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神に感謝を  作者: 黒川 遼


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第10話 塔の翌日

本話もお時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。

夜が明ける前に、鐘は二度だけ鳴って止まった。

 聖都リオラは、眠りきれないまま朝を迎えたのだろう。石畳の間に黒い粉が残り、塔の外壁には白布が新しく巻かれている。足場はまだ濡れていた。昨夜の霧が、祈りの代わりに塔を覆っていたのだ。


 私は剣帯を締め直し、団舎の扉を開ける。冷たい空気が肺を刺す。鼻の奥に、まだ黒粉の苦い匂いが残っている気がした。喉の奥で味を確かめるように唾を飲み込む。消えない。祈りの歌よりもしつこく、あの匂いだけが体内に居座っている。


 「――集合だ」


 中庭でヴェイル隊長が短く告げた。声はいつも通り低く、だが目の下の影が濃い。彼の背後に立つ騎士たちの列にも、疲労がはっきり刻まれている。誰も眠れていないのだ。祈りが止まり、魔獣が崩れた瞬間の沈黙――あの重さを、どう扱えばいいのかわからないまま朝を迎えた。


 「昨夜の件、教会は“祈祷中断に伴う不具合”として発表する」


 ざわめきが走った。エレナが一歩出かけ、私の袖を軽く引いて止めた。


 「不具合って、何の……?」


 「説明はない。市内の避難者保護を最優先、祈りは当面縮小。――以上が表向きだ」ヴェイルは視線を落とし、次の紙を持ち上げた。「非公開通達:黒衣の男を“神敵しんてき”と断定。捕縛、もしくは討伐の権限を第一・第二隊に付与する。目撃地点は塔周辺、西側の下水口、北路の旧墓苑。黒粉の痕跡が続いている」


 喉がかすかに鳴った。神敵。あの言葉は、剣よりも無慈悲に人を切る。名を与えた瞬間、迷いが奪われる。祈りの塔で起きたこと――祈りが止まった途端に魔獣が崩れたこと――それさえも、神敵という単語の前では、形をなくしてしまう。


 「第一班、塔の地下調査。第二班、旧墓苑へ。第三班は市外防衛線。……リリア、エレナは第一班に入れ」


 「了解」


 声は出た。体のどこかが、命令に反射して動く。騎士はそういうふうに作られている。だが、胸の内側で別の声が細く鳴り続けている。――祈りを止めろ、と。昨夜、黒衣の男が吐き捨てた言葉が、耳の骨にこびりついて離れない。


 * * *


 塔の地下に下りる階段は、湿っていて冷たい。壁の苔に染み込んだ油の匂いと、焦げた蝋の匂い。それに、わずかな黒粉の匂い。祈りの塔の下に、祈り以外の匂いがすることに、私はまだ慣れない。階段を降り切ると、広い空洞が現れた。祈りの響きを街へ放射するための空間――だと教えられてきた場所だ。


 「昨夜はここで音が消えた」


 先に来ていた書記官が、震える指で記録板を押さえている。聖歌隊の控室へ通じる通路には、黒い粉が線のように残されていた。粉は途切れては続き、角で薄く散っている。人が歩いた痕跡というより、風が押し流した名残のようだ。


 ヴェイルが手袋をはめ、床に膝をついて粉を一つまみ掬う。鼻先まで持ち上げ、嗅いだりはしない。ただ光にかざし、粒の重さを確かめる。


 「……夜のものだ。乾きが早すぎる。瓶からこぼれた直後ではない」


 「黒衣の男が通ったんでしょうか」エレナが問う。


 「断定はできん」ヴェイルは立ち上がり、暗渠の方角を顎で示した。「空気の流れが変だ。祈りの音が止まる寸前、ここを通った何かが、風を反転させた。黒粉の線は、その逆流の軌跡にも見える」


 「風が……?」


 私は水路の上に身を乗り出し、暗い流れを覗き込む。水は薄く濁っている。底に灰色のものが沈み、時折ぷつりと泡が浮かぶ。魔獣の粘液が混じっているのだろう。水の匂いは古い紙に似ていた。息を詰める。祈りの塔の下に、こんな匂いは似合わない。


 「――ヴェイル殿」


 背後から、修道長が現れた。白い衣は完璧に整い、顔色は青白い。「昨夜の件、教会は……」


 「説明は不要だ。現場の確認を優先する」


 修道長は口を結び、私たちの横を過ぎた。祈りの祭具を収めた扉に鍵を差し入れ、慎重に回す。扉の隙間から、甘い香の匂いが漏れた。白い粉――結界用の香剤だ。昨夜はこの香が強く焚かれたはずだ。祈りを強めるために。


 「リリア」ヴェイルが呼ぶ。「黒粉の線を追う。行け」


 私は頷き、暗渠に沿って進む。足音が壁に反響し、二度鳴って一度消える。耳が自分の音を信じ切れない。角を曲がるたび、黒い線は細くなり、時折ふっと途切れる。そのたびに胸が詰まる。あの男は、ここを通った。体が知っている。匂いがそう告げている。


 暗渠を抜けると、低い天井の別室に出た。古い石の壁に、爪のような傷があった。灰色の粉が指の跡になって壁に塗られている。何かの形――いや、文字ではない。渦と線の繰り返し。祈りの楽譜を壊してしまったような、乱れた模様。


 「……何これ」


 エレナが指先を近づけ、すぐに引っ込めた。冷たいものを触ったときの反射みたいに早く。


 「見つけた者がいる」一歩後ろの闇から声がした。振り向くと、修道士が二人、灯を掲げて立っていた。若い方は壁を見ないように視線を床に落とし、年配の方は額に汗を浮かべている。「夜中、ここで……“歌”が逆に流れた、と」


 「逆に?」私は思わず問う。


 「祈りは上へ昇るはずなのに、ここでは、下へ吸い込まれていった――と」


 ヴェイルの横顔が強張った。修道長は唇を固く押し結び、視線を逸らす。言葉は、その場で乾いて落ちた。祈りが、逆さに流れた。塔は何を送って、何を受け取ったのか。


 * * *


 地上に戻ると、塔前の広場は静かで、そして奇妙に明るかった。冬の陽が布に反射して揺れ、避難していた人々が少しずつ戻っている。瓦礫をよけ、水を運び、短く祈る――音は小さく、割れ物を扱う手つきだ。


 臨時の炊き出し所では、修道女が大鍋の粥を配っていた。列の最後尾に、幼い子を抱いた母親が立っている。昨夜の混乱で塔の影から救助した親子だと、護衛の騎士が耳打ちした。


 修道女が私に気づき、木の椀を差し出す。「警備と救助、ありがとうございました。騎士様もどうぞ」


 私は椀を受け取り、母親に目礼する。彼女は子を抱き直し、かすれ声で言った。「あのとき……抱き上げてくれて、ありがとうございました」


 「……私だけの力じゃありません」


 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。魔獣が崩れたのは祈りが止まったからだ――私ではない。けれど“誰かが腕を伸ばした”事実は、たしかにここに残っている。


 母親は小さく祈りの言葉を口にし、最後に私の手を取った。「神様のお恵みがあなたにありますように」


 私は頷く。昨夜、祈りが恐ろしいと思ったのに、この祈りは温かい。塔の祈りと人の祈り――同じ名で呼ばれていても、触れた温度が違う。


 * * *


 旧墓苑へ続く北路は、風が強い。枯れ草の匂いの向こうに、薄く黒粉の苦味が漂っていた。線は決して濃くはない。だが、途切れない。塔の下で見た線と同じ速さで、同じように角で散り、また現れる。


 「見ろ」


 エレナが指さした先に、石碑の影。灰色の塊が沈んでいる。近づくと、古い魔獣の死骸だった。死んでいるのに、死骸と呼ぶのがためらわれる。形は崩れ、液は乾き、残っているのは膜と骨の中間のようなもの。周囲の草が色を失っている。


 「昨夜ではない。もっと前の……」ヴェイルが膝をつく。「だが、上に薄く黒粉が積もっている。誰かがここを通り、粉が風に落ちた」


 私は石碑の背に手を置いた。冷たい。冷たさの中に、微かな振動がある。風ではない。地面の下で、何かが呼吸している。祈りの塔の下で感じたのと同じ脈動。どこへ続いているのか。


 墓苑の中央に、小さな地下納骨堂がある。扉は古く、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てた。中は暗い。灯をかざすと、石棚がいくつも並び、名前が薄れた木札が埃に埋もれている。階段を下り、二つ目の踊り場で、黒粉の線は濃くなった。


 「ここだ」


 ヴェイルが剣の柄で床を軽く叩く。空洞音。床石の一枚に、わずかな隙間。エレナが膝をつき、短剣で埃を払う。隙間に薄い膜のようなものが挟まっていた。爪で引っかくと、膜が破れ、乾いた灰がぱらりと落ちる。


 「開けるぞ。慎重にだ」


 三人で力を合わせ、床石を持ち上げた。下には狭い縦穴。空気が上がってきて、灯が揺れる。冷たい。湿った紙の匂い。深いところで水の音がした。縦穴の壁には、誰かの爪の跡が残っている。人のもののように細かく、しかし深い。落ちたのか。登ったのか。


 「私が降ります」


 言うと同時に、ヴェイルが首を振った。「危険だ。まず索具を――」


 「私が一番匂いに慣れてます。あの匂い、追えるのは今のうち」


 短い沈黙ののち、ヴェイルは頷いた。腰にロープを巻き、降下用の環を通す。エレナが私の目をまっすぐに見つめ、口角をわずかに上げた。「無茶はしないで」


 縦穴に体を滑り込ませる。石の冷たさが脇腹に触れる。足で壁を押し、ゆっくりと降りる。黒粉の匂いが濃くなった。夜の塔の下で嗅いだ強さに近い。舌が痺れる。歯の裏に苦味の粉が貼りつくようだ。


 足が底に触れた。細い通路が一本、奥へ伸びている。灯を低く掲げると、壁にまた、渦と線の模様があった。塔の下で見たものと似ているが、こちらはさらに乱暴で、ところどころに爪痕が重なっている。ふと、壁の低い位置に小さな印が見えた。花の刺繍の形――孤児院の子ども服で見た白い花ではない。指でなぞると、粉が指に着いた。人の背の低い者が、立ったり座ったりしながら壁を触った跡。


 (誰が、ここを――)


 前方で、かすかに水の音が高くなった。誰かが石を蹴ったのか、それとも水そのものが声を持っているのか。灯を上げ、さらに一歩進む。足元に、ガラスの破片が光った。小瓶の口。噛み切られたコルクの歯型が残っている。


 黒衣の男は、ここを通った。やはり。


 通路はやがて二手に分かれた。右は風が冷たく、左は湿っている。匂いは――右だ。黒粉の苦味が右から強く流れてくる。灯を右に向けた瞬間、遠くで何かが光った。反射ではない。生きた光。青白く、瞬く。呼吸のように。


 「リリア、何が見える?」上からヴェイルの声。


 「光……いえ、何かの反射。黒粉と――」


 言いかけて、光がふっと消えた。通路の奥で、乾いた笑い声がした。遠すぎて、音の輪郭ははっきりしない。だが、笑いだ。空間に合わない高さ――祈りとは逆さの笑い。


 体の芯が冷えた。ロープを握る手に力がこもる。「……いる」


 返事はなかった。風が向きを変え、匂いが途切れ、次の瞬間、肩口の灯が短く揺れた。炭がぱち、と音を立てる。音はすぐに闇に吸われた。遠くで水が笑う。いや、人だ。人の笑いが水に溶けると、こんな音になるのだ。


 私は引き返した。ここで追えば、通路で迷う。通路は人のための構造ではない。祈りの塔と墓苑をつなぐ、何か別のもの――誰か別のもののために流れている。地上に顔を出すと、エレナの手が私の腕を引いた。光が眩しい。目が痛む。


 「どうだった?」


 「黒粉。瓶。……笑い声」


 「やはり」ヴェイルが短く息を吐く。「線はここで切った。いったん団舎で再編だ」


 * * *


 夕刻。団舎の会議室は、朝よりも重かった。各班からの報告が積み重なり、紙の山は小さな塔になっている。魔獣の出現は午後以降は見られず、祈りの塔周辺も静かだという。市民の怪我人は多いが、昨夜より命は多く残った。数字の上では、あの「中断」は街を救ったことになる。だが、その事実は、誰の口からも出ない。出せば、祈りが揺らぐからだ。


 「黒衣の男の足取りはここで途絶」ヴェイルが地図に指を走らせる。「塔地下から旧墓苑。そこからは風に散って追えない。……今夜、塔の下で張る」


 「今夜も?」


 「今夜だ」ヴェイルは私を見る。「リリア。お前は休め。目が濁っている」


 「いえ、行きます」


 言ってから、自分でも驚いた。体が先に返事をした。あの笑いが、耳の奥でまだ鳴っている。祈りよりも強い音で。あれを止めなければ眠れない。いや、止めることより、知りたい。何をしているのか。なぜ祈りが止まると魔獣が止まるのか。あの男は、そこに立って、何を見ているのか。


 ヴェイルは少しだけ目を細め、長く息を吐いた。「……わかった。独断行動は禁じる。エレナ、付き添え」


 「任せて」


 会議が終わりかけたとき、扉が開いて修道長が入ってきた。彼は紙片を差し出し、机に置く。紙は薄く、意味は重い。


 「教会より正式通達。祈りは段階的に再開。当面、夜間唱和は行わない。黒衣の男は神敵として追討。捕らえた場合、引き渡しを要せず、その場で裁断してよい」


 耳の中で、何かがはっきり割れた。静かな音で、はっきりと。――裁断。言葉は刃よりよく切れる。


 「待ってください」自分の声が遠くから聞こえた。「昨夜、魔獣は祈りが止まったら止まりました。祈りが、彼らを――」


 修道長の瞳が冷たくこちらを映す。「異端の疑いがある言葉は、ここでは慎め」


 舌が上顎に貼りつく。二度目の刃。私は口を閉じた。握った拳の中で爪が掌を刺す。痛みだけが、正直だった。


 * * *


 夜。塔の影は深く、昼間より低く伸びる。祈りは今夜、ない。鐘も鳴らない。風だけが街を横切り、黒粉の匂いを拾っては捨てた。


 「ここにいる」


 エレナが囁く。塔の西側、昨夜黒衣が降り立った位置。石段の端に、細い粉の筋がかすかに光る。灯を消す。闇に目を慣らす。音がはっきりする。遠くの水音、近くの衣擦れ、そして――息。笑いでも祈りでもない、息。


 「出てこい」ヴェイルが静かに言った。「神敵」


 闇が、笑った。低くではない。高く。天井があるのに空が笑うみたいに、音がどこにも留まらない。塔の基壇の陰から外套が滑り出る。フードの奥は見えない。手に小瓶、舌に黒粉、喉に火。


 「はは……ああ……」体を微かに震わせ、壁に頭を軽く打ち付ける。「いい夜だ。静かだ。祈りが死んでる。……最高だ」


 剣の柄が手の中で重くなる。抜けば、終わるのか。終わるものが、どれなのか。


 「お前が祈りを止めたのか」ヴェイル。


 黒衣は首を傾げ、唇を愉快そうに吊り上げた。「止まるのを手伝った。祈りは、止まりたがってた。俺は押しただけ。指一本で。神様は、揺れに弱い」


 「黒粉は何だ」


 「黙秘権って知ってる?」壁に指で渦と線を描く。粉が落ちる。「合図だよ。祈りを呼び寄せる合図。あるいは、祈りを壊す合図。どっちでもいい」


 「祈りを――」


 「壊す」黒衣がこちらを向く。フードの奥で赤い灯が瞬く。目か、炎か。「俺は祈りを壊すためにここにいる。それ以外は、どうでもいい」


 「どうでもいい?」気づけば、私は一歩出ていた。「ここに、人がいる。子どもがいる。どうでもいい?」


 「人間だけは、どうでもよくない」声が一瞬だけ低くなる。「だから止める。人間を守るために。――いいね? 聖女さん」


 「聖女じゃない」


 笑い、また頭を壁に打ち付ける。軽い音。粉が舞う。「名前、まだ教えない。いいね、その距離。信じてる奴らは近い。近いから壊れる。お前は少し遠い。だから、まだ壊れない」


 ヴェイルの眼が鋭くなる。「会話は終わりだ。捕える」


 その言葉が落ちるより早く、黒衣は身を翻した。粉が風に線を引く。足音は軽いのに、距離が縮まらない。私は左へ回り、エレナが背後を塞ぐ。黒衣は笑った。


 「来いよ。祈りのない夜は、楽しい」


 上段に構え、息を吐く。昨夜の順番――祈りが止まる、魔獣が止まる、笑いが残る。そこに何かがある。踏み込み、刃を振り下ろす。


 空。粉を裂く。喉の奥で苦味が弾け、むせそうになるのを飲み込む。頬の脇を風が撫でる。耳の皮膚が粟立つほど近い笑い。


 「惜しい。あと半歩」


 エレナの刃が横から走り、黒衣の袖を裂く。布の下、白い皮膚に細い古傷が幾筋も重なる。自傷か、拘束か。目がそれを捉えた瞬間、空気の線が揃った。


 黒衣は前へ出る。私の左腕すれすれに抜け、基壇に背を預け、身を滑らせる。指で渦を一つ描き、息を吐く。粉が舞い、風が変わる。塔の上で誰かが吸気したような微かな引き込み。祈りがないのに、祈りの前の胸の持ち上がりだけが起きる。


 「……また明日。祈りが死んでる間は、遊んでやる」


 影に沈む。追う。音は消えないのに、姿は見えない。闇は人間に平等に冷たいが、あいつにだけは柔らかい。


 「追うな」ヴェイルの声。命令に足が止まる。エレナが肩で息をして、私の袖をつまむ。強くはないが、確かな重さ。


 静けさが戻る。塔の石が夜露を飲んで重くなる音が、確かに聞こえた気がした。誰も祈らない。今夜の祈りは、ない。


 * * *


 自室。机の上の観察記録が薄く波打っている。羽根ペンを取る。手が先に知っていることを、言葉にする。


――祈りが止まると、魔獣は止まる。

――黒粉は歌を乱す。

――塔の下で、祈りは逆に流れた。

――黒衣の男は、人間だ。笑い方だけが人間ではない。


 最後の行で迷い、ペン先が止まる。ほんとうに人間? あの速さ、匂いの扱い、祈りの止め方。理屈は追いつかない。だが袖から覗いた細い傷は、あまりにも人のものだった。神や魔獣には必要のない傷。生き延びるためではなく、生き続けた結果の薄い線。


 窓の外で風が塔を撫でる。鐘は鳴らない。二度鳴って止まることすら、今夜はない。静けさは祈りより重い。重さは、罪悪感のかたちをしている。


 私は小声で名を呼ぶ。「……ミナ」


 墓に返した小さな手袋の感触が、指の腹に蘇る。あの日、私は神に感謝した。今日も誰かは神に感謝している。祈りは人を繋ぐ。塔の祈りと違って、人の祈りは刃ではない。


 額を机につけ、息を整える。祈る代わりに数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。順番は裏切らない。順番が見えている限り、歩ける。――祈りが逆に流れた夜。黒衣の笑い。魔獣の沈黙。次に来るのは、何だ。


 扉が軽く叩かれ、エレナが顔を出す。「寝なよ。目が赤い」


 「……あなたも」


 「私は強いから」


 強いわけじゃない。強いふりが上手いだけだ――と言いかけてやめる。言葉は時々、祈りと同じになる。誰かを救う代わりに、誰かを傷つける。


 「明日も張る?」


 「張る」


 扉が閉じ、足音が遠ざかる。闇が部屋に満ちる。灯を落とし、剣に手を置く。眠る前に、耳に残った音を一つずつ手放していく。祈りの歌。魔獣の咆哮。瓦礫の崩れる音。黒衣の笑い。


 最後の音だけが、どうしても離れない。笑いは高く、乾いている。砂漠の風の音に似ている。祈りが水なら、笑いは風だ。水が溢れると人は溺れ、風が吹きすぎると火は消える。――あの男は、風だ。祈りの火を消す風。ならば私は何だ。火の側か、風の側か。どちらでもない側で、刃を持つ者か。


 眠る前に、一行だけ書き足した。


――私は彼を追う。祈りが人を殺さない世界を、見たい。


 羽根ペンを置くと、静けさは少しだけ軽くなった。外で風が向きを変える。塔の影が伸び、夜が深くなる。眠りは遅れてやって来た。夢は見ない。音のない夜だけが、私の上に長く、長くかぶさっていた。

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