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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第12話 再祈祷の日

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

朝。

 鐘が三度鳴った。

 十一日ぶりの音だった。

 沈黙に慣れていた耳には、あの高い音が刃のように刺さる。

 聖都リオラは今日から再び「祈る」ことを許された。

 それは祝福の合図であり、同時に、命令の合図でもあった。


 私は塔の前に立っていた。

 白布は新しく張り替えられ、崩れた外壁は神官たちの手で上塗りされている。

 昨夜まで焦げの跡が残っていた場所に、金の装飾が新しく刻まれていた。

 まるで何も起きなかったかのように。


 「リリア・カナン。配属変更の命が下りました」


 報告書を持った書記官が淡々と告げる。

 「本日より、祈り再開時の“監視任務”に就いていただきます」


 「……監視、ですか?」


 「はい。再祈祷における“精神汚染”防止のため、唱和中に異常がないか見張るのです。あなたの視線を、塔の中に向けなさい」


 命令に逆らう余地はなかった。

 私は無言で頷く。

 “祈りを見張る”――それが、今日の私の仕事だった。


 * * *


 塔の内部は、以前よりも明るい。

 上層から差し込む光が増し、壁の紋様が金に近い輝きを帯びている。

 だが、それは美しさではなく、異様さだった。

 光が強すぎて、目が痛む。

 まるで、神が「見逃さない」と言っているように。


 私は塔の中心部――唱和台を見下ろすバルコニーに配置された。

 隣に立つのはエレナ。

 彼女は微笑みながらも、どこか距離を取っている。

 昨日までは隣で小声で冗談を言い合っていたのに、今日は口を閉じている。

 私を見る目も、ほんの少し硬い。


 「エレナ」

 「……なに?」

 「昨日、何かあった?」

 「別に。上からの指示が増えただけ。あなたにも届いたでしょ、“監視対象”の通達」


 喉が鳴った。

 彼女は淡々と言うが、その言葉の意味は重い。

 私はもう“仲間”ではないのだ。


 「……疑ってるの?」

 「疑ってるわけじゃない。命令だから」

 「それを“信仰”って呼ぶの?」

 その瞬間、エレナの瞳が少し揺れた。

 けれど、何も言わなかった。


 * * *


 祈りが始まる。

 司祭の声が塔全体に響き、数百人の信徒が同じ言葉を繰り返す。

 「光は天に、影は地に。神はその間に在す」

 何度も何度も。

 呼吸のように、鼓動のように。


 私はただ、見ていた。

 祈りの波が広がるのを。

 その中で一人、また一人と表情が変わっていくのを。

 恍惚。陶酔。まるで光の中に溶けていくように。


 ――そして、匂い。


 鼻先をかすめるような、焦げた苦味。

 黒粉。

 祈りが高まるほど、その匂いが濃くなる。

 私は思わず柵を握りしめた。


 「止めて……」

 声にならない声が漏れる。

 止めないと、また――。


 だがその瞬間、床が鳴った。

 低い音。塔の根が軋むような音。

 信徒たちは気づかない。

 光の中で祈り続ける。

 私は一人、異物のように立ち尽くした。


 ――風が吹く。


 塔の隙間から入り込んだ風が、祈りの音を裂いた。

 黒い粉が宙に舞い、光の中を渦のように回る。

 白が、黒を抱き込む。

 瞬間、祈りの響きが止まった。

 空気が逆に流れた。


 私は息を飲む。

 その渦の中で、確かに聞こえた。

 男の笑い声。

 「……止まれって、言ったろう?」


 エレナがこちらを見る。

 信徒たちはまだ祈っている。

 だがその中の数人が、震えていた。

 目の奥に光がない。

 まるで別のものに操られているように、口だけが動いている。


 「天に――光を――地に――影を――」


 エレナが階下へ走る。

 私は立ち尽くしたまま、上から見下ろす。

 白い衣が、次々と黒に染まっていく。

 粉が衣に触れるたび、色が変わる。

 神の色が、煤に変わる。


 ――祈りが反転している。


 頭の奥で、昨夜の修道士の言葉が蘇った。

 「祈りは上へ昇るはずなのに、ここでは、下へ吸い込まれていった――」


 今、まさにそれが起きていた。

 祈りが、天に昇らず地に吸われていく。

 塔全体が息を吐き、光が逆流している。


 「……シン」


 思わず、名を呼んだ。

 風が応えた気がした。

 冷たい息が頬を撫で、低く笑う。

 「神様の時間は終わりだよ、聖女さん」


 光が弾け、祈りが崩れた。

 人々が叫ぶ。

 塔の天蓋が震え、外の鐘がひとりでに鳴り始めた。

 その音は祈りではなく、警鐘だった。


 私は走る。

 階段を駆け下り、祈祷台に辿り着いたとき、エレナが膝をついていた。

 彼女の腕の中で、子どもが泣いている。

 その周囲に、黒粉の渦。

 そして、その向こう――


 黒衣の男が、立っていた。


 笑っていた。

 あの夜と同じように。

 だが今は、笑いに悲しみが混じっているように見えた。


 「……また会ったな」


 彼の声が、祈りよりも静かに響いた。

 リリアの喉が震え、言葉にならない音が漏れる。


 「あなたは……何を、してるの……?」


 「俺はな」

 男はゆっくりと顔を上げた。

 光がフードの奥を照らす。

 目が、笑っていなかった。

 「“祈り”を殺してるだけだよ」


 塔が揺れる。

 神の名が崩れる。

 リリアの世界が、音を立てて割れた。


 その瞬間、外から夜が落ちてきた。


 昼のままの空が、暗闇に飲み込まれていく。

 塔の光は消え、代わりに黒粉の渦だけが輝いた。

 まるで神が息を止めたように――。


 そして、祈りの都リオラは再び沈黙した。

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