第2話 祝福の子どもたち
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
昼の鐘が三つ、聖都リオラの屋根をやわらかく叩いた。祈りの時間が終わると、通りを渡る風が少しだけ甘くなる。蜂蜜とパンの匂い、干した布の匂い、噴水の水の匂い。リリア・セインは白い外套の裾を整え、孤児院へ向かう道を歩いた。石畳の継ぎ目には、朝の掃除で集められた小さな花弁が挟まっていて、踏むとふわりと色のない音がする。
――神に感謝を。
心の中で小さく唱えると、歩幅が自然と揃ってくる。祈りは手綱のようなものだ、と昔教わった。速すぎもしない、遅すぎもしない、いちばん長く歩ける速さへ戻してくれる。
孤児院は二階建ての白壁の建物で、蔦が絡む門柱の上に小さな鐘が据えられている。紐を引くと、「からん」という高い音が空に開き、すぐに扉がひらいた。シスター・メルが、手を拭きながら笑顔を見せる。
「いらっしゃい、リリア。今日も来てくれて嬉しいよ。神に感謝を」
「神に感謝を。みんな元気ですか?」
「もちろん。少し元気すぎるくらいにね」
玄関で靴を脱ぐと、棚には子どもたちの宝物が並んでいる。海の石、ひび割れたガラス玉、羽根の欠けた木製の鳥、色の違う糸を巻いた小さなボビン。どれも光を当てると、持ち主の顔が浮かぶ気がした。廊下の壁には、昨日描いた絵が新しく貼られている。「光のにおい」と名付けられた白い丸は、今も薄く輝いて見えた。
「リリアおねえちゃんだー!」
部屋の奥から、小さな足音が連なって飛び出してくる。ロアンが先頭で、靴ひもを引きずったまま突進してきた。
「今日は“高い高い”!」
「順番!」と、エレナがすぐさま口を挟む。今日は慰問に同行してくれたのだ。聖騎士団の青い外套が、子どもたちには少し特別に見えるらしい。ヴェイル隊長は奥の長机でシスターと話している。献立の帳面、寄付一覧、壊れた椅子の修繕予定。街の平穏は、こういう紙の上の線から作られていくのだ、とリリアは思った。
「今日はね、お絵描きから始めよう。そのあと庭で走って、最後に読み聞かせ」
「やったー!」
「剣は?」
「本物は危ないから、木のだよ。約束」
色鉛筆の箱を開けると、子どもたちの指は迷いなく自分の好きな色をつまむ。ロアンは青。双子のマルタとニコは黄色。大きい子のリスは緑。そしてミナは、白。
「ミナ、今日も白?」
「うん。今日の光は、昨日より白いの」
「昨日より?」
「朝ね、窓から入ってきたの。すべってきて、ここに座ったの」
ミナは自分の胸の上を指さして、屈託なく笑う。リリアはその指の先をそっと掌で覆った。彼女の皮膚はいつもより少し温かい。気のせいだろうか、とリリアは思う。春の風があたたかいように、光の近くにいると体温が上がることだってある。
「ミナ、今日の光はどんな匂い?」
「甘い。パンの匂いと同じ。あとね、聖堂の床を磨いた時の、つるつるの匂い」
「つるつるの匂い?」
「うん。すべらないように、ぎゅって手を広げた時の匂い」
言葉がまだ上手に名を持たないものを、ミナは確かに手繰り寄せる。リリアは頷き、彼女の紙の端に小さな丸を描き足す。
「じゃあ、そこは“つるつるの匂い”の光。ここは“パンの匂い”の光ね」
「うん!」
部屋の隅では、ヴェイルがシスターから小麦粉の配給票の話を聞いていた。「来週は雨が続くらしいから、乾物をもう少し」とシスターが言うと、ヴェイルは「了解。団で手配する」と短く答える。彼の声は低いが、聞こえやすい。こういう人の声を神は好きだろう、とリリアは思う。必要なところに必要な量だけ、真っ直ぐに届く声。
絵を描き終える頃、湯気の匂いが廊下から流れてくる。厨房の扉を開けると、マダム・ローザが大鍋をかき回していた。はちみつと柑橘の皮をほんの少し入れたミルク粥だ。リリアがお椀を運ぶのを手伝うと、ローザは片眉を上げて言った。
「塩は三つまみ。祈りと同じで、欲張らない」
「はい。……あっ、今日のミルクは甘い」
「牧場の子が朝一番のを持ってきたのさ。神に感謝を」
「神に感謝を」
食卓につくと、子どもたちは自然と手を合わせる。誰が先に言い出すでもない。こういう習慣が身に染みている街は、やっぱり美しい、とリリアは思う。
「今日の食べものと、屋根と、靴と、笑いと、祈りに、神に感謝を」
「神に感謝を」
ミルク粥の表面に、窓の光が薄くのって揺れる。ミナは匙を持つ手を胸の前で一度止めて、何かに小さく頷いた。それから嬉しそうに一口、二口。
「おいしい?」
「うん。ねえ、お姉ちゃん」
「なあに」
「光って、飲めるの?」
「え?」
「飲むと、あったかくなるから」
「……そうだね。きっと飲める。ミルク粥みたいに」
「やった。じゃあ、たくさん飲む」
ロアンは相変わらず靴ひもを垂らしている。エレナが根気よく結び方を教える。「うさぎの耳を作って、くぐって、ぎゅ」と言うと、ロアンは途中で飽きて笑って逃げた。追いかけるエレナの外套がひらりと翻る。笑い声の合間に、祈りの歌の断片が聞こえ、廊下の向こうでシスターが寝具を干している。午後の孤児院は、いつも同じ平和な音で満ちている。
庭に出ると、空の青が濃くなっていた。小さな泉の周りにラベンダーが植えられていて、蜂が音を立てながら行き来する。縄跳び、かけっこ、鬼ごっこ。ヴェイルは大人げなく鬼をやり、子どもたちは全力で逃げる。リリアは縄跳びの縄を持って回し、エレナは転びそうになる子をすばやく抱き留めた。
「お姉ちゃん、剣!」
「はいはい、木の剣ね。順番」
短い木剣を三本持ってきて、順番に握らせる。リリアは姿勢を見て、背中を指で軽く押した。
「胸を張って、ここ。光が入るように」
「光が入ると強くなるの?」
「うん。自分をまっすぐにできる。剣は心の形と同じだから」
「心、見える?」
「ううん。でも、触れる」
ミナは剣には興味がないらしく、泉のほとりで丸い石を二つ拾い、重ねては倒し、重ねては倒しを繰り返している。揺れる髪が光を溶かしたみたいにやわらかい。近づいて覗くと、首元に薄い模様が見えた。真珠の粉を水で溶いて指で描いたような、淡い輪。呼吸に合わせて、かすかに明滅する。
「ミナ、首……」
「これ? 朝からあるの。触るとあったかいよ」
ミナは人差し指で輪郭をなぞり、くすぐったそうに笑った。
「痛くない?」
「うん。くすぐったいだけ。シスターは“祝福の印”って言ってた」
「祝福……」
シスター・メルが近づいてきて、二人の会話に加わる。
「選ばれた子に現れるの。神に見守られている証だよ、リリア」
「はい……。神に感謝を」
口ではそう言ったが、喉のどこかで言葉がひっかかった。印に悪いものは感じない。ただ、近すぎる気がした。窓の光が床に描く輪が、足首に絡みつくときの感覚。美しいけれど、一歩を間違えると滑ってしまう、あの感じ。
午後の中ほど、雲が少し増えて日差しが柔らぐと、子どもたちは眠気に抵抗できなくなる。部屋に戻り、薄い毛布を配り、枕を叩いて柔らかくする。寝る前の祈りを唱える時間だ。リリアは小さな椅子に腰かけ、子どもたちと同じ高さで目を閉じる。
「今日、走った足に感謝します。転ばなかった膝に感謝します。笑った口に感謝します。怒らなかった心に感謝します。私たちのご飯と、屋根と、友だちと、祈りに、神に感謝を」
「神に感謝を」
寝息が重なっていく。ミナは目をつぶる直前、リリアの袖をそっと引いた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なあに」
「夜になったら、光が来る?」
「どうしてそう思うの?」
「さっき、泉で、聞こえたの。水の声。『また夜に来るね』って」
「……それは、きっと夢のお誘いだよ。いい夢を見ておいで」
「うん。おやすみ。神に感謝を」
「神に感謝を。おやすみ」
廊下に出ると、ヴェイルが窓の鍵を確かめていた。エレナは壊れかけの椅子の足をひもで仮留めしている。リリアは台所でローザと一緒に食器を洗いながら、さきほどの印について話題を出そうか迷ったが、言葉にはならなかった。神に近いほど、美しいことは間違いない。美しいものに不安を抱くのは、思い上がりかもしれない。洗い終えた皿の縁に指を当てると、丸は途切れずに続いていく。祈りみたいだ、とまた思った。
黄昏どき、街路樹の影が長く伸び、孤児院の壁に葉の縁が刺繍のように映る。帰り支度をしていると、ミナが眠い目をこすりながら玄関まで見送りに来た。裸足。足裏に粉砂糖をつけたみたいに白い埃がついている。
「またね、お姉ちゃん」
「また明日。靴は?」
「忘れた」
「忘れないの」
しゃがみ込み、紐を結ぶ。蝶々結びにして、ほどけないように指でぎゅっと押さえる。ミナは真剣に見ている。結び目ができると、ちいさな歓声を上げた。
「わぁ。これ、光みたい」
「どうして?」
「真ん中が、あったかい」
「……そうだね。あったかいね」
見送る門の横で、シスター・メルが微笑む。
「今日も助かったよ。神に感謝を」
「神に感謝を。シスター、ミナの印のことですが……」
「ええ、見たわ。きれいね。きっと良い子だから」
「そう、ですね」
門を出ると、夕風が頬を撫でた。尖塔の先に薄い雲がかかり、光の輪がにじむ。道端の石に座って老人が数珠を繰っており、通りを魚屋の車が帰っていく。荷台の上で氷が鈴のような音を立てた。店々は窓に灯りをともし始め、香草の匂いと油の匂いが混じった空気が、ゆっくり夜に変わっていく。
「リリア」
エレナが肩を並べる。「大丈夫?」
「何が?」
「なんとなく、顔。考えごと」
「……少し。印のこと、気になって」
「祝福でしょ?」
「そう。祝福」
言葉にしてみると、余計に曖昧さが残った。祝福であることは疑いない。それでも、心のどこかで、足元の石が一つ欠けているような妙な不安が鳴り続けている。
「隊長は?」
「先に団へ戻って、明日の巡回の段取りを。あ、そうだ」
エレナは懐から小袋を取り出した。リリアの手にそっと握らせる。
「ロアンから。“いつもありがとうのお守り”。道端で拾った石だって」
袋の中には、白く平たい石が一つ。触ると、ほんの少し温かい。
「……神に感謝を」
「神に感謝を」
宿舎に戻るまでの道のり、リリアは石を握りしめたまま歩いた。手の中の丸い重みは、今日の子どもたちの笑い声をよく覚えている。部屋に入ると、窓を開け、机の上に小さな皿を置き、その上に石を置いた。形見の十字ペンダントの隣。並べると、不思議と調和する。どちらも、祈りの形をしている。
夜の祈りの前に、日誌をつける。孤児院への慰問は、団の公式記録としても残す必要がある。リリアは淡々と項目を埋めていく。参加者、活動内容、配布した物資、子どもたちの様子。最後の欄に、少しだけ余白がある。「特記事項」と書かれたその欄に、ペン先がためらいの円を描いた末、短く書いた。
――ミナの首元に、薄い光の印。痛みなし。体温やや高め。笑顔多し。
句点を打ってから、ため息に似た息が漏れた。書いてしまえば、ただの文字になる。祈りは時々、記録と同じ働きをする。揺れている心を安定した列へ整える。言葉は列で、列は道になる。
机から立ち、窓辺に膝をつく。夜気が静かに入り、遠くの塔の鐘が、間をおいて四つ鳴った。胸の前で手を組む。おでこを軽く指に押し当てる。それだけで、一日の音が沈んでいく。
「今日、一緒に笑えたことに感謝します。転ばなかった膝に、ほどけなかった結び目に、壊れなかった椅子に、間に合った言葉に。ミルク粥を運んだ手に、蜂蜜を分けてくれた人に、誰かの“ありがとう”に。神に、感謝を」
言い終えると、喉の奥がすこし熱くなった。今日という日の輪郭が、やっと自分の中に収まったからだ。窓の外を見ると、星が最初の数を数え始めている。風が薄く歌のような形をとり、カーテンがその歌の譜面みたいに揺れた。
寝台に身を横たえる直前、ふと、ミナの言葉が蘇る。
――夜になったら、光が来る?
来るだろう、とリリアは思う。いい夢も、やさしい光も、ここでは当たり前のように来る。祈りの届く街。約束の守られる街。眠るための静けさが、壁紙の模様みたいに部屋に貼りついている。
目を閉じる。内側の闇はすぐに薄い金色に染まり、礼拝堂の天窓から落ちる朝の光に似た色が広がった。ひとつ、深く息を吐く。
――神に感謝を。
その言葉は、今日もすべてをやさしく閉じた。明日の朝もまた、鐘は七つ鳴るだろう。床を磨き、訓練をし、孤児院で笑い、約束を口にし、夜に祈る。世界は正しく回っている。光は、いつだって遅れずにやって来る。
ただ、眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、胸の奥で小さなざわめきがした。名前のつかない音。靴ひもが机の角に引っかかっていることを寝る前に思い出す、あのどうでもいいのに気になる感じに似ている。すぐに消える。眠りの重みが上から静かに降りてきて、すべてを平たくした。
夜の最初の風が、窓から部屋へ流れ込む。白い外套の裾が、ベッド脇の椅子の背で小さく揺れた。遠くで、犬が一声鳴いた。塔の上の灯が一つ消え、別の塔で灯が一つ点いた。見えないところで、誰かが同じ言葉を言っている気がした。
――神に感謝を。
リリアは眠った。街も眠った。祈りだけが、眠らなかった。
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