第1話 神に感謝を
お時間のあるときにゆっくり読んでいただければ幸いです。
朝の鐘が七つ、聖都リオラの屋根を渡っていった。湿った石畳が薄金色に乾いていく。パン屋の煙突から白い湯気がのぼり、窓辺で布を干す手が、祈りの合図みたいに空へ伸びる。誰もが同じ言葉で一日をはじめる。
――神に感謝を。
リリア・セインは胸の前で指を組み、礼拝堂の天窓から落ちる光を受けた。祈りは息を整えるのと同じだ。熱も不安も、光の中で静かな場所に戻っていく。
「リリア、今日も一番」
「はい、隊長。神に感謝を」
第三部隊の上官ヴェイルが銀の髭を撫でて笑う。礼拝席の背後から、同僚のエレナが小走りで来て、リリアのマントの留め金をきっちり留めてくれた。
「ほら、曲がってる。こういうのは朝のうちに直すの」
「ありがとう。神に感謝を」
「神に感謝を」
鐘が八つ目を打つ前に、朝礼。木札に書かれた連絡事項が読み上げられる。今日は外での任務はない。聖堂の清掃、訓練場での模擬戦、午後は孤児院への慰問。街の平穏な日には、聖騎士の仕事も穏やかだ。
「じゃ、まずは床磨きから」
「了解」
長柄のモップで白い大理石を磨く。祈りの歌が低く流れる。窓越しに、尖塔と青空がつながっている。きれいだ、とリリアは思った。きれいなものをきれいだと思える朝に、感謝した。
清掃が終わると、訓練場。木陰から微風が入り、土の匂いがする。木剣を構えると、身体が自然に動きを思い出す。踏み込み、払い、退く。受け、弾き、間合いを測る。ヴェイルが指先で小さく円を描いた。
「足、半歩だけ前。光の入る角度を意識しろ」
「はい!」
日向に出ると目が少し眩む。リリアは瞼を細め、光を味方につけるように角度を変えた。木剣が触れ合う音が乾いた朝の空気に澄んで響く。エレナが指で輪をつくって見せる。
「よし、合格。聖騎士は“人を守る剣”。忘れない」
「忘れません」
汗を拭いた後は、調理室で昼の湯気の手伝い。団の食事番のマダムが大鍋をかき回しながら言う。
「塩は三つまみ。祈る時と同じでね、欲張らないこと」
「はい」
「ほら味見。今日は人参が甘いよ」
「……本当だ。神に感謝を」
「神に感謝を」
昼食を終えると、聖堂横の小さな庭で子どもたちが騒ぐ声がした。孤児院から先に来ているらしい。午後の慰問で一緒に遊ぶ約束をしていた。
「おねえちゃん!」
先に気づいたのは、頬にそばかすのある少年だった。名はロアン。いつも靴ひもがほどけている。
「あっ、リリアお姉ちゃん!」
「今日は“高い高い”!」
「だめ、順番!」
リリアは笑って両手を広げる。順番、順番。軽い体を胸の前でひょいと持ち上げると、笑い声が花火みたいに弾んだ。エレナは縄跳びの縄を回し、ヴェイルはぎこちなく鬼ごっこに参加している。マントが邪魔そうだ。
「うさぎ跳び競争、する?」
「する!」
「リリアお姉ちゃんも!」
「もちろん」
膝を抱えてぴょん、ぴょん。子どもたちの笑いが庭の塀を越えて道へこぼれる。誰かが通りがかりに手を振っていく。道の向こうのパン屋の少年が余った端パンを持ってきて、皆にちぎって配った。
「パンにも感謝!」
「パン屋にも感謝!」
「神に感謝!」
「神に感謝を」
日差しが濃くなってくると、孤児院へ移動した。白壁に蔦が絡む二階建て。扉の上には小さな鐘。紐を引くと、からんと良い音が鳴る。シスター・メルが出迎えた。柔らかな頬と、しわの浅い優しい目をしている。
「いらっしゃい、聖騎士のみなさん。ようこそ、神に感謝を」
「神に感謝を。今日は遊びと、読み聞かせを」
「まぁ、嬉しいこと」
玄関の棚には、子どもたちが拾ってきた宝物が並んでいる。平たい白い石。ひび割れたガラス玉。古い木の兵隊。色とりどりの糸の束。全部に、それぞれの物語が宿っているように見える。
居間に入ると、長机に色鉛筆と紙が置かれていた。リリアは膝を折り、子どもたちと同じ目線で座る。
「今日は何を描く?」
「光!」
「うさぎ!」
「パン! チーズも!」
「ぼくは剣!」
「私は、おねえちゃん!」
笑いが揺れる。リリアは鉛筆を取り、光を描いた。丸い円。その外にふわふわの輪。子どもが首を傾げる。
「それなに」
「光のにおい」
「においも描けるの?」
「描けるよ。見えないけれど、知ってるものは描けるの」
隣に座ったミナ――薄茶の髪の小さな女の子――が、紙の端に小さな花を並べた。白、白、白。色鉛筆の白は紙にうまく写らないけれど、彼女は嬉しそうだ。
「ミナは白が好き?」
「うん。光の色だから」
「そうだね。光は白いね」
「光のにおい、好き」
「どんな匂い?」
「おいしい匂い」
「ふふ。じゃあ今度、パンの匂いと一緒に描いてみようか」
おやつの時間が来た。シスターが焼いた蜂蜜のクッキーが、籠いっぱいに並ぶ。祈ってから手を伸ばす。小さな手がいくつも、合掌の形からほどけていくのが可愛い。
「いただきます」
「神に感謝を」
「神に感謝を」
食べ終わると、読み聞かせの時間。古い絵本を選んで、リリアは声を整える。物語は、遠い時代の聖人が、道に迷った旅人を光で導く話。
「聖人さまは、どうして迷子がわかったの?」
「祈ったから」
「祈ると、なにが見えるの?」
「見えるというより……心が、静かになるの。静かになると、誰かの泣き声が聴こえる。だから、行ける」
言いながら、自分にも言い聞かせている気がした。祈ると、世界はちゃんと聞こえる。泣き声があるところへ行けばいい。剣を持つのはそのためだ。
「おねえちゃん、剣見せて」
「本物は危ないから、これは木のやつ」
訓練用の短い木剣を見せると、子どもたちの目が丸くなる。
「カッコいい!」
「重い?」
「少しだけ。持ってみる?」
「持つ!」
順番に握らせる。小さな手に、少しだけ責任の形が入る。
「聖騎士って、なにする人?」
「困っている人を助ける人」
「こわい化け物もやっつける?」
「うん。もし来たら、あなたたちは逃げて。私たちが止めるから」
「ほんと?」
「ほんと」
言い切るのは、約束だからだ。約束は重い。けれど、重い約束を口にできる朝に、また感謝する。
夕方が近づくと、子どもたちは眠そうにあくびをした。シスターが毛布を出して、小さな背中にかけていく。眠る前の祈りを、リリアも一緒に唱えた。
「今日という日に感謝します。食べものに、屋根に、靴に、友だちに、笑いに、祈りに。神に感謝を」
「神に、感謝を」
ミナが眠る前に、リリアの袖を引いた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なあに」
「天使って、どんな声?」
「……とても、やさしい声」
「お姉ちゃんみたい?」
「ううん、もっとやさしい」
「そっか」
ミナは安心したように目を閉じた。眉間の皺がほどけ、呼吸が小さく一定になる。白い色鉛筆で描いた花みたいに、静かだ。
外に出ると、空気が少し冷たくなっていた。門の前でエレナが肩をぐるぐる回している。ヴェイルは帳面に今日の記録をまとめている。
「どうだった」
「みんな、元気。ロアンの靴ひもは相変わらず」
「明日、結び方の訓練でもしてやるか」
「お願いします」
「神に感謝を、だな」
帰り道、尖塔の影が長く伸びる。通りの肉屋が店じまいをして、花屋は夕方の束を作り、噴水の水が低く鳴る。祈りの鐘が遠くで二つ。人々がそれぞれの家の扉に手をかけ、最後の光が敷居に落ちる。
「リリア」
「はい」
「今日も、よく働いた。明日も同じようにやる。積み重ねが街を守る。覚えておけ」
「はい。神に感謝を」
「神に感謝を」
宿舎に戻ると、窓から風が入ってきて、薄いカーテンを揺らした。机の片隅、母の形見の小さな十字ペンダントが夕陽を受け、赤く光った。手のひらで包むと、金属は昼の温度をまだ覚えている。
祈りの姿勢をとる。今日見た顔を順番に思い出す。ロアンのほどけた靴、ミナの白い花、エレナの笑い皺、ヴェイルの渋い頷き、シスターの蜂蜜の匂い。全部に名前があって、居場所がある。
――どうか明日も、わたしたちが約束を守れますように。
――泣いている人の声に、気づけますように。
――剣が、正しいところへ届きますように。
最後に、いつもの言葉を置く。
神に、感謝を。
窓の外、夜の最初の星がひとつ、塔の先にかかった。街は静かだ。眠るための静けさ。守られている静けさ。リリアは目を閉じ、息を整えた。明日はまた、朝の鐘から始まる。祈って、磨いて、訓練して、遊んで、笑って、約束を口にして、眠る。
光の街の一日は、美しく、当たり前に過ぎていく。
――神に感謝を。
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