影武者なのに本命扱いされて、王太子と政略結婚することになりました
王都の朝は早い。鐘の音と共に商人たちが店を開き、パンの焼ける匂いが路地裏を漂う。だがそんな爽やかな朝とは無縁な場所が、この王城である。
私はいま、その王城の石畳の上で絶望的な気持ちを抱えながら立ち尽くしていた。
目の前には、長身で金髪碧眼、そして目つきだけが異様に冷たい男がいる。彼の名はアシュレイ・ヴァレンティウス。王太子にして、騎士団長でもある、まさに絵に描いたような完璧超人である。
そんな彼が、私に向かって言い放った言葉が、これだ。
「……花嫁候補のうち、お前が一番、マシだと判断した」
失礼にもほどがある。
私は言葉を失ってしまった。普通、花嫁に選ぶなら「もっとも魅力的だった」とか「心惹かれた」とか、いろいろ他に言いようがあるでしょう?
私の名前はリシェル・アルバ=エルン。地方貴族の三女で、気がつけば十七歳。趣味は刺繍、特技は寝坊。愛されキャラでもなければ、王城に召されるほどの功績もない。そんな私が突然、王太子妃候補として王城に呼び出されたのは三日前のことだった。
何かの冗談か陰謀か、それとも王城の人材不足か。いずれにせよ、まともな理由ではないと確信している。
そして本日、いよいよ最終選考の日を迎え、私はこの男から「マシ」と評価されたのである。言葉を選ばない王太子の前で、つい本音が口から出そうになった。
「そ、そうですか……あの、他にマシじゃない方々がいたということでしょうか……?」
「言いたくない」
「……ですよね」
あっけなく会話は終わり、私はそのまま案内役の侍女に引き渡された。
王子に選ばれる人生って、もっと夢ときらめきに満ちていると思っていた。こんなにも虚無を抱えながら歩く羽目になるとは。
「では、リシェル様。まずは城内の居室をご案内しますね。これからはこちらで生活していただきますので」
通されたのは、思った以上に質素な部屋だった。というか、城の片隅にある元物置部屋らしく、ややカビ臭い。ベッドも硬そうだし、天井の梁には謎のシミまである。
いや、王妃候補の待遇とは。
しかし、文句を言っている余裕はなかった。
この数年、父の領地は干ばつや疫病で散々だった。家計は火の車、妹たちはまともなドレスすら買ってもらえない。私が王城に呼ばれたことが唯一の希望だと、家族全員が目を潤ませて送り出してくれた。
無理やりでも、ここで結果を出さなければ。さもなければ、私は本当に“ただのマシな人”で終わってしまう。
部屋でぼんやりしていると、扉がノックされた。
「失礼します、リシェル様。王太子殿下よりお召しです」
このスピード感、嫌な予感しかしない。
着替える暇もなく、私はそのまま王太子の私室へと連れていかれた。
部屋の中には、アシュレイと、それからもう一人、見知らぬ女性がいた。
「リシェル・アルバ=エルン。こちらはリアナ・セフェリア嬢だ。お前の“影武者”となる」
ん?
「え……?」
「お前には、しばらく王妃候補として振る舞ってもらう。しかし、表向きにはリアナが王妃候補ということになっている。要するに、お前は裏方だ」
あまりに突飛すぎて、脳がついていけなかった。
「え、ちょっと待ってください。私、王妃候補……だったんですよね?」
「そうだ」
「なのに、偽物になるんですか?」
「偽物というより、実質は“本物だが公表されない”者、という扱いになる」
あまりにも都合のいい説明で、私の中のツッコミ役が暴れ出した。
曰く、王族の婚姻は極めて慎重に進める必要がある。外聞や政治的配慮から、表向きには名家出身のリアナ嬢が“王妃候補”ということになっているが、実際にアシュレイが見込んだのは私らしい。
「だったら、表向きに私を選べばいいのでは?」
「……顔が好みではない」
この男は本当に、どうしてこう余計な一言が多いのだろうか。
私は黙ってアシュレイを睨んだ。
だが彼は全く動じない。むしろ、なんだか楽しそうにさえ見える。おそらくこの人、他人が怒ったり呆れたりするのを見るのが趣味なんだ。
「それでも、お前には期待している。聡明で、強かで、そして――少しだけ普通じゃない目をしている」
最後の評価がよく分からないが、褒め言葉であることにしておく。
こうして私は、偽りの王妃候補として、王城での生活を始めることになった。
それは、想像以上に奇妙で、少しだけ甘くて、そして――危険な香りに満ちた日々の幕開けだった。
王城での生活は、想像以上に息が詰まるものだった。
だって、影武者である。王妃候補のふりをして、でも王妃ではない。しかも誰にもそのことを明かしてはいけない。さらに、肝心の“本物の偽王妃”は、私の動向をなぜかすべて知っているらしく、ちょっとでも気を抜くと「あら、リシェル様、その笑い方は少し庶民的かと」などと指摘してくる。
いや、あなたこそ本物の庶民では?
「本日のお稽古は、礼法と舞踏ですわ。どうぞお着替えください、リシェル様」
リアナはいつも涼しい顔でそう言う。だが、どうしてだろう。彼女の笑顔の裏に、「一歩でも間違えば、あとはよろしくお願いしますね?」という、強烈なプレッシャーがあるように感じてしまう。
私が立ち回りを誤れば、王城での立場だけでなく命すら危うい――などと考えるのはさすがに妄想がすぎると思いたいが、あの冷たい微笑を向けられるたびに不安がむくむくと湧いてくる。
そんな緊張の連続の中で、唯一の救いは食事だった。
食堂で出される料理は、地方では考えられないほど豪華で、なにより味が繊細だ。さすが王城。これだけでも頑張れる気がする。
と思っていたら。
「また、食べすぎだ」
いつの間にか背後に立っていたアシュレイに、そう言われた。
「うわっ! 驚かせないでくださいよ!」
「驚くほど無防備な姿を見せてどうする。お前、いま何皿目だ」
「し、四皿目ですけど……これは味見です、味見。どれが一番おいしいか確認しておく必要があるんです」
「だからといって、全て完食する必要はないと思うが」
「食材を無駄にしないのが、私の流儀です!」
きっぱり言ってみたが、アシュレイは呆れたようにため息をついた。
「本当に、お前は……王城に来てから少しも変わらないな」
「変わる必要あります? 私、影武者なんですよ?」
「影武者でも、もっと王妃らしい振る舞いはできると思っていたが」
「失礼ですね! 私、昨日だって一日中、礼儀作法の教本を読んでいました!」
「読みながら寝ていただろう」
「見てたんですか!?」
「見たくなくても見える。口を開けてソファに突っ伏していたのだから」
「……それは王城の空気が穏やかすぎるせいですね」
我ながら苦しい言い訳だったが、アシュレイは意外にも少しだけ笑った。
この人が笑うと、恐ろしく整った顔がやたらと人間味を帯びて見える。
普段は氷の彫像か何かかと思うくらい無表情なので、ちょっと得した気分になるのは否定できない。
「まったく……こんなやつを選んでしまった自分が悪いのか」
「選んでしまった、て。そんなに失敗でしたか?」
「否定はしない」
「ちょっとぉ!」
悔し紛れに、スプーンを構えると、アシュレイは完全に呆れた表情で手を振った。
「まあいい。今日の昼過ぎ、来客がある。お前も姿を見せろ」
「え? どなたですか?」
「第三王子殿下だ」
「えっ……王子、って、あの?」
「私の弟だ。なにか問題でも?」
「問題しかありません! 弟さんって確か、社交界でも有名な“氷の公爵”ですよね。冷静で完璧、しかも美形で――」
「もういい。惚れるなよ」
「だ、誰が!」
完全にからかわれている。
こうして午後の面会に備え、私は慌てて着替えと化粧直しに取り掛かった。
ドレスを選ぶ時間はあまりなかったが、リアナの助言もあり、落ち着いた藤色のドレスを着ることにした。これが思った以上に似合っていて、自分でもちょっと驚いた。
午後、応接間に通されると、すでにアシュレイが座っていた。その隣には――いた。
世にも麗しい、白銀の髪を持つ青年。整った顔立ちはアシュレイに似ているが、どこか優美で、空気まで静かに見える。
「こちらはリシェル・アルバ=エルン嬢。王妃候補のひとりだ」
アシュレイがそう紹介すると、青年――第三王子殿下は穏やかに微笑んだ。
「お噂はかねがね。どうぞよろしく、リシェル様」
……あれ、怖くない。
話に聞いていたより、ずっと柔らかい。冷たいどころか、癒し系の気配すらある。
「こ、こちらこそ……よろしくお願いいたします、殿下」
「兄が人を選ぶ目を持っているとは思っていなかったのですが、今回ばかりは見直しました」
「おい、そこは素直に認めろ」
「ふふ、冗談です」
アシュレイと殿下が軽口を交わす様子は、まるで普通の兄弟のようだった。
だがその会話の内容は、全く普通ではなかった。
「ところで兄上、先ほどの話ですが――あの件、進めてもよろしいのですね?」
「ああ。リシェルには伝えてある。後はタイミングを見て、動いてくれ」
あの件?
え、なに、私、何かに巻き込まれてる?
視線を交わす二人の会話に、完全に取り残された私は、ただひたすら笑ってやり過ごすしかなかった。
だがこの日を境に、王城内の空気は確かに変わり始めていた。
私が王妃候補として見せ物になっている間にも、水面下ではもっと大きな企みが動いている。そんな予感だけが、胸の中で静かに膨らんでいた。
王妃候補に必要な素養とはなんだろうか?
美しさ? 教養? 所作? それとも王家の血筋に繋がる華やかさ?
どれも当てはまらない私は、正直この城の空気に馴染むだけで精一杯だ。しかも今や、名ばかりの影武者。名前も立場も控えめなのに、やっていることは完全に主役級。
「――リシェル様、スープの匙は右手で、そして内側から外に向かって掬います」
おなじみの、リアナ嬢の毒にも薬にもなる声が耳元に届く。
「わ、分かってますっ……」
「ではなぜ、口の端にスープがついているのです?」
……これはもはや事故では?
この日も、王妃教育の一環として“優雅な昼食会”なるものが開催されていた。
参加者は、私とリアナ、そしてアシュレイ。
いや、昼食会というより実技試験。しかも毎回審査員がアシュレイというのが解せない。どうしていつも私ばかり、こんなに緊張しながらスープを飲まなければならないのか。
「落ち着いて食べれば、できることだろう」
「殿下がずっと見てるから落ち着かないんです!」
「人に見られて緊張するようでは、王妃は務まらない」
「じゃあ私を影武者じゃなくて、表に出してくださいよぉ……!」
「却下だ」
「なんでですか!」
「顔が地味だから」
「この話、永遠に終わりませんよ!?」
思わずスプーンをテーブルに置いてしまった私に、リアナが静かにため息をついた。
「殿下、そろそろ本題をお話されては?」
するとアシュレイは、私の方をまっすぐに見つめてきた。
「リシェル。来月、隣国のエスカロット王国から使節団が来る。その晩餐会に、お前を同行させる」
「えっ」
「影武者としての訓練ではあるが、今後を見据えるうえで必要な経験だ」
「えええ……」
この王城での暮らしが“王妃教育”という名の地獄だというのは前々から理解していた。でも、ついに国外デビューまでしようとしているなんて、聞いてませんけど!
「……つまり、外交デビューですよね? 言葉も文化も違うんですよ?」
「大丈夫だ。お前には、喋らせない」
「いや、それって逆に怖くないですか?」
「私が横にいる。お前はうなずいて微笑んでいればいい」
無茶にもほどがある。
だが、命令には逆らえない。そもそも影武者に選択権なんてないのだ。
「せめて、踊らされるような展開だけは避けたいですね……」
「無理だろうな」
「えっ」
「晩餐会の後は舞踏会だ。王太子妃候補として、お前は当然踊ることになる」
「ま、待ってください、私、ダンスとか……っ」
思わず狼狽えていると、アシュレイは小さく笑った。
「心配するな。相手は私だ」
「えっ」
「お前に無様な真似をされて、王太子の威厳が損なわれては困る。だから俺が相手をする」
それはたぶん、彼なりの優しさ……なのかもしれない。
けれど私の中では、何かこう――胸の奥がもぞもぞする感じがして、よく分からない感情がわき上がった。
「……あの、殿下」
「なんだ」
「ちょっと、だけ。嬉しいです」
「……顔に出てるぞ」
「えっ」
「にやけてる」
「ううう……!」
そうして、次の数日は舞踏会に向けての特訓が始まった。
リアナが指導役を買って出てくれたのだが、彼女のダンスは完璧で、無駄な動きが一切ない。まさに「気品の化身」。
対して私はというと、踏み外す、つま先を蹴る、スカートを巻き込む、と失敗の三連コンボを繰り返し、リアナの足を数度踏んでしまった。
それでも彼女は、一度も怒らなかった。
「リシェル様。あなたは不器用ですが、覚えは悪くないと思います」
「ほんとですか……?」
「ただし、笑顔がやや怖いので、改善が必要です」
「……笑顔って、才能なんですね」
それでも何とか、数日後には見られる形にはなっていた。
そうして迎えた、エスカロット王国使節団の来訪。
王城はいつにも増して張りつめた空気で、晩餐会が始まる前から胃が痛くなりそうだった。
晩餐会の席では、私はアシュレイの隣で、ひたすら笑顔でうなずくという謎の芸を披露することになったが、思いのほか評価は悪くなかったらしい。
そして舞踏会。
煌びやかな音楽と、豪奢なドレスの波。私はその中央で、アシュレイに手を取られ、ステップを踏み始めた。
彼のリードはとても穏やかで、時折目が合うと微笑みかけてくれる。
そのたびに心臓が跳ねて、ステップが乱れそうになるのを必死で抑えた。
「――リシェル」
「は、はいっ!」
「ずいぶん顔が赤いな。熱でもあるか?」
「べ、べつにそんなことは……!」
「……ならいい。踊りは上手くなった」
「……ありがとうございます」
目を逸らすと、アシュレイが不意に、私の耳元で囁いた。
「お前が誰かを演じている姿は、悪くない。だが――本当のお前の方が、もっと面白い」
この人、絶対にいじって遊んでる。
でも、ほんの少しだけ。その言葉が嬉しく感じたのも、また事実だった。
王妃候補としての生活に、少しずつ慣れてきた頃だった。
使節団を迎えた舞踏会もなんとか無事に乗り切り、アシュレイからも「思ったよりは上出来だった」と信じられないほど控えめな賛辞をもらった。思ったよりは、って何よ、とは思ったが、そこは飲み込む。
だが、安心して気を抜いたのが悪かったのかもしれない。
次なる災厄は、あまりにも突然にやってきた。
「リシェル様、こちらにどうぞ」
そう言って私を応接間に通したのは、見慣れない侍女だった。しかも妙にそわそわしている。何か妙だと気づく間もなく、扉を開けると――
「……よく来てくれた」
そこにいたのは、第三王子、ユーグ・ヴァレンティウス殿下。
優美な顔立ちと、落ち着いた雰囲気で、王都の貴族令嬢の間では“冷ややかな白薔薇”と称されている。氷の公爵どころか、氷の王子様そのものだ。
そんな彼が、今日はなぜか一人。そして、なぜか私を見て微笑んでいる。
えっ、何この空気。
アシュレイとは違う意味で、心拍数が跳ね上がる。
「そ、その……失礼いたします。アシュレイ殿下はご不在で……?」
「ああ、今日はあえて私一人で来てもらった」
「な、なにか……御用で……?」
「リシェル嬢、君に話がある」
やっぱり、嫌な予感しかしない。
逃げようにも、もう扉は閉じられてしまっているし、何より王子相手に「用があるなら兄上にお願いします」とか言えるほどの胆力は私にはない。
そわそわと椅子に腰を下ろすと、ユーグ殿下は私の顔をじっと見つめて、言った。
「君は、兄上にとって特別な存在なのだろう?」
「は、はぁっ!?」
とんでもない爆弾発言が飛び出した。
「いえ、あの、ええと、私、ただの“影武者”ですし、殿下にとっては完全に実用品といいますか、使い捨てといいますか……!」
「使い捨て?」
さすがに言いすぎた。
「……いえ、今のは忘れてください。というか、何を根拠にそんな……」
「この数ヶ月、兄上を見ていれば分かる。あの男が、あれほど他人を気にかけるのは異常だ」
「えっ……」
その言葉に、思わず胸の奥がきゅっとなった。
アシュレイが、私を気にかけてる……?
いやいや、気のせいでしょ。あの人は、基本的に他人を便利な道具くらいにしか見てないし、たまに気まぐれに助けてくれるのは、単に計算か慈悲のどちらかに決まってる。
「それで……その、“話”というのは?」
「単刀直入に言おう」
ユーグ殿下が、まっすぐに私を見た。
その目は、いつもより柔らかく、そして、少しだけ――切実だった。
「兄上が君をどう思っているか、はっきりさせておきたい」
「……え?」
「万が一、君が兄上を拒絶するようなことがあるなら――私は、君を自分の妃に迎えたい」
「……………………はい?」
一瞬、脳が止まった。
いま、何と?
「もう一度言う。君が兄上と結ばれることがないのであれば、私は君を望む」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
突然の求婚(仮)に、私は思わず立ち上がった。
「な、なな、何を言ってるんですか、殿下!? 私、そんな……王妃とか、ましてや二人の王子様から取り合いされるほどの人間じゃ……!」
「私は、君を見ていて、そう思った。君には、誰もが見落とす光がある。たとえ今は仮の立場でも、君自身の中に、確かに“王妃としての素質”がある」
「ううう……」
褒められ慣れてないのがバレバレである。
「兄上は不器用な男だ。君への気持ちを、いつまでも“役目”や“使命”でごまかし続けるだろう。それならば――私は、先に気持ちを伝えておくべきだと思った」
「…………」
ユーグ殿下は、どこまでも真剣だった。
私のことをからかっているわけでも、遊びで言っているわけでもない。それが分かるだけに、なおさら困る。
だって、私の気持ちは――
「申し訳ありません。今は、答えられません」
やっと絞り出した言葉に、殿下は小さく微笑んだ。
「そうか。ならば、それで構わない。私は待つよ」
「……はい」
部屋を出るとき、ユーグ殿下は一度だけ振り返って言った。
「兄上が動かないようなら、そのときは、もう一度来る」
ドアが閉まって、ようやく私は、ぐったりとその場に座り込んだ。
なにこの展開。どうしてこう、やたら波乱に満ちているの私の人生。
しかもよりによって、兄弟で取り合いとか……冗談じゃない。
でも――アシュレイの顔が、頭から離れなかった。
あの人は、私をどう思っているんだろう。
影武者? 駒? それとも、少しだけでも“特別”……?
考えていると、いつの間にか夜が来ていた。
部屋の外から、控えめなノック音。
「……リシェル。入るぞ」
開いた扉の向こうに立っていたのは、アシュレイだった。
「話がある」
その声は、いつもより少しだけ低くて、そして――少しだけ、迷っているように聞こえた。
アシュレイ殿下の訪問を受けたその夜、私はどうにも眠れなかった。
というのも、彼の言葉があまりにも意味深だったからだ。
『話がある』――その一言に、どれだけの意味が詰まっているのか。
王太子という立場の人間が、深夜に影武者の部屋を訪れる。それだけでも十分すぎるほど不穏だというのに、彼の目はどこか、いつもと違って見えた。
まっすぐで、冷たくて、そして……少しだけ、寂しそうだった。
私は椅子に腰掛けたまま、彼と向かい合っていた。
どちらからも、しばらく言葉が出なかった。
「……気まずいですね」
思わずつぶやくと、彼はわずかに目を細めた。
「お前が黙っているのが悪い」
「えぇ!? 急に訪ねてきて、しかも『話がある』って言っておいて、ずっと黙ってたの殿下じゃないですか!」
「……まあ、そうだな」
珍しく素直に認められて、逆に困る。
アシュレイは少しだけ姿勢を崩し、机の上に視線を落とした。
「ユーグが、お前に告白したと聞いた」
「ぶっ! ……だ、誰に聞いたんですか!?」
「本人からだ。『兄上、手遅れになる前に行動なさった方がいい』と言われた」
「はぁ……あの人、本当に……」
ユーグ殿下の顔が脳裏をよぎる。真っ直ぐで、誠実で、でもちょっとだけ強引な人。
でも今、目の前にいるアシュレイは、それとはまるで対照的だった。
自信家で、冷静で、常に計算された言葉しか口にしないような人が、今はとても迷っているように見える。
「……リシェル」
「はい」
「お前は、俺をどう思っている?」
「………………」
この人、さらっと爆弾を落とすの、やめてくれませんかね。
「い、いきなり、なんですか」
「答えろ」
「ちょっと待ってください……心の準備とか……」
「時間がない」
「私には心の余裕がないんです!!」
叫びそうになった声をなんとか押し殺す。
そうだ。私は“影武者”だ。王妃でもなければ、正式な婚約者でもない。彼が私にどんな感情を抱こうと、どこまでいっても“代役”の範囲にすぎないのだ。
でも――それでも、彼を想ってしまっている自分がいる。
それを認めるのが怖かった。
だって、そんな気持ちが芽生えてしまえば、今の立場は続けられなくなる。
「私は……殿下に、仕えてきた身です。感情を持ち込んではいけない立場です」
「それは“影武者”としての言葉か?」
「……はい」
「じゃあ――“リシェル”としては?」
息が詰まる。
この人、ずるい。
でも、ずっと、聞いてほしかった言葉だった。
「リシェルとしては……殿下に、ずっと惹かれていました」
やっとのことでそう答えると、アシュレイはゆっくりと息を吐いた。
「……やっと、聞けたな」
そして、椅子から立ち上がり、私の前まで歩いてきた。
まるで時間が止まったような静寂の中で、彼の手が、私の頬に触れた。
「俺も、お前に惹かれていた。ただ、それを言葉にすれば、お前を巻き込むことになる。それが怖かった」
「殿下が、怖がるなんて……」
「人並みにはある。特に、お前を失うのは」
ほんの一瞬、彼の目が揺れた気がした。
「この国には、変革が必要だ。腐った貴族たちと、表面だけの伝統。俺はそれを壊して、新しい国を作りたい。だがそのためには、王妃に“翡翠の目”が必要だった」
「だから私を選んだ……?」
「ああ。だが、最初だけだ。今は――お前だから、隣にいてほしいと思っている」
その言葉は、まっすぐ胸に届いた。
私は、彼の手にそっと触れた。
「私も、殿下と一緒に未来を見たいと思っています」
それは、告白でもあり、誓いでもあった。
だが、恋愛の幸福はそう長くは続かない。
次の日。
城中に、不穏な知らせが舞い込んだ。
リアナ・セフェリア嬢が、姿を消したという。
彼女は“表向きの王妃候補”だった。だが、裏では私とともに演技をしていた“共犯者”でもある。
その彼女が、誰にも告げずに、忽然と姿を消した。
「まさか……」
嫌な予感がした。
そしてその予感は、すぐに的中する。
彼女の部屋から見つかったのは、数通の書状。
そこには――「このままでは、リシェル様が殺される」という警告が書かれていた。
リアナが姿を消したと知った朝、私は久しぶりに寒気を覚えた。
彼女が私のために残した警告文は、こうだった。
『リシェル様へ――このままでは、あなたが殺されます。』
それは文字通りの意味ではなかったかもしれない。だが、この国で“影武者”が意味するものは、使い捨ての駒にすぎない。政略に邪魔な存在になれば、いつでも切り捨てられる。
そして私が“駒”から“本物”に近づこうとしていた今、その危険は現実になろうとしていた。
「……リアナは、お前を庇った」
アシュレイがそう言ったのは、書状を読み終えたあとだった。
「彼女は知っていた。自分が王妃候補として表に出ていながら、実際に俺が見ているのが誰かを」
私は、声が出なかった。
「それでも彼女は、お前にひどい言葉をぶつけることもなく、黙って裏方に回った。きっと、守りたかったんだ。誰よりも、自分の代わりに選ばれた、お前を」
「……どうして、そんなこと……」
「リアナは、俺の命を助けたことがある」
そう言って、アシュレイは珍しく懐かしむように語り始めた。
幼い頃、襲撃に巻き込まれたとき。少年だった彼をかばって、彼女が前に出たのだという。
「リアナは、冷たいようでいて、優しい。情に脆い。そして、まっすぐすぎる」
「……そんな人が、なんで私のために……」
「だからだろう。お前のように、不器用で正直な人間が、同じ場所にいることが、きっと彼女には救いだったんだ」
その言葉が、胸に刺さった。
私は彼女に、何もしてあげられなかった。あんなに完璧で、あんなに優しかった彼女に、ただ甘えて、助けられてばかりだった。
それなのに、いなくなって、初めて気づくなんて――遅すぎる。
「探しに行きます」
「当然だ」
アシュレイの答えは即答だった。
こうして、リアナを探す旅が始まった。
王城から南へ三日の距離。かつてアシュレイが幼少期に過ごしたという離宮が、第一の手がかりだった。
だが、そこに彼女の姿はなかった。
次に向かったのは、国境近くの小さな村。そこには、リアナの生家がある。伯爵家として知られているが、彼女自身は幼いころに養子に出されたと聞いていた。
古びた屋敷には、今はもう誰も住んでおらず、ただ埃をかぶった家具と、彼女の幼い頃の肖像画だけが残されていた。
その絵を見て、私は初めて、彼女の本当の表情を見た気がした。
静かに笑っていた。どこか、私に似た笑い方だった。
「彼女は、どこにいると思いますか?」
「恐らく――お前の出自に関係がある」
「え……?」
「翡翠の目を持つお前は、皇家に血筋を持つ。それはもはや明白だ」
「でも、それとリアナが?」
「影武者の役目とは、本来“誰かの身代わり”だ。その“誰か”が、お前でない可能性もある」
その瞬間、私は震えた。
もしも私が、もともとリアナの身代わりにされていたとしたら?
私が“影”で、リアナが“光”だったのだとしたら――
そして、彼女が自ら“影”になることを選んだのだとしたら。
その思考を振り払うように、私は首を振った。
「それでも、私は探します。彼女に、ちゃんとお礼が言いたい。こんなことになってしまったけど、私は――彼女に、会って謝りたいんです」
「行こう」
アシュレイの手が、私の手を取った。
そして三日目の夜。情報屋がもたらした密告により、リアナがある修道院に身を寄せていることが分かった。
小さな山あいの教会。
そこに、白い修道服をまとったリアナは、確かにいた。
「リシェル様……いえ、もう“様”は不要でしたね」
「どうして、逃げたんですか……!」
思わず叫んだ。
「あなたがいたから、私はここにいられたんです。あなたがいたから、私は“影武者”でいられた。でも……でも!」
涙があふれて止まらなかった。
「私、怖かったんです……! もう誰も信じられないって思っていたのに、あなたがいたから、私――」
そのとき、リアナはそっと私を抱きしめた。
「ごめんなさい。私も、あなたが大好きでした」
「……!」
「でも、私はアシュレイ様のことを……ずっと想っていた。だから、あなたが選ばれたことが、辛くて、苦しくて――でも、それでも、あなたを傷つけたくなかった」
「リアナ……」
「だから、私がいなくなればいいって、思ったの。私がいるから、あなたが傷つく。私がいるから、殿下は迷う。だから……」
私は、首を振った。
「それでも、あなたが必要なんです。だって、あなたがいたから、私、ここまで来られたんです!」
「…………」
「私は、“影武者”だった。でも今は違う。私は、私の意思でここに立っています。あなたが、私にそう教えてくれたから!」
その瞬間、リアナは目に涙を浮かべて、ゆっくりと微笑んだ。
「……なら、もう何も言うことはないわ」
そうして彼女は、王都へと戻ることを約束してくれた。
旅の帰り道、アシュレイはぽつりと呟いた。
「お前は、誰かの代わりじゃない。俺にとって、お前は――唯一の存在だ」
私は静かに頷いた。
「私も、ようやく言えます。殿下の隣に立ちたいと、心から思っています」
その言葉に、彼はようやく笑った。
冷たくて、鋭かったあの笑みではない。
とても、あたたかい笑みだった。
こうして、王妃の座は“影武者”によって埋められた。
だがその恋は、影では終わらなかった。
私は今、この城で、彼の隣に立っている。
名も、地位も、何もかもなかった私が、唯一持っていた“想い”。
それだけが、すべてを変えたのだ。
評価、感想頂けると、はげみになります。