第21話 熱の底で揺れる方角
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
夜の空気は冷たいはずなのに、
シンの皮膚の内側だけが燃えているように熱かった。
小屋の扉を押し開けた瞬間、
ひゅう……と肺の奥で乾いた音が鳴る。
胸がざわつく。
熱がうねり、視界がじわりと赤く染まっていく。
(……外……。風……。深呼吸……すれば……)
思考がまとまらない。
ただ外気を吸わなければ、とそれだけで足を前へ出した。
「……ッ……!」
息が詰まる。
喉が焼ける。
足元がぐらりと揺れた。
夜の冷たい空気が、皮膚に触れたまま動かない。
シンは地面に仰向けに倒れた姿勢で、
自分が倒れた理由すら思い出せず、ただ荒い呼吸だけを繰り返していた。
胸の奥がひどく熱い。
それなのに手足は氷のように冷たかった。
身体に力を込めようとしたが、腕は震えて持ち上がらない。
視界の端が赤く滲んでいく。
そのとき、足音が近づいた。
「……おい、また倒れてんじゃねえか……!」
足音は湿った土を踏みしめ、近づくごとに粒の揃った小石が押し潰れる音を連れてきた。
低い影が視界の端にかかり、荒く息を吐く気配が落ちる。
夜目にも暗い外套の裾がかすかに揺れ、冷たい風を裂いた。
「立てるか?……いや、その顔じゃ無理だな」
しゃがみ込んだ男の手が、ためらいもなくシンの肩の下へ潜り込む。
皮革の手袋越しの感触が重く、強引で、しかし骨の位置を確かめるように丁寧だった。
引き起こされる瞬間、背中にこすれた湿り気のある土がざらりと貼りつき、衣の内側へ冷たい粒を滑り込ませる。
「力抜け。持ってく」
低く短い声。肩へ回された腕に引かれ、膝が勝手に折れ、足裏が地を探す。
けれど、足は自分のものではないくらい頼りなく、踏みしめた感覚が遅れてからやって来る。
胸の奥では熱がうねり、鼓動が耳の内側で鳴子のようにカラカラと反響した。
(……どこ……だ……ここは……)
顔の横を夜気が流れる。湿った木の匂い、遠くで虫が一度だけ甲高く鳴き、すぐに止む。
闇は静かで重たい。なのに胸の中だけがざわついて、何か見えない棘を飲み込んだように内側から掻きむしられる。
(……ルナ……?)
その名に触れた瞬間、胸の熱が跳ね、視界の赤が濃くなる。
守りたい、という衝動が喉元まで込み上げ、同時に壊したい、という黒い波が胃の裏を蹴った。
両方が同時に走るたび、肋骨の内側で何かがぶつかり合い、火花のような眩暈が散った。
男は文句を吐き捨てながら、シンの体重を半ば引きずるように受け止め、
よろめきながら小屋の方へ歩を運ぶ。
靴底が木の敷板にかかると、乾いた音が二度、三度と響いた。
扉が肘で押され、軋んで開く。内側からかすかな温もりと古い布の匂いが流れ出した。
「ほら、入るぞ」
寝台に背中が落ちる。草詰めの薄い敷き布が軋み、針のような繊維が衣の隙間から肌に刺さった。
天井の梁が一本、二本、三本と数えられる位置にあるのに、距離感が定まらない。
目は開いているのに、焦点だけがこちらの意志を無視してずれた場所を掴もうとする。
「……はぁ……重てぇんだよ、ほんと」
男は肩を回し、短く息を吐いた。文句混じりの声音の奥に、舌打ちでは隠しきれない安堵の色がうっすらと浮いていた。
「動くな。動ける身体じゃねぇ」
額にかかった髪が乱暴に払われる。指先が過った一瞬、皮膚がぞくりとする。
触れられた場所から、熱が逆流して喉の底へ落ち、乾いた息を強制的に吐かされた。
胸の奥が、また小さく震えた。
最初は泡立つように、次に糸の振るえのように。
そして、針先でそっとつつくような刺激が、体の内側のどこか一点に確かに触れてくる。
(……どこか……から……)
それは方向、というほど明確ではない。
ただ、夜のどこかの辺から薄い波が寄せ、胸の内側の同じ場所を時折撫でていく。
遠い。遠いのに、そこだけが妙に生々しい。
(……ルナ……違う……のか……)
その波に触れると、必ずルナの名が喉に登る。
だが次の瞬間には、その名はひっくり返って暗い穴に落ち、代わりに誰ともつかない気配の雑音だけが耳鳴りになった。
何かの残滓みたいなものが、意味を結ばない言葉の形で、意識の縁を擦っていく。
「……やっぱ来たか」
男の独り言が頭のすぐ上で落ちた。棚の戸が鳴り、水の入ったコップが取り出される。
ガラスが木に触れて鳴く軽い音。男は息を一つ吐き、わざとらしく肩の力を抜く。
「そりゃそうだよな。あんだけ浴びりゃ、こうなるに決まってる」
コップの縁が唇に触れる。冷たさがやけに鋭い。
舌が水を受け入れると、喉は反射でごくりと鳴った。
たった一口だけで肺の奥の熱が一瞬引き、すぐにまた戻る。戻る時は、さっきより重たい。
「普通は死ぬんだよ。生きてるだけ、奇跡だ」
男の手はぶっきらぼうだが、コップの角度だけはやけに慎重だった。
こぼれないよう、むせないよう、呼吸の合間に合わせてくる。
その息の合い方で、シンはようやく、
ここがかろうじて先程までいた場所だと分かった。
喉の渇きは、飲むほどに増えていく。
カラカラに乾いた木に水を垂らすと、一滴ごとに音を立てて吸い込んでいく、あの感じ。
限りなく飲めそうなのに、身体はそれを許さない。
胸のざわめきが、飲み込んだ水を揺すって逆流させようとする。
胃の底で熱が渦を巻き、背骨の内側を焼いた。
(……やめろ……やめ……)
声にならない声が喉にひっかかる。
指先が勝手に痙攣し、布を掻いた。
爪の先で布目が切れ、かすかな裂ける音がした。
自分が裂いたのか、心が裂けたのか、その境が曖昧になる。
「はい終わり。これ以上はむせる」
男はコップを離し、静かに棚へ戻した。
水面が一度だけ波紋を立て、すぐに落ち着く。
木の軋みがひとつ。小屋の中の音は少ない。
少ないからこそ、シンの呼吸の乱れがやけに大きく響いた。
「寝てろ。歩く気になるな。気になるのは分かるけどな」
男は寝台の端に腰を下ろした。革の衣が小さく鳴る。
視界の端で、腕が組まれる影が見えたような気がして、すぐに滲んだ赤に呑まれた。
胸の奥のざわめきは、さっきより近く、さっきより遠い。
近いのに遠い。耳の奥で透明な膜が震える。
誰かが祈っているのか、笑っているのか、泣いているのか、判断がつかない。
意味のない音が意味ありげに連なり、意味のある音が意味を失ってほどけていく。
(……どこ、だ……)
ぼんやりとした方向だけが、ときどき針で示される。
でも、それは北でも南でもない。地図に載らない方角。
胸の中の羅針盤が狂い、指すたびに盤面が赤い熱で曇る。
(ルナ……)
名を呼ぶと、喉が熱で鳴った。
呼んだのが自分か、熱か、ざわめきか、分からない。
守りたい。近づきたい。抱きしめたい。壊したい。踏みにじりたい。
全部が同じ場所から同時に湧き、胸骨の裏側に押し寄せてぶつかる。
ぶつかって、砕けて、粉になって、肺の中に吸い込まれていく。
男の靴が床を一度だけ鳴らす。苛立ちではない。間を取る音。
短い沈黙のあと、低い声が落ちてきた。
「生きる気があるなら、今は寝る。分かったな」
返事をする前に、瞼が勝手に重くなる。
粘膜が熱で乾き、閉じるたびに薄い紙を重ねるような擦れる音が頭の中だけで鳴った。
閉じる。開く。閉じ——まいとするより早く、視界は黒の濃度を増す。
(……まだ……)
落ちたくない。
落ちてしまえば、ざわめきの正体を確かめる手がかりをまた失う。
そう思うのに、身体は言うことを聞かない。
腕は鉛、脚は水、胸の中だけが火。
(……どこ……から……)
遠いところで、誰かが線を引く音がした。砂地に棒でひとすじ。
耳では聞こえないはずの、その白い音が胸の中心で鳴り、そこだけが一瞬、冷える。
冷えた場所に、次の瞬間、熱が流れ込む。
「……よし」
男の声が、すぐ近くで落ち着いた。
何かを確認するような声。
寝台の脇に置かれた何かがそっと整えられる音がして、布が一枚、胸の上に掛けられる。
「死ぬなよ。面倒は御免だが、見殺しはもっと御免だ」
軽い言い回し。けれど、言葉の置き場所が不器用にまっすぐだ。
シンは薄い意識の底から、その直線だけをかろうじて掴む。
(……祈り……?)
祈りの形をしたものが、遠くでいくつも重なる。
誰かのものかもしれないし、自分のものかもしれない。
区別はつかない。耳鳴りと祈りの重なり目で、言葉は形を持たず、
ただ響きだけが増幅する。
(……ルナ……違う……のか……)
名は泡のように浮かび、指で触れる前に弾ける。
その泡に顔を近づけると、硝子の匂いがした。
男の溜息が小屋の隅に落ちる。
火を起こす気配はない。
ただ、闇の中に人の体温がひとつある。
「……寝とけ。今はそれしかねぇ」
最後の言葉は、小石が水底に沈んでいくように小さく落ちていった。
その波紋が胸のざわめきと一瞬だけ重なり、やがて離れた。
瞼の裏で、赤が黒に飲まれる。
黒は深度を増し、層を潜るごとに音が消え、
胸のざわめきだけが細く細く残りながら、
シンの意識は闇へと沈んでいった。
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