濡らした。水路の先に鉄格子。ニールが工具を差し込み、躊躇なく側面のピンを叩き落とす。俺も手をかけ、格子を持ち上げた。重い。だが今日は軽く感じる。二人で押し上げ、身体をねじ込む。乾いた草むらに転がった。
町の外周。人の気配が薄くなる。丘陵が連なり、遠くの森が朝の薄闇に沈んでいる。ニールは息を整える間も与えず、すぐ動いた。
「踏み跡を残すな。靴裏を拭け。川筋に沿って登る」
そのまま藪に入り、獣道を拾って進む。俺の耳の奥では、あの“ざわめき”が、また別の方角へ細く引っ張っていた。近い“天使憑き”のいる方向だと、薄々分かる。だがここで曲がれば、ニールを振り切って、また地獄に向かうことになる。歯を食いしばり、引かれる感覚を黙殺した。
「おい」
前を行くニールが振り返りもせず言う。
「さっきから右に寄るな。藪が揺れてる。追跡の目印になる」
「……分かってる」
声が荒い。自分の体が、勝手に“そっち”へ向こうとする。ニールは理由を知らない。俺もはっきりとは分からない。だが、今は従う。
丘を二つ越えたところで、ニールが立ち止まった。低い倒木の陰に身を落とし、周囲を確認する。鳥の羽音。風の擦れる音。人の気配はない。
「ここから先は上を見ろ」
言いながら、ニールは木の枝に結わえた糸を一本ずつ外していく。古い罠の跡。獣よけではない。人よけだ。彼が設置したのだろう。
さらに一刻。斜面を登り、岩棚を抜け、背の高い木の奥に、苔むした石壁が現れる。痛んだ納屋の残骸に見えるが、横板を外すと中は空洞だ。狭い通路。わずかな傾斜。暗い木の扉。ニールが二度、間を空けて三度、固い節を叩く。金属の音。古い錠が解ける。
「入れ」
最初に俺を押し込み、自分も続いた。扉を閉め、閂を落とす。湿った木の匂いと、乾いた薬草、鉄、油の匂い。目が暗闇に慣れると、棚と作業台、器具、臼、瓶、布袋。奥には水甕。炉の跡。ここがニールの“山小屋”。黒粉の加工もやっていると聞いていた。見つからない場所にあるのは、こういうわけだ。
ニールはまず窓穴の板を少しだけ上げ、外をもう一度確かめてから、俺の方を振り返った。次の瞬間、胸倉をつかまれ、壁に押しつけられる。
「——なぁ、シン」
低い声。怒鳴らないのに、喉に刃を当てられたみたいな圧。
「お前は今、何をしたか分かってるな」
言葉が出ない。代わりに、ニールが一気にまくしたてた。
「子どもを、殴り殺しかけた。いや、殺した。俺の目の前でだ。しかも“助けてもらって”隠れていた場所でやらかした。俺はその場に居た。つまり、共犯だ。もう“たまたま通りかかった商人でした”は通らねぇ」
喉が縮む。ニールは容赦しない。
「町では『薬でおかしくなって妻を殺した神父』って噂が走ってる。今の件が重なる。通報もされてる。詰所は動く。周囲の橋は固められる。俺の商売の足も切られた。倉庫も割られるかもしれない。常連にまで疑いが伸びる。俺の稼ぎが全部ふいになる。損害は計算もしたくねぇ」
手が離れ、俺は壁に背を預けたまま座り込む。ニールは歩き回り、棚から布と水を引っ張り出す。俺の拳を掴み、容赦なく拭いた。布はすぐ赤黒く染まる。皮膚が割れている。関節が腫れている。殴った感触が、遅れて蘇る。
「しかもだ」
包帯を巻きながら、ニールは顔も上げずに続ける。
「レト。あれは“中身”が人間じゃなかった。分かってる。俺の目でもはっきり見た。喋り方も、目も、息の仕方も、子どもじゃなかった。名前まで出した。『アルヴァ=セルディン』。英雄さまの名だ。俺がいた頃、連中が神様みたいに持ち上げてた男の名前だ」
包帯の端を歯で噛み、きつく締める。痛みで視界が白くなる。ニールは構わずやった。
「つまり、俺はもう“ただの商人”じゃいられない。天使憑きの“中身”を見た。聖騎士団が好きそうな情報だ。俺の首にも値札が付く。お前だけの地獄じゃなくなった。俺の地獄でもある」
そこまで一気に言うと、ニールはようやく手を止め、深く息を吐いた。額の汗を袖で拭き、俺を見下ろす。
「……で。ここからどうする? “今は帰る”とか、“少しだけ必要な物を取る”とか、そういう曖昧なのはもう無しだ。俺は巻き込まれた。巻き込んだのはお前だ。だから責任とれ。計画を出せ」
言葉が詰まる。胸の中で、黒い熱がまだ燻っている。過剰摂取で頭のブレーキが焦げ付いているのが分かる。怒りの火種はあるのに、向ける先がない。俺は唇を噛み、吐き出した。
「……生き延びる。それだけだ。金がいる。黒粉がないと死ぬ。……そして——ルナを取り戻す」
最後の一言で、喉が勝手に震えた。ニールは舌打ちする。
「そうだろうな。だが順番だ。今のお前は歯止めが壊れてる。入れ過ぎたせいで暴走しっぱなしだ。まずそれを止める。いいか、ここでは俺の言う量だけを使え。勝手に触ったら、殴ってでも止める」
俺は反射的に肩を強張らせた。ニールはさらに言う。
「瓶は全部、俺が管理する。鍵もかける。お前の手から離す。発作が来たら俺が開ける。“少しだけ”だ。お前にはもう匙加減を任せねぇ」
「……分かった」
それしか言えなかった。ニールは棚から小さな鍵付きの箱を出し、黒粉の小瓶をそこへ一つずつ収めて鍵を回した。鍵は首から外した紐に通し、シャツの内側へ隠す。
「次。金だ」
ニールは指を一本立てる。
「当面二週間ぶん。寝床、移動費、口封じ、物資。黒粉は俺が卸値で出すがタダじゃねぇ。利子は付ける。分割で回収する。仕事も回す。荷運び、伝令、汚れ仕事、何でもやってもらう。嫌か?」
「……何でもやる。払う。全部払う」
「口だけならいくらでも言える。だから手形を書く。いや、お前は今、指名手配の入口だな。署名はやめとく。俺の台帳に“品名:命の代金”で付ける。返し終えるまで、俺はお前から離れない。いいな」
「ああ」
そこまで言うと、ニールはようやく苛立ちを表に出した。作業台に拳を軽く打ちつけ、顔を歪める。
「……それにしても、だ。お前は。なんであそこで、瓶ごと流し込むんだ。匙を使え。子どもが見てる前で、何やってんだ。何度も言うけどな、俺は“守ってやる”役じゃねぇ。護衛の契約もしてねぇ。お前が勝手に死のうが、俺の知ったことじゃない。——はずだったんだよ!」
最後だけが、怒鳴り声になった。沈黙。俺は目を伏せる。ニールは数度、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。言葉を選ぶ様に、低く続ける。
「……だけど、もう済まねぇ。俺は見ちまった。“あれ”を。中身が人間じゃないって、目で分かった。なら、これは俺の問題でもある。俺は天使憑きが嫌いだ。英雄さまが吐き気がするほど嫌いだ。だから、やる。やらざるを得ない。協力する。だが金は取る。俺は慈善家じゃない」
はっきり言い切ると、ニールは空の壺をひとつ俺の足元へ転がした。
「水を汲め。甕は奥。腕が痛ぇのは知ってるが、体は動くだろ。今のお前は妙に軽い。使えるうちに使う。俺は見張りと荷物の仕分けをする」
指示が次々に飛んでくる。いつものニールだ。俺は立ち上がり、水甕の蓋を開け、壺を沈めて満たす。腕が震えるが、持ち上がる。過剰摂取の熱が、まだ筋肉の奥で燃えている。俺は無言で壺を運び、壁際に並べた。
「次。着替えだ。血がついてる。上着は捨てる。ズボンは洗う。靴は底を洗って泥を別の色にする」
ニールは古いシャツを放って寄越す。サイズが少し大きい。袖をまくり、ボタンをかける。血の匂いが薄くなるだけで、少し呼吸が楽になった。
「飯も食え。干し肉を少し。水で流し込め。吐くなよ。吐いたら掃除はお前だ」
言われた通りに口へ入れる。味はほとんど分からないが、胃が動く。少しずつ力が戻る。
ひと通りの指示が終わり、作業台の上が片付くと、ニールは作成途中の図を広げた。町と周辺の手書きの地図。橋、詰所、巡回路、隠し抜け道。
「今夜はここに泊まる。夜明け前に動く。俺が先に外周を見て、追跡がいないか確認する。行き先は三つ。北の廃村、東の交易路の脇宿、西の炭焼き小屋の廃跡。どれも俺の線が通ってる。恩も借りもある。だが今のお前を見せられる相手は限られる」
指が炭焼き小屋の方で止まる。
「西だな。連中は口が固い。金にはうるさいが、口は堅い」
頷く代わりに、俺は地図の端を見た。家の方角。封鎖。聖騎士。エマ。息が詰まる。ニールが視線を追い、短く言った。
「今は戻らない。戻ったら終わる」
「……金の隠し場所が、家の中だ」
「知ってる。だから“今は戻らない”。別の金を作る。回り道してからだ」
分かっている。分かっていても、喉の奥に“戻れ”が引っかかる。そこへ、また“ざわめき”が細く干渉してくる。別の方向へ。
俺は壁にもたれたまま、胸に手を当てる。
ざわめきが、さっきから一定じゃない。
レトが死んだ直後に“向き”が変わり、今も落ち着かない。
そんな俺の仕草に、ニールが気づく。
「……おい。さっきから胸、押さえてるが、何だそれ」
「……これか」
一瞬、ためらった。言うべきかどうか迷った。
だが、レトを殺したあと“方向”が変わった感覚を、俺一人の判断で抱え続けるのは危険すぎる。
「……ニール、俺はここ数日……胸の奥で“ざわめき”を感じるんだ」
「ざわめき?」
眉をひそめる。怒りのせいだけじゃない。純粋な疑問。
「説明しろ。何の話だ」
俺はゆっくり言葉を探した。
「……痛みじゃない。苦しさでもない。
……ただ、“何かが呼んでいる”みたいに……胸の奥が引っ張られる感覚だ」
「……呼んでる?」
ニールが完全に顔つきを変えた。
怒りではなく、理解しようとする目。
「方向は分からない。けど……“あっちだ”って瞬間的に分かるんだ。
昨日もレトが死んだ後、急にざわめきの向きが変わった」
ニールが息を飲む。
「おい、それ……何かの“匂い”を追ってるみたいじゃねぇか」
「俺もそう思った。
黒粉のせいで敏感になってるのか……
それとも、俺の中の“何か”が、別の場所で動いてる“何か”と反応してるのか……」
ニールが腕を組み、鋭く言った。
「それ、“天使憑き”を指してる可能性あるぞ」
「……俺もそう思う」
胸のざわめきが、まるで肯定するように一拍だけ強く跳ねる。
ニールは舌打ちし、大きく息を払った。
「……俺自身も確信がなかった」
「確信とかそういう問題じゃねぇ!」
「……分かってる。でも、無視できない。
ざわめきの方向に——ルナがいる気がする」
ニールの怒りが一瞬で揺らいだ。
「……マジで言ってんのか」
「ああ。根拠はない。けど……感じるんだ。
あのざわめきの向こうに、ルナがいる気がする」
ニールは額を押さえ、深いため息をついた。
「……クソが。
俺はお前に散々文句言ったし、今も半分は殺してぇほどムカついてる。
だが、娘さんの話が出ると……もう止められねぇ」
「ちっ!……まぁいい。今は作戦だ」
日が傾き始め、山肌の影が伸びる。ニールは外へ出て、目印を動かし、入口を偽装し直す。俺は中で、粗末な寝床を二つ作った。敷布、毛布。干し草の下に木板がある。板の軋みが弱いところは避けた。
戻ってきたニールは、炉に小さな火を入れ、鍋に水をかけた。湯を少し沸かし、俺の手をもう一度洗い直す。消毒用の酒がしみる。
「痛いか」
「……痛い」
「痛いくらいがいい。覚えておけ」
俺は頷くしかなかった。
湯気で湿った空気が、暗い部屋の埃を落ち着かせる。外の鳥が鳴く。風が壁を擦る。ニールは背を壁に預け、足を投げ出して座った。ようやく、少しだけ肩の力を抜いたように見える。
「なぁ、シン」
天井を見たまま、ニールが言う。
「お前が俺に“ありがとう”なんて言う必要はねぇ。金を払え。働け。それでいい。だがひとつだけ、約束しろ。俺の前で、瓶に勝手に手を出すな。匙より多く入れるな。俺の指示があるまで、絶対にだ」
「……約束する」
「約束は破るためにある、なんてガキの理屈は要らねぇぞ」
「しない。破らない」
ニールは短く息を吐いた。
「よし」
沈黙。鍋の水が小さく鳴る。俺は寝床に腰を下ろし、拳を膝の間で握った。指の隙間に包帯の感触。殴った事実は消えない。レトの顔。最後の言葉。ルナの名前。胸の奥が、冷たく締め付けられる。
「……なぁ、ニール」
「何だ」
「本当に、協力するのか」
「する。言っただろ。俺の地獄にもなった。だったら俺が選ぶのは、逃げるか、戦うかだ。逃げ切れる相手じゃねぇ。だったら、やる。金は忘れるなよ」
「ああ」
「それから」
ニールは壁のフックから小さな革ベルトを外し、俺の手首に巻いた。きつくではないが、抜けづらい程度に締める。ベルトの先には金属の留め具が一つ。
「何だ、これは」
「俺の合図があるまで外すな。夜中に勝手に瓶へ手を伸ばすなよ、っていう“お守り”だ。留め具の音で起きる。起きたら俺はお前の鼻面を張る。分かったか」
理不尽だ。だが必要だ。俺は頷いた。
「分かった」
ニールは「よし」とだけ言い、背を壁に戻した。目を閉じる。俺も横になる。天井の木目が、残光でぼんやり揺れる。
ふいに——胸のざわめきが、また向きを変えた。弱い。だが確かに別の方角へ引く。ここからそう遠くない。どこかに“それ”がいる。女か、子どもか、男かは分からない。近い“天使憑き”。行けば、また俺は壊れる。分かっているはずなのに、体の芯が少しだけ前へ傾いた。
「……動くなよ」
目を閉じたまま、ニールが言った。気配だけで分かったのだろう。俺は歯を食いしばり、寝床に体を沈めた。
「動かない」
「いい子だ。明け方に動く」
短い会話のあと、山小屋は静かになった。火は弱く、湿った木が時折小さく鳴った。外の風はさらに冷え、壁を叩く音がゆっくりになっていく。
俺は目を閉じ、浅い呼吸を数えた。怒りも後悔も、眠りを寄せ付けない。だが、眠らなければ明日が踏ん張れない。数を数える。百まで。二百まで。途中で数が飛ぶ。戻る。また飛ぶ。
やがて、意識の縁がほどけ始めた頃、ニールの声が、遠くで低く落ちた。
「——生き延びろ、シン。死ねば、全部そこで終わりだ」
同じ言葉。今度は怒りが混じっていない。俺は返事をしなかった。代わりに、指先の革ベルトを軽く引っ張り、留め具の冷たさを確かめた。
山小屋の夜が、ようやく、俺たちを包み込んだ。
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