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【短編】QRコードに潜むシカが、残業中の俺を帰らせようとしてきます

作者: 月追める


ご覧くださり、ありがとうございます( .ˬ.)"


初の現代恋愛カテゴリの短編作品です!

しかもこれまた初の男主人公をメインにしたストーリーで、後半に少しオマケとして別視点を付けています。


どうぞ本編をお楽しみください!






挿絵(By みてみん)





 ――ピコン。

 

 出社してパソコンを起動すると、画面に通知が表示された。社内で使っているオフィスツールのアクティビティに誰かが投稿したらしい。


『事務システムチーム各位。

お疲れ様です。本日十三時~ 会議室Bにて、新システムに関してのミーティングを行います』


 それを見た俺、内藤(ないとう)悠護(ゆうご)は「俺達は関係ないやつだな」と開いた通知をすぐに消した。少し離れた席では、


「昼食後すぐですか……」

「絶対に眠たくなるやつだーー」


と何人かが心の声を吐露している。分かる、分かるよ。昼食後すぐの会議やミーティングは睡魔との戦いになるよな。俺は関係ないというのに、静かにうんうんと頷いた。

 


 俺の働いている会社では、企業が導入している事務管理システムや生産管理システムの見直しや新たなシステムの開発、業務効率化のコンサルティングの提供を行っている。


 俺はその営業担当。つまり、システムやサービスの見直しを提案し、自社サービスの訴求、提供に伴う案内をして契約を取ってくるのが仕事だ。その後、何事もないのが一番だが、獲得先で何かが起こった時のクレームやフォローの対応もある。


 このフロアで働いているのは俺達営業チームと、さっき通知に表示された事務システムチーム。


 事務システムチームというのは、主に事務全般と販売用ではない自社のシステム設計補助や管理を担当している人達のこと。当然エンジニアも居るようだが、一般的な事務が主な仕事のようだ。


 ちなみに企業用のシステム開発を行っているエンジニア達は、一つ下のフロアで仕事をしている。彼らは出勤時間の早い人や遅い人、休憩時間を普通よりも長めにとる人など、フレックスタイム制で気ままに仕事をしていることが多いらしい。


 こうして同じ会社内で仕事をしていても、自分と違うチームの業務内容は、なんとなくこんなことをしているんだろうなというのが分かるだけで、案外知らないものだ。


「今の通知の新システムって今日から使うアレのことだよな?」


 そう聞いてきたのは、隣の席の高山(たかやま)大樹(だいき)先輩。俺達営業チームは、ペアを組んで業務にあたる二人体制が基本となる。俺のペアは高山さん。仕事熱心で後輩思いの優しい人だ。ペアは常に連携が取りやすいよう、こうしてデスクが並べられている。


「おそらくは。前の説明会で、別々のシステムだった勤怠、業績管理、一部の業務や報告系が一つのシステムで出来るようになるって言っていましたよね」

「そうそう。さっき見てみたけど、慣れたら凄く便利そうだったぞ。まずどこに何があるかの把握からだけどなぁ……」


 高山さんはそう言いながら新システムのページを表示した。俺は横からそれを覗かせてもらう。


「確かパソコンだけじゃなくて、スマホからでもログイン出来るようになるんだろ?これまで直帰したくても打刻のために戻ってきたり、直帰して打刻が打てなかった分を後日申請しなきゃいけなかったり、不便ではあったからな。簡単な業務なら帰ってから出来るみたいだし」

「……あぁ、そういえばそうでしたっけ」


 俺はぼんやりと相槌を打つ。


 これまでは、原則会社での打刻が義務付けられていた。営業チームとしては時間的に営業先から直帰してもいいはずなのに、打刻のためにわざわざ会社に戻ったり、どうしても直帰を選択した際は後々書類を書いて提出しなければならなかったのだ。


 業務効率化だなんだと言っている会社なのに、なんて融通が効かないんだと言われ続けていたため、やっと改善されたとも言える。


「これで直帰もしやすくなるし、業務や報告もスマホでパパッと出来るなら便利になるな!……まぁ、慣れるまでが問題だけど」

「分かりやすいといいんですけどね」


 俺は席に戻り、自分でも新システムを開いてみることにした。ログインページには社員IDとパスワードの入力フィールドが、その右側にはスマートフォン用のQRコードが表示されている。


 このQRコードを読み取れば、簡単にモバイル版のページに飛ぶことが出来るのだろう。俺はきっと使わないだろうけど、一応登録しておこうか。そう思い視線を動かして――


 ()()と目が合った。


「……高山さん」

「ん?どうした?」


 さっきとは反対に、高山さんが俺のパソコンを覗き込む。真横に来た高山さんを見て、俺は画面を指さした。


「俺のQRコードのここ、シカに見えません?」

「はぁ?…………ちょっ、わははっ!」


 高山さんはガタッと仰け反って大きな声で笑う。他の営業チームのやつらが、なんだなんだと寄ってきた。


「なぁ、内藤用のQRコードにシカが居るんだけど!」

「……高山、何言ってんだ?」

「うわ、本当にシカみてぇじゃん」


 先輩後輩関係なく、入れ替わり立ち替わりでみんなが俺のパソコン画面を覗いていく。想像以上に注目されてしまい、


「見た瞬間から、目が合ったって思いまして」


と苦笑すると、どっと周りが笑った。「確かに」「これは目が合いますねぇ」「マジでシカだなぁ!」と盛り上がる。


 騒ぎを聞きつけてか、事務システムチームの女性達までやって来て、「やだ、可愛い!」「見て、小鹿ちゃん!シカだって!」「……シカって?」「なんか、内藤さんのQRコードがシカに見えるんだって」と喋りながらパソコン画面を確認していく。


 三つの点が集まった図形を見ると人の顔だと思ってしまうことを、確かシミュラクラ現象と言っただろうか。その三つの点の集合体と、上に枝分かれした二本の線がまるで角のようで、ドットで描かれたQRコードの一部がどう見ても動物のシカのようだった。

 

 個人ごとのQRコードなんて、ランダムで作成されて貼り付けられただけのはず。新システムを稼働させたのは事務システムチームではあるのだろうが、自分達の手がけたものの中で、知らないうちにこんなものが生まれていて面白いのだろう。


「QRコードの、シカ……」

「先輩、ランダム生成なのにあんな可愛いのが出来るんですねぇ!」

「一回そう見えちまったらもう駄目だな。お前、毎日このシカと目が合うぞ」


 クククッと笑う先輩の言葉に、今でも十分目が合ってます、と思いながら画面へと目を向ける。するとやっぱりシカと目が合った。もうどう足掻いてもシカに見えてしまう病から逃れられそうにないな。

 

「いいじゃん、変なもんじゃなくて。可愛いし」

「可愛い……?まぁ、そうですかねぇ……」


 高山さんがそう言うので、俺は曖昧な返事を返す。面白いものを見て満足したのだろう先輩達が、俺の肩を軽く叩いて去っていく。それに釣られて、ぞろぞろと全員が自分の席へと戻っていった。


 その間もずっと、俺のパソコンの画面にはシカが……いや、QRコードが表示されていた。



 



 それから数日。上半期開始と同時に新システムが稼働し始め、俺は忙しない毎日を送っていた。ここ暫くはずっと残業が続いている。


 みんなは新システムを利用して、ここぞとばかりに直帰したり、帰宅中や家で報告業務を行っているらしい。会社方針としても社内残業を減らしたいらしい――が。


「家に仕事を持ち帰りたくないんだよな……。そもそも俺の家、ここから徒歩十分だし」


 そうなのだ。


 これまでみんなが直帰したいのに会社に戻らなければと苦しんでいる中、俺が平然としていたのは、自宅が職場のすぐ近くだから。


 むしろ、パソコンでの業務に慣れているのに、モバイル版が出来たことによって、そっちでの業務が増えたり自宅での業務を強要されるんじゃないかとヒヤヒヤしていたくらいだ。


(この新システム、みんなにとっては便利なんだろうけど。俺にとってはそんなになんだよなぁ……。一つにまとまってくれたのはありがたいけど)


 そんなことを思いながら、パソコンの画面を立ち上げる。今日は特に遅くなってしまった。定時が十八時なのに、外回り営業を終えて会社に戻ってきた時点で二十時を過ぎている。


 事務システムチームは基本定時で帰っているし、営業チームはちょっと残業して帰るか、新システムのおかげで会社に戻らず直帰を選んで、業務をしながら帰っているのだろう。


 おかげでフロアには俺一人。ぽつんと残された感じはあるが、静かなところで仕事をするのは嫌いじゃない。さっさと報告業務をすませようと新システムを立ち上げて……俺は固まった。


「な……んだ、これ?」


 画面にはいつもと同じ、社員IDとパスワードの入力フィールドが。その右側にスマートフォン用のQRコードが表示されている。――しかし。


『モウ二十時デスヨ』


 QRコードの中の、シカのような顔の部分。その上部に漫画のような吹き出しが出て、あたかもシカが発言しているようなコメントが現れていた。朝出社して打刻をした時にはこんなものなかったはずだ。


「時間のお知らせ機能なんてなかったよな?」


 新システムの説明会でそんな案内はなかった。それに、残業のし過ぎでアラートが立つなんていう話も聞いていない。そもそもまだ上半期始まったばかりのため、残業のし過ぎと言われることもないはず。


 すると、画面の吹き出しが再び更新された。


『無理セズ速ヤカニ帰宅シテクダサイ』

「えぇ……?」


 俺は呆然とそれを眺めるしかなかった。




 次の日。出勤してパソコンを立ち上げて確認してみるも、案の定シカから出ていた吹き出しは綺麗さっぱりなくなっていた。


(疲れていたから見間違えたってレベルじゃないんだよな……。白昼夢を見たわけでもあるまいし)


 そう思いながら俺はチラッと視線を向ける。その先は少し離れている事務システムチームのデスクが並ぶ島。今回の新システムは、下のフロアのエンジニア達が基礎を作って、それを元に事務システムチームが構築をしていたはずだが。


(……いや、こんな忙しい時期に、意味不明な質問をしに行くのはちょっとなぁ。こんなウイルスはないだろうし、仕事に支障が出るようなものでもないし……)


 あれが一体なんだったのかは気にはなるが、何処もかしこも忙しそうなのに、聞いている場合ではないだろう。今日もこちらを見てくるシカを見つめ返しながら、俺はぽりぽりと頭を掻くしかなかった。



 

 それからあっという間に約半年が経過。その間にも忙しい時期はあったが、時々二十時を超えるくらいで済んでいた。


 その間に気付いたのだが、あのシカの吹き出しコメントは、わざわざ二十時を過ぎてから新システムのログイン画面を立ち上げなければ表示されないということ。二十時を回っているのに、そんな時間から仕事をしようとログインする人間への警告なのだろうと、そう解釈した。


 さて、そんな半年間での気付きはさておき。上半期の終わりが近付いてきたからか、再び怒涛のような業務量に忙殺されていた。


 来る日も来る日も残業続き。それでもみんな、基本的には一時間ほど残業して、遅くとも十九時過ぎには退社していく。やはり新システムで直帰が可能になったことや、帰宅しながらの業務が許されたことで、早く帰る意識が付いたらしい。


 俺は家が近いから、少しくらい雑務を受け持ってもいいか……なんて思っていたら、あれよあれよと知らない間に膨大な量が積まれていた。俺が「やりますよ」と言った以外のものまで置いてあるだろう、これは。


 事務システムチームは営業事務専門ではないので、営業チームでも自分達でしなければならない雑務はそれなりにある。商談用の資料印刷や、資料のファイル分け。不要になった資料や書類のシュレッダーなど盛り沢山だ。


 業績の進捗確認をして上半期の追い込み。下半期に向けての課題や目標の提出。みんなやるべき事が山積みなので、みんな助け合って業務を回している。俺だけが負担を負っているわけではない……のだが。


「にしたってこの量は……人に頼り過ぎじゃないか?」


 不要用紙は(うずたか)く積まれ、ToDoリストや色とりどりの付箋がベタベタと貼られていた。見たくない。とても見たくない量である。


「これは……今日もシカに叱られるな……」


と、一人なのをいいことに、声に出してぼやく。


 新システムを開いて作業するものであれば問題ないのだが、一定時間放置すると自動的にログアウトされてしまうのだ。そのため退勤の打刻をするために再びログインしようとすると、


『モウ二十時デスヨ』

『無理セズ速ヤカニ帰宅シテクダサイ』


と言われてしまう。どうやらこの二つが一定時間ごとにローテーションでくるくると変わるようだ。今から雑務を始めれば間違いなくログアウトしてしまうだろうから、今日もシカからのお叱りが確定である。

 


 結局あれからも、あの吹き出しやコメントが何なのか聞けず仕舞いでいた。時々現れるそれを見慣れてしまったというのもある。


 それにあのお知らせは、家が近いからとのんびり仕事をしがちな俺にとって、さっさとしなければと意識させてくれるので悪くはなかった。


 今日も既に報告業務は終わらせてあるので、あとはこの雑務を熟すだけ。……だけ、という量ではないが。


 面倒だが、勝手に置いていったやつは注意した方がいいだろうな。そう思いながら現実を睨んでいると、キィ……とドアの開く音が響いた。


「……あれ?お疲れ様です」

「お疲れ様です。小鹿さん」


 フロアに入ってきたのは、事務システムチームの小鹿(こじか)香椎子(かしこ)さん。ぴょこぴょこと頭の上で二本の毛が跳ねている。とても小さくて、百五十センチも身長がないとか。俺も百七十センチ程度だから、男の中では決して背が高いわけではないけれど、小鹿さんを見ると本当に小さいなぁとしみじみ感じる。


「珍しいですね、こんな時間に」

「ちょっと忘れ物をしちゃって。戻ってきたんです」

「そうなんですね。忘れて帰ったら困るようなものだったんですか?」


 何気なく問いかけると、小鹿さんは何故か「あ……えっと……」と言い淀むような素振りを見せた。聞いてはまずかっただろうかと、俺は首を傾げる。

 

「その……家の鍵を入れているケースごと忘れてしまって。家まで帰ったのに入れなかったんです」

「あぁーー…」


(それは……戻ってくるしかないな。可哀想に)


 さっきの素振りは自分の失態が恥ずかしかったからだろうか。俺はご愁傷様と思いながらも、しょぼんと肩を下げている姿はちょっと可愛いなと苦笑してしまう。


「内藤さんはこんなに遅くまで?」

「最近はずっとそうなんですよ」

「もうすぐ締めですもんねぇ……。お疲れ様です」


 そう言うと、小鹿さんは近くに寄ってきた。


「その……新システム、どうですか?使ってみて」

「えっ?あぁ……」

「結構皆さんの負担を減らせたり、残業を減らせたんじゃないかなって思っていたんですけど……。内藤さん、よく社内残業されているみたいだったから」


 新システムを利用すれば、帰宅しながらでも業務や報告入力が出来る。けれどその場合は、社内残業ではなく在宅勤務と似たような、少し特殊な管理ツールが働いているらしい。


 そりゃあ帰りながら仕事していますと申告して、画面を立ち上げている間全てが給料になるのなら、いくらでも残業をしているフリが出来てしまうわけで。そこらへんはきちんとされているのだろう。


「俺は……うーん」

「……あまりお役には立たなかったでしょうか?」


 へにゃりと悲しそうな表情で、二本の毛が萎れた花のように傾いていく。俺はすかさず言い繕った。


「いや、みんな凄く便利になったって言っていましたよ?俺は、その……ここから家が近いんです。歩いて帰れる距離なので、家に仕事を持ち帰りたくなくて、会社で残業しているんですよ」

「家に仕事を持ち帰りたくない……!なるほど、そうだったんですか!」


 小鹿さんは「それは盲点でした……」と納得したように頷いている。理解してもらえたなら何よりだ。


「家から会社まで遠かった人達は直帰がしやすくなって、凄く楽そうですよ。帰りながら業務が出来るのも助かるって」

「そう……ですか。よかったぁ」


 そう言って小鹿さんは胸を撫で下ろし、ほわりと微笑んだ。頭の毛も元気になったようだ。


「あっ、ごめんなさい。お仕事の邪魔をしてしまって」

「気にしないでください。残っているのは雑務くらいなので。ちゃちゃっと終わらせて、俺も帰ります」

「……雑務……。あの、何か手伝いましょうか?」

「えっ」


 小鹿さんの気遣いに、俺は言葉を詰まらせた。


 手伝ってもらえたら確かに助かる。残っているのは本当に簡単な雑務だから、俺が印刷をして仕分けたものをファイルに入れてくれたり、不要な書類をシュレッダーしてくれるだけでも大助かりだ。でも……。


「小鹿さん、忘れ物を取りに来ただけで、もう打刻しているでしょう?悪いですよ」


 猫の手も借りたいくらいだが、だからといって無給労働をさせるわけにはいかない。この残った仕事は身勝手なやつらのせいでもあるし、気付けなかった俺の不注意でもある。善意で手伝ってもらうのは申し訳ない。


 けれど、俺の言葉を聞いた小鹿さんは、口角を上げてにんまりと笑った。


「私、今は事務システムチームの中でもエンジニア寄りなんです。下のフロアのエンジニア達もそうなんですが、結構自由に出退勤や休憩をしているんですよ。私、滅多に残業しませんし、社内パソコンから入ればここに居るのは間違いないですから。少し手伝って帰るくらい、問題なく許してもらえると思います」

「いや、でも……」


 そう言葉を濁す俺を無視して、小鹿さんは自分のデスクへと向かい、持っていた鞄を置いた。


「ほら、もう二十時ですよ。早く終わらせて帰宅しましょう」

「えっ……」


 その言葉を聞いて、俺の脳裏にはシカが過ぎった。時計を見ると、確かに二十時目前だ。ふっと視線を戻すと、パタパタと戻ってきた小鹿さんがにこにこと笑っている。


「……ありがとうございます。宜しくお願いします」

「はいっ!」



 それから小鹿さんに手伝ってもらい、終わりが見えたのはもう二十一時過ぎ。二人でふうと一息吐いて、退勤処理をする。ログイン画面では相変わらずシカが『モウ二十時デスヨ』と言っていた。さっき似たような言葉を言ってもらったなと少し笑ってから、すぐに打刻をして画面を閉じる。


「小鹿さん、ありがとうございました。助かりました」

「いえいえ。あの量を内藤さん一人でやろうなんて、二十二時を超えていたかもしれませんよ?分担出来るものはちゃんと相談しないと駄目ですよっ」

「……本当ですね」


 俺はぐっと目を瞑る。馬鹿なやつらのせいで、小鹿さんまで巻き込んでしまった。面倒だ何だと言わず、愚か者共をきちんと注意しようと決める。


 そんな俺を、小鹿さんは心配そうに見上げていた。話を逸らすように、帰り道を伺う。


「遅くなってしまってすみません。小鹿さんはここからどうやって帰るんですか?」

「えぇと、私は地下鉄に乗って帰ります」


 地下鉄に乗るなら、俺の家とは反対方向だ。しかし、こんな時間まで手伝ってもらって、一人駅に向かわせるなんて忍びない。ついでに駅の近くにある店で食事をして帰ろうか。いつもは自炊かコンビニ飯だが、こんな日くらいはいいだろう。

 

「それなら会社を出て左ですかね?駅まで送ります」

「えっ!?そ、そんな……いいですよ」

「手伝ってもらって遅くなったんですから、駅までくらい送らせてください」


 俺がそう言うと、小鹿さんは手をそわそわとさせたあと、俯きがちに「ありがとうございます」と囁いた。


 


 駅に向かっている途中、お互いの業務内容について話した。どうやら小鹿さんはあの新システムの構築に大きく関わっていたようで、今は新システムの管理担当を担っているらしい。


(小鹿さん、本当に仕事出来るからなぁ……)


 背丈が小さいし、遠目に見れば小中学生にも見えなくはないのだが。実はもう入社五年目の二十六歳。俺とは二年違いだが、彼女は入社直後から優秀で、この見た目でバリバリ仕事が出来る……とは誰も思わないだろう。


 エンジニアとしての業務に関わりだしたのはここ一~二年の話らしく、それまでは他の子達と同じように事務の仕事がメインだったようだ。


(その時から小鹿さんにお世話になってたんだよなぁ。みんなはあまり気付いていなかったけど。営業用資料の作成とか、資料保管用のフォルダ整理とか、いつの間にかやってくれてたのはこの子なんだよな)


 資料は結構作る人間の個性が出る。何度か見ればその資料を誰が作ったのか分かるようになってくるのだが、小鹿さんの作る資料はいつも簡潔で見やすく、説明する側もされる側も非常に分かりやすいものだった。


 今では滅多に関わることがなくなってしまったけれど、どうやらエンジニア方面の新しい仕事に挑戦しているらしい。


 そうして話していると、ふと小鹿さんの足が遅くなった。「ん?」と見下ろすと、視線の先には飲食店が。どうやら店の看板に目が奪われているらしい。


「……秋刀魚の炊き込みご飯?」

「はっ……!あっ……いえ、その……」


 九月の旬として、秋刀魚のメニューが取り上げられ、中でも今日の特別メニューとして秋刀魚の炊き込みご飯がデカデカと貼られていた。

 

 その瞬間、きゅるる……と音が鳴った。二人して顔を見合せること数秒。小鹿さんは顔を真っ赤にして俯いた。そりゃあもう二十一時を回っているんだから、お腹が鳴ってもおかしくない時間だ。俺は笑いそうになるのを必死で堪えて提案する。


「もう時間も遅いですし、食べていきますか?家に食事がなければですが」

「えっ!?でも……いいんですか?」

「俺は元々食べて帰ろうかと思っていましたし、大丈夫ですよ」


 俺がそう言うと、小鹿さんは俺の顔と店と何度か視線を往復させてから、とても嬉しそうに顔を綻ばせた。


「じゃあ……せっかくなので」

「はい」


 


 店に入ると「いらっしゃいませ」と元気な声が飛んできた。店員に二人と伝えると、すぐテーブル席へと案内される。


 渡されたメニューを小鹿さんは子供のようにキラキラした目で眺めている。ぴこぴこと二本の毛が揺れていて、俺はメニューよりもそっちが気になって笑ってしまう。俺の視線に気付いた小鹿さんは、少し恥ずかしそうにもじもじし始めた。


「……内藤さんは決まりましたか?」


 おっと。小鹿さんを見ていて決まっていません……とは言えないな。ここは悩んでいるフリをしておこうか。

 

「さっき小鹿さんが見ていた、秋刀魚の炊き込みご飯は食べてみたいんですけどね。他はどうしようかな……」

「えっと、定食の白ご飯は炊き込みご飯に変更出来るんですよ!追加料金はかかっちゃうんですけど、定食なら決めやすいかも」

「そうなんですね。んーー…それならB定食にしようかな」

「あっ、私も一緒です!」


 小鹿さんは嬉しそうな声を上げた。俺はメニューに写るB定食の写真へと視線を落とし、再び小鹿さんへと顔を向けた。


「小鹿さん、これ全部食べられます?」

「……私、小さいですけど、一応ちゃんと大人なんですよ?」


 むうっと口を尖らせて目を細めるが、全くもって怖くない。むしろ素直な反応がいちいち可愛すぎないか。


「って言っても、普通こんな量食べられないと思いますよね」

「はい。……え、本当に食べられるんですか?」

「うーん。食べられるといえば食べられますし、食べられないといえば食べられないといいますか……」

「なんですかそれ」


 意味が分からず首を捻る俺を見て、小鹿さんは「まぁまぁ」と笑う。


 小鹿さんが手を上げると、店員さんが「あっ」と声を上げた。そのままオーダーを取りに来てくれるのかと思いきや、何故か奥へと入っていく。暫くすると年配の男性店員が出てきた。


「よぉ、小鹿ちゃん。お疲れぃ!」

「店長、お疲れ様です」

「……店長?」


 まさかこの店の店長と知り合いなのか、と俺は目を丸くする。


 軽い挨拶のあと、小鹿さんが「B定食を二つ。二つともご飯は秋刀魚の炊き込みご飯に変えて欲しいです」と注文する。店長はチラッと俺を見たあと「普通といつものでいいんだな?」と問いかけていた。小鹿さんが頷くと、店長はオーダーの確認をしてから裏へと戻っていく。

 

「小鹿さん、このお店の常連なんですか?」

「はい、実は。仕事帰りに時々食べに来ていて。その……私、こんな背丈だから、初めてここに来た時に『嬢ちゃん、こんな遅ぇ時間に一人で来たんか?大丈夫か?』って店長に心配されまして」


 それをきっかけに顔見知りになったのか。そりゃあお互いにとって印象深い出会いだっただろう。


「まさか私が社会人だとは思わなかったみたいでビックリされちゃって。よく見たらスーツを着てるって分かるのに、どう見ても小中学生くらいだと……」


 そう言って、はは……と小鹿さんは薄ら笑いを浮かべた。俺もさっき考えていました。絶対に言えないけど。どう返すのが正解か分からず、俺は苦笑して誤魔化した。


「それから遅くなった日とか、外食したくなった時には、よくここに食べに来るんです。……私、焼き魚が好きなので、看板を見たら食べたくなっちゃって」

「お腹も素直でしたしね」

「もうっ!それは忘れてくださいっ!」


 小鹿さんは両手で顔を覆って呻いた。


(こんな姿を見たら、余計年齢不詳に感じるな。なんていうか、こう……少女すぎるというか。よくもまぁこんなに綺麗なまま大人になったな……)


 綺麗な、というのは見た目の話ではなく心の方だ。いや、髪も肌も綺麗だとは思うが。容姿だけで言えば、間違いなく綺麗ではなく可愛いに分類されるだろう。

 

 なんだかんだ同じ職場、同じフロアで働いてきたけれど、まさか二人で食事をすることになるなんて思わなかったし、小鹿さんとこんなふうに話すのも初めてだった。


(大きな社内パーティーがあっても、他のフロアの人達どころか、他のエリアの人達も全員参加になるし。新年会忘年会はチームごとだから、飲みの席で一緒になることもないしな)


 そんなことを考えていると、店長がお膳を運んできた。同じB定食を頼んだはずだが、全く違うそれに「え?」と言ってしまう。


「ほい、お待ち。B定食、秋刀魚の炊き込みご飯付きな」

「ありがとうございます!」


 どうやら小鹿さんはそれを受け入れているらしく、嬉しそうに喜んでいる。俺が目を瞬いていると、店長が苦笑を漏らした。


「小鹿ちゃんが定食なんて全部食えるわけねぇからな。少し値段を下げて、小せぇお膳に変えてんだ」

「私を義務教育の年齢と勘違いした罰といいますか、それからの計らいといいますか。店長が私サイズにして用意してくれるんです」

「へぇ、なるほど」


 定食サイズの量は食べられないけれど、小さいお膳にしてもらえるから食べられる。さっきのはそういうことだったらしい。……いや、そんな特別待遇があるなんて知らないから、この量を小鹿さんが食べるのかと驚いたよ。


「ほらほら、冷めちゃいますよ!食べましょう?」

「そうですね。いただきます」

「いただきます!」

 


 それから他愛ない話をしながら俺達は食事をした。食べ物の好き嫌いの話になり、苦手な食べ物で俺が「生魚」と言うと、小鹿さんは魚が苦手だったのではと慌て出した。


「生臭いのが苦手なだけで、焼き魚は好きですよ。でも家で魚を焼くのは手間なんで、作るとしたら肉ばっかりなんですよね」

「お肉の方が手軽だと思っちゃいますよね。でも、グリルを使わなくてもフライパンで出来る魚料理も結構沢山あるんですよ」


と教えてもらったり。休日には何をしているのかと聞かれたので、ほとんどは自宅で映画を見たり動画を見たりしているけど、運動不足にならないよう時々ジムに通っていると言うと驚かれた。


「休みの日にジムなんて、凄いです」

「別に大したことじゃないよ。本格的に鍛えているわけじゃないし」

「いえ、その意識が凄いと思います!ジムでトレーニングする内藤さんかぁ……」


 そう呟いたあと、小鹿さんは顔を赤らめたり口を尖らせたりと百面相を始めた。ジムで何を想像しているのやら。普通にランニングマシーンで走ったりするくらいなんだけどな。


 そう思っていると、小鹿さんは少し目を鋭くして俺の方を見た。


「あ、あのっ!少し聞いてもいいですか?」

「え……と、何をですか?」

「その……内藤さんって、あまり社内の女性社員と話さないじゃないですか。何か理由があるんですか?例えばその……えと…………彼女が居る、とか」


 後半になるにつれ、小鹿さんの声はどんどん小さくなっていった。恋愛話は確かに踏み込みづらいから、言い出したはいいものの気後れしたのかもしれない。


「えぇと、女性社員の方達と話さない……というのは、特に話しかける理由もないからというだけで、彼女が居るからとかそういうのじゃないですよ。それに、彼女は暫く居ませんし」

「えっ!?そうなんですか?」


 小鹿さんは少し大きな声を上げて、ぎょっとした表情を浮かべた。

 

「……そんなに驚くことですか?」

「えっ?驚くでしょう……?」

「どうしてですか?」

「えっ?えっ……?内藤さんって、モテますよね?」

「えっ?モテませんけど?」

「えっ?」

「えっ?」


 なんだこの会話は。お酒も入っていないはずなのに。小鹿さんは「いや……、えぇ……?」と言いながら眉間に皺を寄せて首を捻っている。俺はモテた記憶がないので、そんな信じられないような表情をされても困る。


「俺は本当にモテませんよ。入社して一年目の冬に別れてから、誰とも付き合っていませんし」

「……えっ、本当に言ってます?」

「本当です、本当」


 うんうんと頷くと、小鹿さんはぱかりと口を開いたまま固まってしまった。その口に炊き込みご飯を放り込んでみたくなる。やらないけど。


「なんか……びっくりしちゃって。内藤さん、凄く周りのこと見てくださってますし、いつも余裕があるといいますか、おおらかといいますか……」


 小鹿さんの言葉に俺は視線を落とした。ふと昔に言われた言葉が過ぎり、ふぅと息を吐く。

 

「ありがとうございます。でも……そんな俺がしんどかったそうですよ。元カノいわく」

「え……?」


 視線だけ向けると、自分のことじゃないのに小鹿さんが悲しそうに顔を歪めていた。この手の話はあまりしないけれど、別れてから五年も経つ今なら、普通に話せるだろうか。


「小鹿さん、少し聞いてもらってもいいですか?」


 そう言って、二人での食事なんて初めてなのに、俺は元カノとの別れ話を始めた。


 


 大学の頃から付き合っていた彼女は、大手化粧品メーカーに就職して、俺とは違った接客業に就いていた。お互い右も左も分からず、手探りで環境に慣れようと奮闘する毎日。


 それでも俺は、仕事は仕事、プライベートはプライベートと切り分けが上手い性格だったからか、その当時でも余裕があるように見えたらしい。そんな俺を見て、彼女は次第にトゲトゲしていった。


 精一杯励ましたつもりだった。しんどいことや悩んでいることをただ聞くだけの時もあれば、アドバイスをする時もあった。元気になってもらいたい。今を乗り越えられれば、きっと仕事が楽しくなれるはず。そう思って応援していた……つもりだった。


「悠護はずっと調子が良さそうで、いっぱいいっぱいの自分が嫌になるの。お前は出来損ないだって言われているみたいで、しんどくなる。それに、私がこんなふうになっているのに、さっぱりしてて……本当に私のこと好きなの?分かんないよ」


 そう言われてしまったのだ。


 恋人達が色めき立つ、クリスマス目前。彼女とは別れることになった。今年は就職して初めてのクリスマスだから、仕事場にも持っていけそうなブランドバッグでも送ろうか。そんなことを考えていたものも、全てが無に帰した。


 俺の心に残ったのは「じゃあどうすれば良かったんだ?」という悲しみ。


 調子が悪そうな彼女を見て叱れば良かったのだろうか。それとも、思ってもいない言葉で煽てれば良かったのだろうか。いっそのこと、合わないなら辞めてしまえばと提案すれば……。


 何が正解かも分からず、俺はその思いに蓋をした。じくじくと痛む心も、仕事をしていれば忘れられる。今は仕事を覚えなければ。そうして仕事に打ち込んで、プライベートでは仕事のための資格取得なんかに時間を費やして、時間経過と共に痛みが和らぐまで見ないようにしてきたのだ。


「…………」

「突然こんな話を聞かされて、困っちゃいますよね。すみません」


 小鹿さんは俯いて、眉を下げていた。聞かれた流れだったとはいえ、話すべきじゃなかったな。俺がそう思っていると、小鹿さんは「店長!」と手を上げて叫んだ。


「ん?どうした?」

「店長、ビールください!二つ!」


 俺はその言葉に「えっ」と漏らす。今から?飲むのか?ビールを?というか、小鹿さんは飲めるのか?

 

「おいおい、まだ金曜日じゃねぇんだぞ?明日も仕事だろうに、大丈夫か?」

「大丈夫です!一杯だけ!こんなの、飲まなきゃやってられませんよ!!内藤さん、ビール飲めますか!?」


 くわっと見開いた目が俺を捉え、その圧に驚いて無言で縦に首を振る。店長が「聞いてもねぇのに頼むなよ」と笑った。そりゃそうだ。


 店長はすぐに冷えたビールを持ってきてくれた。なんだか(しか)めっ面で不機嫌そうな小鹿さんは、全く似合わないビールジョッキを手に「乾杯!」と言うと、俺のグラスにカンッと軽快にぶつけた。そのまま勢いよくゴクゴクと飲んでいく。……本当に似合わない、いい飲みっぷりである。


 一気に半分ほど飲んだ小鹿さんは、ジョッキをダンッとテーブルに置くと、顔を歪めてキッと俺を睨んだ。


「内藤さんは!何も!悪くないです!」

「…………えっ?」


 その表情と言葉がちぐはぐすぎて、思わず拍子抜けした声が出た。お叱りを受けるだろうと思っていたのに、おかしいな。


「いっぱいいっぱいの自分が嫌になる?出来損ないだって言われているみたい?じゃあ内藤さんはどうしたら良かったのよ!」


 ヒュッと、その言葉に息を飲んだ。忘れようと押し込めてきた「じゃあどうすれば良かったんだ?」という疑問が、思い出したかのように顔を出す。


「内藤さんはどうしたら良かったと思いますか!?」

「えっ」


 まさか問いかけられるとは思わず、何も言えず視線を彷徨わせる。


(本当に、どうしたら良かったんだろう……)

 

 そうして俺が視線を下げようとした時、


「そんな状態の人に何をしたって、内藤さんが悪者のように言われるだけです!優しくしても駄目、厳しくしても駄目。きっと何をしたって理由を付けて、内藤さんを非難したと思います。だから、内藤さんは悪くないです!」


と、そう言われて……縋るように小鹿さんへと視線を戻した。


「そう……なのかな。俺にもっと、出来ることがあったんじゃないかって考えてしまって」

「内藤さんと元カノさんのお話しですから、絶対にこう!とは言いきれませんけど。内藤さんだけが悪いなんていうことはないと思いますし、元カノさんがさっきの発言をしていたのなら尚更。内藤さんのせいじゃないです」


 あまりにも小鹿さんが力強く言うので、俺は「どうしてそんな風に言い切れるの?」と聞いてしまった。俺に聞かれたことで目を丸くして少し落ち着いた小鹿さんは、さっきとは違って自分の何かを飲み込むようにゴクリとビールを一口流し込んだ。


「私、こんな見た目じゃないですか」

「え?……えっ?」


 突然なんだ?と俺は首を傾げる。


「自分で言っちゃあれなんですけど、勉強も運動も人一倍頑張ってきたんです。小さいってだけでハンデがあるのに、努力で出来ることさえも出来なかったら、自分が嫌いになってしまいそうだったから」

「……」


 仕事が出来て、明るく元気な小鹿さん。体の小ささなんて感じさせないくらい、頼りになる人。事務システムチームの人達の印象は間違いなくそうだろう。けれど、今の言葉を聞いて、そこに至るまでの日々を思った。その背景にはきっと、これまで多くの苦労があったのだろう。


「私、女の人からは好かれるんですけど、男の人からはとても極端なんです。好かれるのと嫌われるのが」


 女の人から嫌われる女の人……は何となく聞くけれど、女の人から好かれて男からは両極端、というのはいまいちピンとこない。


「それは、どういう……?」

「……私、こんな見た目じゃないですか」


 いやそれはさっきも聞きましたが。まさか酔ったのか?ビールジョッキ半分で?取り敢えず相槌は打っておかねばなるまい。

 

「えっと……はい」

「この見た目で勉強が出来たり運動が出来るとですね、男子から馬鹿にされるんですよ。女子のくせに生意気だって」

「えっ」

「ただでさえ女子に負けたってだけでも腹が立つのに、こんなチビに負かされたなんてプライドが許さないんでしょうね?そのちっさな自尊心を守るために、私を悪く言うんです」


 その言葉は納得出来た。決してプライドを持つこと自体は悪くないのだが、それによって他者を貶める人は少なからず居る。そういえば前にそんな話を聞いた気がするな……と、俺はその時のことを思い出した。


「さっき言った、私を好きになる男の人はその正反対なんですけど、勝手に見た目と雰囲気で判断して、付き合ってから『思ってたのと違う。守ってあげたい系かと思ったのに』とか言うんですよ!?知りませんよそんなの!」


 小鹿さんはグビーッと残りのビールを流し込む。俺は話を聞きながらも、小鹿さんが大丈夫か不安になってきた。再びジョッキをダンッとテーブルに置いた小鹿さんは、俺に向かってハッキリと言う。


「自分の都合に合う相手なんて居ません!劣等感を持とうが自尊心を持とうが構いませんが、それは相手にぶつけていいものじゃないでしょう。自分を高めるためならいいですけど、それを理由にして相手を攻撃するもんじゃないです」

「あ……」

「そもそも、しんどいってなんですか。確かに元カノさんはしんどかったのかもしれませんけど、元カノさんは元カノさんで、そのいっぱいいっぱいな状況をぶつけられ続けている内藤さんのしんどさを一切汲み取っていないじゃないですか」


 ぷりぷりと怒る小鹿さんを見て、俺はフッと笑ってしまった。すると小鹿さんはハッとして、途端に小さくなる。


「ご、ごめんなさい!仮にもお付き合いされていた人に対して……」

「えっ?今更?……ははっ」

「あうぅ……」


 俺が堪えきれず声に出して笑うと、小鹿さんはそう呻いて、ただでさえ小さいのに椅子の上できゅっと縮こまった。


(小鹿さんに『守ってあげたい系』を押し付けた男は……そりゃあ合わなかっただろうな)


 だってこんなにもパワフルな女性なんだから。守ってあげようなんて言葉をかけても、いえ結構ですとキッパリ言われてしまいそうだ。

 

 どうやったって変えられない身長に劣等感を抱く人だって居るだろうに、彼女はきちんと違った方向で自分を伸ばして評価を得ている。


 自分を嫌いになりたくないから、努力して自分を成長させる。なんとも単純なことだが、それが出来ずに楽をして、他人に矛先を向けて貶める人が多い。人を落とせば自分が上に立てるから。けれど自分はその場から何も成長していないのに、まるで成長したように錯覚する。彼女はそれを分かっているのだ。


「俺も、ずっと立ち止まっていたんでしょうね」

「……?何がですか?」

「いえ、なんでもないです。今日は小鹿さんと話せて良かったです。ずっと考えないようにしてきたんですが、少し前を向けそうです」

「わぁっ、本当ですか?それならよかったです!」


 小鹿さんは頬を染めて満面の笑みを浮かべた。あまりにも無邪気な笑顔に、俺の心まで照らされて、これまで悩んできた自分が馬鹿らしく思えてくる。


(どうしたら良かったんだろうなんて、答えが出るはずないんだ。どうしたってきっと、あぁなったんだろうから)


 きっと自分にも至らない点はあったのだろう。大切にしてきたつもりだが、つもりなだけで伝わっていない部分があったに違いない。でもきっと、それは彼女にも言えたことなのだ。俺だって……しんどかった。もっとちゃんと、お互い向き合うべきだった。それが出来なかったのだ。


(そうは言っても、恋愛の仕方なんてもう忘れてしまったけど。女の人との出会いもないしなぁ……)


 そんなことを考え、ふと正面に座る小鹿さんを見つめる。小鹿さんは二杯目のビールを頼もうとして、店長に止められているところだ。「客が飲みたいって言ってるのにっ!」「いやいや、絶対キャパオーバーだろ?」というやり取りにくすくすと笑ってしまう。


「……なんだか、内藤さんがそんなふうに笑うの、珍しいですよね」

「そうですか?」

「はい。いつも静かでクールなイメージなので」


 俺はそんなふうに思われていたのか?まぁ和気あいあいと話すような人間ではないかもしれないけれど。


「今日はそれくらい楽しいってことで」

「……!!そ、それならよかったですっ」


 小鹿さんは声をひっくり返しながら嬉しそうにしていて、俺はまた笑ってしまった。たった一杯のビールに、俺も酔ってしまったのかもしれない。





 

 次の日、いつもと変わらず出勤して、いつも通り仕事をする。昨日がまるで夢だったように、小鹿さんと話すことはないし、デスクも遠いから顔も見ることもなければすれ違いもしない。


 これまで普通だったはずなのに、なんだか少し寂しい気がして、事務システムチームの方へと視線を向けてしまう。けれど小さな小鹿さんは、そもそも何処に座っているのかも分からないくらいに見えない。


「内藤、三十分後に出るぞー」


 高山さんがぼんやりとしている俺の肩を叩く。ふぅと息を吐いて、俺は出るための資料をまとめ始めた。



 

 そうして上半期が終わり、下半期が始まった。

 

 それはそれでまだ忙しいので、俺は相変わらず残業三昧。しかし、小鹿さんまで巻き込んだ雑務放置事件は、しっかりと犯人を洗い出して叱ってやったため、変な雑務が減って楽にはなっていた。


 中でも、営業チームに居る小鹿さんと同期の横矢(よこや)小徹(こてつ)は、溜め込んだ雑務を遠慮なしに置いていったようで、俺の甘いお叱りでは済まず、高山さんや他の先輩達からもかなり叱責を喰らったようだ。その後に横矢がこちらを睨んでいたが、自業自得だろうと呆れるしかなく、更にその様子を見ていた高山さんが舌打ちをしていた。


(高山さんは俺とかには優しいけど、仕事に不真面目なやつには容赦ないからなぁ……。あいつ、もうここの営業チームに居られなくなるんじゃないか?)


 そうなるならそうなるで別に構わないがと考え、そういえば俺も横矢は嫌いなんだよなと思い至る。苦手とか相性的に合わないとかそういうことではなく。


(俺、あいつと何かあったっけ……?)


 他人に対して嫌いと思うことが少ない俺にとっては、ある意味貴重な感情なのだが。嫌いになった経緯が思い出せず、なんだったかなぁと首を傾げた。




「あぁっ、くそ!今日は帰れねぇなぁ」


 そう叫んだ高山さんが苛立たしげに始末書を書き始めた。今日は外回りを別々に回っていたのだが、高山さんの業務端末に緊急連絡が入ったらしい。どうやら横矢とペアのやつが営業先で大ポカをやらかしたそうだ。


 たまたま近くを回っていた高山さんがそちらのフォローをする羽目になり、俺は自分が回る予定だった営業先の時間を詰め、高山さんが行く予定だった所も回って帰ってきた。


 そうして二人共が会社に戻れたのは二十時過ぎ。流石の高山さんも、今日はモバイル版でも出来る業務だけでは済まず、社内に戻ってきていた。


「高山さん、ご自宅遠いんでしたよね」

「そ。片道一時間半かかんだよ。元々は嫁さんと三十分圏内に住んでたんだけどな。母親が足を痛めて歩きづらそうにしててさ。流石に心配だから、同居しようってなったんだよ」


 片道一時間半は結構な距離だ。そう考えたら新システムが出来て、日々直帰出来ていたのは本当に救いだっただろう。


「くっそー!近くに居たのが俺じゃなかったらっ」

「こればかりは運ですよね。もう避けようのない事故と思うしか……」

「いやな、別にミスのフォローに動くのはまだいいんだよ。誰にだってあることだし、俺だって昔先輩達に迷惑かけてっからさ。でも何が腹立つって、あいつら全然反省してねぇの!横矢なんて、言った言葉が『すんません』だぞ!?それは謝罪になんねぇだろっ」

「うわぁ……」


 あーー…これは終わっただろうな、と俺は遠い目をする。明日はきっと大戦争になるのだろう。そして横矢は多分異動が確定しそうだな。


 小鹿さんと同期で、同じように五年目に突入しているはずなのに、ミスも多いし確認も雑。そのくせ「事務が作る資料の質が悪いんすよ」「エンジニアの作るシステムがありきたりなんじゃないんすか?」なんて台詞を平然と言うのだ。


(あぁ、そうか。これはこの間、小鹿さんが言っていたやつだ)


 劣等感や自尊心を他人にぶつけるタイプの人間。なるほどこれは好きになれない。横矢ほどあからさまな人間は少ないだろうから、ここまではっきりとした感情を持つことがないのだろうが。


「俺も、あいつは嫌いかもしれません」

「……おぉっ!?内藤がそんなこと言うの、超珍しいじゃん。お前にそこまで言わせるって、逆に凄ぇよ」

「なんですかそれ。全然嬉しくないですよ」


 俺はそう言って笑う。


 パソコンを開いて新システムを立ち上げると、いつも通りシカから吹き出しが出ていた。


『今日モ、オ疲レ様デス』


 ………………。ん?


 俺は画面を二度見した。何だって?お疲れ様?今までこんなコメントあっただろうか。


 確かこれまでは、

 

『モウ二十時デスヨ』

『無理セズ速ヤカニ帰宅シテクダサイ』


の二パターンだったはずだ。


(いつ追加されたんだ?ここ最近は……二十時を過ぎてからログイン画面を開くことがなかったからか。気付かなかった……!)


 何に悔しがっているのか意味不明だが、シカは知らない間に進化していたらしい。シカ本体は相変わらずドットで描かれているだけなのだが。もうシカが喋っているとしか思えなくなるほど、この画面を見てきたせいだろうか。それはそれで毒されすぎではなかろうか。


 すると、パッと次のコメントが現れた。


『分担出来ルモノハ相談シマショウ』


 それを見て、俺の心臓がドクンと跳ねた。何処かで聞いたことのあるフレーズ。既視感が頭を過ぎる。


『分担出来るものはちゃんと相談しないと駄目ですよっ』


 むぅっと俺の顔を覗き込む、小鹿さんの顔。やけにドクドクと脈打つ心臓が煩い。


(まさか小鹿さんが……?新システムの管理を担当しているとは聞いたけど、これって……)


 なんだか妙に顔が熱い。まさか俺のためにこんなものを作ってくれたのだろうか、なんて思い上がりもいいところだ。ふるふると顔を横に振って、自分の報告業務に取り掛かろうと始めた時。


「ん?……おい、なんだこれ!内藤、お前これ知ってた?」


 高山さんがそう叫んで、パソコンの画面を指さした。そこには


『モウ二十時デスヨ』


というフレーズがQRコードの上に現れていた。俺と同じように、吹き出し付きで。


(えぇ……?こんなすぐ思い上がりだって思わされることある?)


「……知ってますよ。二十時過ぎてログイン画面を立ち上げると、それが表示されるんです」

「なんだよこれ、知らなかった!モバイル版で立ち上げてもこんなん出たことないんだよな。パソコン版だけってことか?」


 高山さんはどうやらこれを見るのが初めてらしい。二十時までわざわざ会社のパソコンを使ってなければお目にかかれないのなら、確かにほとんどの人間は知らないだろう。

 

「社内業務削減の一環じゃないですかね」

「あぁ、なるほどな?……って、お前なんでそんなテンション低いんだよ」

「いやぁ……はは……」


 あまりにも自分が愚かすぎて笑えてくる。仮に小鹿さんがこの時間通知の設定を組み込んでいたとしても、俺だけなわけないじゃないか。


(あぁ……駄目だ。小鹿さんと恋愛話なんてしてしまったせいか、変に意識してそっちの方に思考が持っていかれてる気がするな。小鹿さんに迷惑がかかってしまうだろ。忘れろ忘れろ)


 そうしている間にも、シカはまたコメントを変えていた。


『早ク帰ッテ、ユックリ休ミマショウ』


 さっきまで嬉しかったシカの進化が、たった数分でちょっと切なくなってしまった。




「小鹿先輩のやつ、やっと聞いてもらえましたね!」

「まさか半年以上も聞かれないとは思わなかったね、小鹿ちゃん。残業が減ってるならいいことだけど」

「ですねぇ」


 朝、出勤してみると、事務システムチームのデスク周辺に人集りが出来ていた。気にはなるが、取り敢えずデスクに鞄を置こう……として、高山さんから「あっ、内藤ー!」と声をかけられた。


「こいつはもっと前から知ってたって」

「え?何の話ですか?」

「昨日のやつだよ、昨日の!お知らせ出てきたやつ!」


 高山さんが楽しそうに話すと、周りも「なんだそれ」「知ってるか?」とザワザワし始めた。


「あぁ……あのコメントですね」

「あれ、小鹿さんが設定したんだって」

「もう、高山さん!声が大きいですよ。あれは社内残業で二十時を超える人だけ出るようにって、ちょっとした遊び心で設定しただけなんですから」


 そう小鹿さんが言うと、周りの男性社員達が「最近モバイル版ばっかだからなぁ」「社内残業が減ってていいことじゃねぇか」などと話している。

 

「いやでも、こんな面白いもん、もっと早く教えてくれよ。お前、いつから知ってたんだ?」

「……結構早い段階で知ってましたよ。俺はずっと社内残業でしたし、新システム導入してすぐの頃には」


 勤怠の履歴を遡れば、いつ二十時を超えていたかなんてすぐに調べがつく。誤魔化そうかとも考えたが、諦めて素直に打ち明けると、事務システムチームの人達もぎょっとした。慌てて事務の女の子が声をかけてくる。


「内藤先輩、なんで何も言ってこなかったんですか?なにこれってならなかったんですか?」

「だって上半期始まってすぐの頃、みんな忙しくしていたでしょ。そんなことで時間取らせるのもなぁと思って……。どう見たってウイルスではなさそうだし、そうこうしているうちに見慣れてしまって」

「見慣れるほど社内残業してんなよな……」


 高山さんが俺の頭をくしゃりと掴む。俺は笑って誤魔化しつつも、言いしれない物悲しさを感じていた。


 ついにあのコメントが全員に知れ渡ってしまった。気になっていた制作意図と、やっぱり小鹿さんが作っていたということは知れたけど。


(なんだろう。喪失感……?別にアレは俺だけのものじゃないのに)


 二十時になればお知らせを出してくれる、平等に組まれたシステム。ただそれだけ。それだけだったのだ。


(小鹿さんと少し仲良くなれたからって、ちょっと自惚れたなぁ。いい大人が恥ずかしい)


 アレが、俺だけのためだったら……なんて。特に昨日のコメントを見て、馬鹿な期待を抱いてしまったのだろう。


 深く息を吐いていると、みんながぞろぞろと動き始めた。俺もデスクに向かおうとして、後ろから声がかけられた。


「ちなみに社内残業で二十時を過ぎた場合には『モウ二十時デスヨ』『無理セズ速ヤカニ帰宅シテクダサイ』って表示されるだけですから。特に面白みはありませんからね。それだけのために残業しないでくださいねっ!」


と言いながら、小鹿さんは全員に向けてピッと指さした。片方の手は腰に当てられていて、あまりの可愛さにみんなが吹き出す。「おうおう、分かった分かった」「忘れた頃に見そうだな」なんて言いながら、みんな席へと戻っていく。


 俺はその波に押されて、営業チームの方へと足を向けながら振り返った。まだ小鹿さんはこちらの方を見て立っていて、俺と目が合ったその瞬間。


「しぃー」


 人差し指を立てて笑っていた。


 その顔が、いたずらの成功した子供のようで、何処か計算高い女性のようで。俺の顔はカッと熱くなって、口を引き結んで急いでデスクへと戻った。


(……なんだよあれ。なんだよあれ……っ!あんなの、ズルすぎるだろ……っ)


 きっと初期の設定では、確かにコメントはあの二つだったのだろう。そもそも新システムを管理している小鹿さんのことだ。誰が社内残業をしているかなんて、初めから分かっていたんじゃないだろうか。


 もしかしたら彼女は待っていたのかもしれない。「二十時になったら出てくるアレはなんですか?」と、俺が聞きに来るのを。でも俺は行かなかった。忙しいだろうと思って聞きに行かず、そのまま見慣れてしまったから。


 だから食事の時に聞いてきたのかもしれない。「あまり社内の女性社員と話さないじゃないですか。何か理由があるんですか?」と。


 そう思うとここ最近、俺に向けられた小鹿さんの態度や表情、言葉がじんわりと胸を締めていく。考え始めれば、もしかしたらアレもコレも、実は彼女の策だったのでは?なんて思えてくる。


(こんなの、自惚れるなって方が無理だろ……っ!)

 

 俺は、小さくて可愛いと思っていた小鹿さんの、強かな女性の姿を見て。デスクで一人、顔を覆う。


(……この間、まだビール飲みたそうにしていたから、金曜日に声かけてみようかな……)


 一緒にまた食事してくれるだろうか。いつもならオンオフの切り替えがしっかりしているはずなのに、今日はふとした瞬間にそわそわしてしまいそうだ。


 けれど、今日も今日とて一日仕事だ。しかも、おそらく一~二人分の席が空く分の仕事を割り振られそうな予感もする。


 早く終わらさなければ、きっとまた怒られてしまうのだろう。二十時に現れる、俺だけのシカに。



 




――――――




 それは入社して五ヶ月が経った頃のこと。

 

 初めて迎える上半期の締めで慌ただしくしていたせいか、その日私は珍しく家に水筒を忘れてきてしまった。途中の十分休憩で、滅多に行かない自販機の置かれている給湯室へと向かい……そこに辿り着く前に聞いてしまったのだ。


「小鹿さんってさぁ、本当に子供みたいじゃねぇ?」

「分かる。入社式の時、入学式と間違えて来たみたいだったよな」

「先輩達、絶対あの見た目で贔屓してるって。結構いい仕事回してもらってるんだよ、小鹿さん」


 それは事務システムチームと営業チームに居る同期達の声。


(やっぱりここでもかぁ……)


 私は給湯室に入る手前の廊下に身を隠して、小さく溜息を吐いた。自分が人よりも小さい自覚はある。そのうえ童顔なことも相まって、未だに中学生くらいに見られることもあるくらい。

 

 最近の中学生はしっかり化粧をしている子も多い。その中に紛れれば、私だけが社会人だと気付くのは難しいだろうな。自分でもそう思うのだから、周囲からそう見られること自体は受け入れている。


 けれど、この見た目のせいで言われる言葉までは、ずっと納得出来ずに居る。

 

 この身長のせいで、人が手を伸ばせば当たり前に届くものが届かなかったり、早足で歩いているつもりでも人よりスピードが遅くなってしまったり。そういったどうしようもないことに悩んできた私は、せめてそれ以外では劣らないようにしようと努力することにした。


 おかげで学生時代、成績は良かったし体育だって得意だった。どうやら私は負けず嫌いらしく、男だから・女だからとか、背が高いから・低いからとか、そういった考えそのものを苦手に感じる。もしかしたら、これまで自分に向けられてきた言葉のせいかもしれない。


 けれどそうすると、また別の言葉が飛んでくるのだ。曰く、小さい子が頑張っているように見えるんだろう、と。そして贔屓だ優遇だと言われるようになって……。悔しくて悲しくて、それでも何もしないわけにはいかないから、そういった言葉に傷付きながらも前だけを向き続けてきたつもりだ。


 有難いことに、この会社の先輩達はとても優しい。いつか事務の仕事だけでなくエンジニア方面の仕事もやりたいと意欲的に伝えれば、そんな私を生意気だと言うことなく、それに向けて学んでおかなければならない仕事を少しずつ回してくれるようになった。


 きっとそれが同期の目に付いたのだろう。


(自分達だって頑張ればいいだけなのに。こんな、みんなが通るところで話してるなんて)


 飲み物を買いたいのにどうしようと思っていると「本当にさぁ」と、同期の中でも一番苦手な横矢さんの声が聞こえてきた。どうやらさっきの三人と一緒に横矢さんも給湯室に居たらしい。


「先輩に気に入られて調子に乗ってんじゃない?先輩達もそうやって甘やかして、(ろく)にチェックもしてないような資料をコッチに回してんじゃないの?だから書いておいて欲しいことが載ってなかったりするんだよ。俺達が注意してやんないと。はぁ〜〜」


 気だるそうな溜息を聞いて、私は飛び出していきそうな体を必死で押し留めた。たかだか半年も働いていない新米のくせに、私だけに飽き足らず先輩達まで悪く言うなんて。


 けれど、私は唇を噛み締めて顔を俯かせるしかなかった。もし思いのままに突っかかってしまったら、先輩達に迷惑をかけてしまう。


(飲み物はまたあとで買いに来よう。今はお手洗いにでも行って、気持ちを落ち着けた方がいいかな……)


 そう思ってその場を離れようとした……その時。


「あの……他の人に聞かれないか、少し考えましょうよ。俺しか居ないから良かったものの……」

「……!な、内藤さん……!?」


 どうやら反対の廊下から人が歩いてきて、四人に向かって声をかけようだ。その後に横矢さんの焦った声で、そこに現れたのが営業チームの内藤さんだと分かった。


(内藤さんって営業用資料をメールで送るくらいで、フロアでも滅多に話すことないけど……)


 業務の中に営業用資料の作成があるため、営業チームの人達とは何かと報連相が必要になる。けれど座席が離れているし、営業チームの人達は出かけている時も多い。だから基本的には直接声をかけず、メールでの業務連絡が多かった。

 

 その中でも特に内藤さんは、あまりぺちゃくちゃとお喋りをしているような人ではなさそうだったので、きっとメールの方がいいだろうと思って、ほとんどメールでやり取りをしていた。だから、内藤さんがどんな人かよく知らない。


「いやだって、適当な資料を回されたら俺達営業チームだって困るでしょ!別に間違ったことを言ったつもりは……」


 横矢さんは内藤さんの注意とは関係ない内容で言い返した。しかも真っ当なことを言っていると、正当性を主張して。


(そういうことじゃないでしょ。こんな誰にでも聞こえるようなところで、そんな話をするなってことなのに。そんなことも分からないの?)


 私が横矢さんの阿呆さに呆れていると、今度は内藤さんの遠慮がちな溜息が聞こえてきた。


「そうじゃなくて……もしここに他の先輩達が来ていたら、『俺達が確認もせず適当に資料を回してると思ってんのか』って怒られていたと思いませんか?」

「うっ」

「いや……その……」


(本当に。仰る通りです……)


 私は隠れながらにうんうんと頷いた。同期達は歯切れの悪い返事をボソボソと呟いている。


「それに小鹿さんの資料は丁寧ですし、無駄がなくて見やすいんですよ。先輩達に教わって直してる部分もあるでしょうけど、営業する人達が見やすく案内しやすいように作ってくれてるって伝わってきますしね」

「……そんなに褒めるほどですか?俺達と同じように入って半年程度なのに。それって贔屓してないって言えるんですか?」


 内藤さんの言葉が気に食わないのか、横矢さんが内藤さんに向かってキツい口調で言い返した。そんなにも私が褒められるのが許せないのだろうか。先輩にわざわざ言い返さなければ気が済まないほどに。


 ここから離れようと思っていたはずなのに、私の足は棒になってしまったように動かなかった。どうしてこんなことになってしまったんだろうと、内藤さんに申し訳ない気持ちを感じていると、

 

「贔屓?頑張っている人を正当に評価してるだけでしょ?」


と、平然と言い返してくれたのだ。私はビックリして、一瞬時が止まったかのような感覚で立ち尽くす。


「営業チームに居たって、新人の中で一番仕事をしてるのは小鹿さんに見えますし、取り組んでる姿勢だっていい。そんなふうに人を貶すなら、君達は同じように作れるんですか?」


 どうやら内藤さんは、私と同じ事務システムチームの同期に問いかけたようだ。責めるような声色ではなく淡々とした質問だったが、同期達は何の返事も出来ずに居るようで沈黙が続いた。

 

「それに、資料はただ丁寧に作ればいいってわけじゃないんですよ。細かく書きすぎれば、自分も相手も見づらくなります。だから見やすい簡潔な資料を持っていって、その補足を俺達営業が口頭で案内するんです。小鹿さんの資料を見て足りないと感じるなら、そもそも横矢さん自身の知識量を増やすべきなんじゃないかと思いますが?」

「そ、それは……!」

「小鹿さんはきちんと仕事に向き合って努力していますよね。それを僻んで悪く言う前に、自分に足りてないものを考えた方がいいですよ。バレてない、気付かれていないなんて思っているのは当人達だけで、先輩達は結構そういうところ見てますからね」


 内藤さんが釘を刺すと、同期達は「すいませんでした!」と言ってバタバタと走り去ったようだ。途端にシンと静かになると、少しずつ自分へと意識が向いていく。そこで、瞳が潤んで異様にドキドキしている自分に気が付いた。


 お礼を言った方がいいのだろうか。いやでも、ここで立ち聞きしていたと知られてしまうが、それは問題ないのだろうか。


 そんなことをグルグルと考えていると、給湯室から「はあぁ〜〜っ」と盛大な溜息が聞こえてきて、私の肩はビクリと跳ね上がった。


(内藤さんからしたら、面倒くさいところに出会してしまったと思ってるよね……)


 勝手に人の話をしていたのは彼らだが、私のことで迷惑をかけてしまったと胸を痛める。内藤さんも給湯室に用事があったんだろうに、せっかくの休憩時間を無駄にさせてしまった。


 ……ちゃんと謝りに行こう。そう思い一歩踏み出して、


「ちゃんと叱れてたかな……。俺、こういうの苦手なんだよなぁ」


と、胸を撫で下ろしているような声が聞こえてきて、ピタリと足が留まるのと同時に、私の心は撃ち抜かれていた。


 しっかりと後輩を諌められる先輩らしさや、チームが違うのに周りの仕事ぶりや姿勢を見てくれている視野の広さ。何より、私のこれまでを評価してもらえただけで胸がいっぱいだったのに。


(注意するの、苦手だったの!?あんなに堂々と言ってたのに!?)


 そのギャップは反則では?と一人で悶える。だって、彼らの声が聞こえた時、注意するのが苦手なら「どうしよう……」と葛藤しただろうし、聞いていないフリをして立ち去れたはずなのに。


(それなのに嫌われ役を買って叱ってくれたなんて。別に私のためってわけじゃないって分かってる。きっと同じようなシチュエーションに遭遇したら、嫌だなぁって思いながらも声をかけるんだろうし)


 だからこそ、その誠実さに心から尊敬の念を抱いた。あんな先輩が見てくれている、分かってくれているなら、きっと大丈夫。そんな安心感を得た。


(今声をかけちゃうと、さっきのも聞いてたって知られちゃうし……きっとそれは嫌だよね。聞かなかったことにしよう)


 私は小さな声で「内藤さん、ありがとうございます」と呟き、ひっそりとデスクへ戻ったのだった。



 


 それから私は気付けば内藤さんを目で追うようになっていた。そこで、人よりも残業時間が長くて、それなのに人の仕事をさらりと手伝っていることに気が付いたのだ。この人は背負い込んでしまいやすい人なのかもしれない。そう案じるようになっていった。

 

 営業チームの人達に業務の不満を聞いてみると、こちらのチームが本格的なシステム改善を行えば、多少なりとも業務を楽に出来るのでは?という点がいくつもあると感じた。だから私は必死に勉強した。元々エンジニアの仕事もしたいと思っていたところに更に拍車がかかり、営業チームの、特に内藤さんの仕事を楽にしてあげたい……!と一人勝手に励んだ。


 そんな毎日を過ごしていて、いつの間にか……いや、もしかしたら、あの同期達に注意をしてくれた日から、私は内藤さんに恋をしていたらしい。それに気付いたのは、入社して二年も経ってのこと。内藤さんには隠れファンが多く、密かに人気だと先輩達から聞かされたのだ。


 内藤さん自身はあの日私が聞いていたことなんて知らないし、基本的に挨拶くらいしか会話がない。どうしても声をかけないといけない時以外はメールでのやり取りが多い上に、業務内容ばかりでプライベートな話をする機会なんて一切なく。


(内藤さんがモテてると聞かされてから、この気持ちに気付くなんて……っ!しかも開けっぴろげにモテてない分、隠れファンがどれくらい居るのか分かんないよぉっ!)


 内藤さんはあまり話さない人だが、決して人当たりが悪いわけではない。先輩同期後輩問わず敬語で話し、けれど時々出るタメ口がいいとかなんとか。先輩達にイジられて苦笑している姿も可愛いとかどうとか……。


 確かにそんな話を小耳に挟むことはあったが、どうやら水面下では「自分の方が内藤さんと接点がある!」「私はこんな内藤さんを知っている!」などというマウント合戦が繰り広げられているそうな。


(私は周りにバレないようにしよう……。ぐいぐい話しかけにいくのも迷惑になっちゃうだろうし、業務改善で支えてあげられたらいいな……)


 仕事とは違って恋愛にはどうしても消極的になってしまう私は、そうして隠れファンの仲間入りを果たしたのだ。



 


 それから月日は流れ、新システム稼働日。相変わらず内藤さんとの接点はないままだったが、ついにここまで来たと私は胸を撫で下ろしていた。社内残業をしなくても効率よく業務が出来るように。臨機応変な柔軟さに対応した新システム。自分の目指したものが体現出来た瞬間だった。


(これで少しは営業チームの人達の仕事が楽になるはず。いろんな意見を取り入れて、もっと改善していけるように頑張ろう!)


 そう意気込んでいると、ミーティングで私は新システムの管理担当に指名された。管理担当になれば、新システムの利用状況や残業時間の増減などがすぐに確認が出来る。これはチャンスだと、 日々集計を出した。


 利用状況が悪い人は新システムに慣れないのだろうと、そういった人達を集めてレクチャーをした。おかげで多少の不具合は発生したものの、新システムの滑り出しは好調。社内残業もみるみる減っていき、しっかり数字として現れ始めていた。


 しかし……。


「どうして内藤さんだけ、社内残業が減ってないの……?」


 そう。一週間分の集計を見て気付いたが、一番支えてあげられたらと思っていた内藤さんの社内残業時間だけ、一向に減る様子がないのだ。


(まさか、他の人達の社内業務をやってあげているとか……?確か家も近いはずだから、代わりにやってあげている可能性は高いよねぇ……)


 事務の業務をしていた時、交通費といった精算処理もしていたので、内藤さんの自宅から会社までの交通費申請がないこと、そして家が会社からかなり近いことは知っていた。


(でも、どうしたらいいんだろう……。残業するのが当たり前になっちゃってるんだろうし、せめて早く帰る意識を付けてもらえるようにしたいけど……)


 どうしたら時間を気にしてもらえるだろうか。そう考えて、ふと新システム稼働日に「内藤用のQRコードにシカが居るんだけど!」と言った高山さんの言葉がふと浮かんできた。


 私は急いでパソコンを開き、管理画面から内藤さん用のログイン画面を立ち上げる。そこにはなんとも珍妙なシカが紛れ込んだようなQRコードが表示されていて……


「コレだ!これを使おう!私の代わりに、早く帰ってって言ってもらおう!」


 あれを思い付いたのだ。でも、内藤さんだけ特別に作るのはおかしいし、管理担当だからといって勝手にシステムをいじるのはいけない。


 次の日、先輩達に相談し、残業時間を減らすための意識付けと言って、時間のお知らせ機能の導入許可を取ると、私はすぐに取りかかった。全員のQRコードの上に、二十時以降吹き出しが出るように設定し、言葉を入力する。


 二十時以降にパソコンを立ち上げようとする人なんて、集計を見ている限り内藤さんくらいだから、きっとすぐ気付いてくれるはず。


(もしかしたら、これってなんですか?って聞いてくるかもしれないよね。そうしたら、私が作りましたってお話し出来るかな……?)


 


 そんな淡い期待が打ち砕かれ、約半年。内藤さんがこちらに聞いてくる気配は一切なく、残業時間は僅かに減った程度。再び上半期の締めが迫る中、恋も成果も低迷まっしぐらだった私は、ついに痺れを切らした。


「今日いっぱい雑務を置かれてたから、内藤さんなら絶対に全部やって帰ろうとするはず……!こうなったら、どうして社内残業が減らないのか、直接聞いてやるんだから!これは下心なんかじゃないもん。業務として。そう、社内残業を減らすための業務としてなんだからっ!!」


 私は自分にそう言い聞かせて、鞄の持ち手をぎゅっと握り、扉を開く。その先にはきょとんとした表情でこちらを見る内藤さんが、書類の山を前に立っていた。


 もうすぐ二十時。今日はシカではなく、私が言うんだ。


「もう二十時ですよ」


 その言葉を。



 



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本日完結:

【平民聖女、鎖領します! ~聖女の力に目覚めましたが、平民のくせにと馬鹿にされたので故郷のためにしか貢献しません!!~ 】

挿絵(By みてみん)

20:00の更新で本編完結いたします!


第一章完結作品:

【恋の相談役になれば、あわよくば振り向いてもらえると聞きまして 〜いつの間にか振り向かされていたのは、わたくしの方でした?~】

挿絵(By みてみん)

二章前半まで更新済み、近々連載再開予定です!


長編作品もお楽しみいただけましたら幸いです!



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