第11話 祈りの沈黙
本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
朝の鐘は、鳴らなかった。
聖都リオラが沈黙している。夜明けの光は灰色で、塔の影だけが長く伸びている。
昨日まで人々が並んで祈っていた広場には、白布と灰だけが残っていた。
団舎の中も静かだった。誰も口を開かない。
昨夜の張り込みから戻った第一班は、報告を終えても椅子に座ったまま動かない。
私は記録書を閉じ、冷え切った紅茶を一口飲んだ。味がしない。舌の奥に、黒粉の苦味がまだ残っている気がする。
エレナが向かいで紙束をめくりながら呟いた。「……あの黒衣、本当に人間だったの?」
「……わからない」
答えた瞬間、喉が乾いた。
あの夜、彼は確かに笑っていた。痛みに酔って、祈りを嘲笑って、それでも“誰かを守る”と言った。
あの狂気の裏に、人の声があった。だからこそ怖い。もし神に逆らう者が、神よりも人を知っているなら――私たちの信仰は何なのだろう。
「教会の命令が下ったよ」
エレナが紙を差し出す。
“祈りの再開、三日後。”
黒衣の出現にも関わらず、祈りは止めない。むしろ強化する、と書かれていた。
私は紙を握りつぶした。
「まだ、祈る気なの……? 昨日、あんなことがあったばかりなのに」
「上は『祈りを止めたから魔獣が現れた』と言ってる」
エレナの声は乾いていた。「逆じゃないのかって言った人、何人かいたけど……みんな黙らされた」
その瞬間、私は“言葉を失う”ということの意味を理解した。
祈りを疑えば異端。異端と呼ばれれば、人ではなくなる。
神に仕える街では、黙ることが生き残る唯一の術だ。
* * *
昼。
塔の周囲では修道士たちが修復作業を続けていた。
壁の亀裂を埋める音、石を運ぶ音、どれも同じリズムで、まるで祈りの代わりみたいに繰り返されている。
私は現場の警備を任され、塔の足元に立っていた。
「――リリア様」
炊き出しの修道女が駆け寄ってきた。昨日、母子を介抱していた女性だ。
「例の方々、避難所に収容いたしました。あの母子も……無事に休まれております」
「そう……ありがとう」
言いながら、胸の奥に小さな棘が刺さる。
母子が助かったのは、神の加護か、それとも“あの男”が祈りを止めたからか。
その違いが、もう自分でも分からなくなっていた。
修道女は少し躊躇いながら言葉を続けた。
「……塔の下で見つかった『黒い線』、あれは何なのですか?」
「わからない」
短く返す。
ほんとうは、わかっている。あれは祈りを壊すための印。
でも、口に出したら、もう私は聖騎士ではいられない。
* * *
午後、団舎に戻ると、ヴェイルが司祭と口論していた。
「塔の再祈祷は時期尚早だ!」
「神の意志を疑うのか!」
二人の声が廊下に響く。私たちは立ち止まり、息を潜めた。
扉の向こうで、司祭が書類を机に叩きつける音がした。
「神敵の影響を払拭せねば、信徒が不安に呑まれる! 祈りこそが秩序だ!」
「だがその祈りが災いを呼んでいる可能性がある。……少なくとも昨夜はそうだった!」
沈黙。
ヴェイルが何かを言いかけて、やめる気配。
次の瞬間、司祭の声が低く響いた。
「貴様も……揺らいでいるのか?」
「――報告書をまとめ次第、再提出します」
ヴェイルの声が、氷のように冷たくなった。
彼が扉を開けて出てきたとき、その顔に感情はなかった。
「リリア、外へ出ろ」
命令の声。
私は何も言えずに従った。
* * *
夕方。
塔の影が街を二分していた。
陽の当たる側では祈りが行われ、影の側では修復が進む。
光と影の境界に立つと、息が詰まる。
神はどちらにいるのだろう。
……あるいは、どちらにもいないのかもしれない。
「おい、見たか?」
石積みの作業員がひそひそ声で話している。
「塔の裏で、また黒い粉が見つかったらしい」
「神敵の呪いだってさ」
「馬鹿言うな。教会が掃除したって言ってただろ」
「いや……さっきの風で、また匂いがした」
私は振り返った。
確かに、風が変わった。
焦げた金属と薬草のような、あの独特の苦味。
――黒粉だ。
塔の影が伸びる。
その中で、ふっと人影が揺れた気がした。
思わず足が動く。
影の中を覗き込むと、そこには何もない。
けれど、声がした。
「……また、祈るつもりかよ」
瞬間、全身の血が逆流した。
背後を振り返る。誰もいない。
風だけが塔を撫でていた。
「シン……?」
初めて、その名を口にした。
まだ、名前すら知らないはずなのに。
なぜか、その名が浮かんだ。
あの夜、耳の奥に焼き付いた笑い声と共に。
「お前たちは、まだ神を信じるのか?」
声が風の中で笑う。
空気が乾く。
そして、音が途切れた。
私は息を止めたまま、塔を見上げた。
祈りのない塔。
それでも、上空には微かに光が集まっている。
まるで、誰かが“試している”ように。
* * *
夜。
団舎に戻ると、報告書の束が机の上に置かれていた。
上から二枚目の紙に、赤い印。
“異端的発言の傾向あり――観察対象”
署名は、修道長のものだった。
喉が焼けるように熱くなる。
誰が報告したのか。エレナ? ヴェイル? それとも、あの場にいた司祭たちか。
どちらにせよ、もう私は“監視される側”になった。
信仰の外に立つ者。
……笑い声が、耳の奥で蘇る。
「祈りを壊すためにここにいる」
あの言葉の意味が、少しだけわかる気がした。
神を憎むためではなく、人を救うため。
その歪んだ信念が、いまの私には正しく見えた。
私はペンを取り、報告書の裏に一行だけ書いた。
――“黒衣の男、再び現れる予兆あり。風向きが変わった。”
それが、報告ではなく“願い”になっていることに気づいたのは、書き終えてからだった。
祈りよりも確かな何かを求めて、私はその文字を見つめ続けた。
外では、夜風が塔を撫でていた。
鐘は鳴らない。
ただ、遠くで誰かが笑った気がした。
それは祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
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