女神へのセレナーデ
「僕の最愛は美の女神。僕は彼女の僕なんです」
彼は確かにそう言った。
国内でも有数の大商会を営むフィッシャー男爵家。
その娘であるミラベルは今、茶会が開かれている大貴族のサロンにいた。
彼女は先日、十八歳の誕生日を迎えたばかり。
貴族令嬢であれば夜会デビューし、婚約者探しに奔走する年頃だ。
だが、ミラベルは婚約者を探すつもりが無い。
商会の売り上げは好調で、自分でも仕事に携わってそれなりな実績を出している。
その気になれば、このサロンにいる誰より素晴らしいドレスを自分で用意することも出来るのだ。
しかし、今日の彼女は、どこか制服を思わせるようなデザインのスーツを纏っていた。
色合いも落ち着いていて、麗しき令息方のお目に留まろうなどという邪な気持ちは僅かもありません、と主張するかのようだった。
ただし、よく見れば、最新の高級生地を使用したオーダーメードだとわかる。
そもそも、ミラベルがここへ出向いたのは茶会に出席するためではない。
持参した招待状の宛先は彼女ではなく、商会所属の画家の名前だった。
最近人気の画家オスカーは、ミステリアスな存在だ。
本人の社交界での露出は皆無で、その顔を知る者はほとんどいない。
描くペースは速く、新作が出品されるたびオークションにかけられ、高値で落札される。
合間に注文品も引き受けているので、相当な額を手にしているはずだ。
しかし、しこたま稼ぎながらも遊行の場で目撃されることもない。
彼が描くのは美人画。
それも、幻想的で神話的な女神の姿だ。
彼の絵は観る者に癒しと安らぎを与え、とうとう開国以来の女神画家という二つ名がついた。
とにもかくにも、人気画家である。
露出が少ないことで更に興味を引き、貴族サロンでの茶会や、本格的な夜会の招待状は毎日のように届く。
だが、本人の意向で出席は控えていた。
そういうわけで、顧客と画家の仲を取り持つ商会としては代理人を立てざるを得ず、今日の茶会にはミラベルが出席したのだ。
まずは招待主の夫人に、謝罪の言葉を加えながら丁寧に挨拶をする。
少しふっくらした体形の夫人は、素直過ぎるほど、がっかりした表情を浮かべた。
「……まあ、残念ですわ。オスカーさんはいらっしゃらないのね」
「お招きいただきましたのに申し訳ございません。
何せ芸術家というのは繊細なものでして。
大切なお付き合いを疎かにするつもりはないのですけれども、新しい絵のことで頭がいっぱいになると、もういけません。
何を言っても、上の空でございます」
「あら、それでは周りの方も大変ね」
本人が来ないことに、招待主の大貴族やその夫人は少なからず怒りを覚えることが多い。
普段は、周囲に平身低頭されるばかりの立場だ。
人気画家とはいえ、たかが平民が思い通りにならないとなれば、面白いはずが無い。
「いえ、私どもは画家の僕のようなものでございまして」
そう言うと、招待主である夫人は同情するかのような顔をした。
そこへ、もう一押し。
ミラベルは伴った商会の従業員から、包みを受け取って両手で捧げ持った。
「こちらは、せめてものお詫びの印でございます」
「あら、何かしら?」
夫人の傍らに控えた執事が受け取り、部屋の隅に置かれたワゴンの上で中身を確認した。
安全と判断され、ワゴンは夫人の傍らに押されていく。
「奥様、こちらを頂きました」
包みの中にあったのは、彫刻の施された木製の美しい箱。
留め金を外して少しずらせば蓋が取れ、そのまま額縁として使える造りだ。
箱状のままなら、本棚の隙間に立てて置けるように作られている。
執事が蓋を開け、招待客に向けると、騒めきが起きた。
「素晴らしい意匠ですわね」
「あれはどこで手に入るのかしら?」
またこれで商会に注文が入るだろう。
家具部門の意欲作だ。
ミラベルは心中でほくそ笑んだ。
「……まあ」
招待客たちに披露した後で、それを正面に見せられた夫人が目を見開いた。
収められていたのは手のひらほどの小さな絵画。
アンティーク調の少しくすんだ白い額縁の中で、一人の女神が物思っている。
青い海の中で煌めく魚が戯れ、その中心におわす女神の髪の色は赤。
まるでサンゴのように鮮やかでありながら、柔らかく揺蕩っていた。
ほうっと夫人が息をつく。
「……まあまあ、素敵な贈り物をありがとう。
オスカーさんにも、お礼を伝えてちょうだい」
赤い髪の夫人は、すっかり上機嫌で、執事に命じてお土産まで持たせてくれた。
丁寧にお礼と挨拶をして、その場を辞したミラベルは馬車に戻るとニンマリと笑う。
「大成功ね」
「さすがお嬢様でございます」
「ウフフ。彼の絵は美人画と言われるけれど、女性の顔はあまりハッキリとは描かれないわ。
だから、髪色一つで自分がモデルだと思ってうっとりできる」
「そうでなくても人気の絵ですからね。
小品といえど、価値が高いわけですし」
「そうね。モデルが誰であっても関係ないわ。
彼の絵は雰囲気というか空気というか。流れる風に心をくすぐられ、揺れる水に心を洗われる。そんな魅力だもの」
まだ十八歳のミラベルだが、肩書は商会の絵画部門の部長である。
と言っても、商会所属の絵描きは今のところオスカーただ一人。
ミラベルは十六歳で部長に就任した。幼いころから家の手伝いは何でもしたが、責任ある立場は初めてだ。
彼女に付き従っている男は、商会の花形である家具部門の番頭だったイーデン。
彼女の才能を見込んで、降格とも言える絵画部門への移動を自ら希望したのだ。
絵画部門を設立し、部長に娘を据えた会頭のラッセルだったが、当初は同時に少しずつ他の部門でも勉強させようと考えていたらしい。
しかし、将来の大番頭と期待していたイーデンがミラベルの教育係を希望したので、後は彼に任せられた。
イーデンの教育は厳しいけれど、楽しい。
ミラベルは様々な知識を若い頭で吸収していった。
彼女は大好きなオスカーの絵を、自分の手で世に広めたかった。
教わる全ての中に、そのヒントが隠れているはずだ。
馬車は郊外へと走り、商会が所有する倉庫の前で停まった。
「お帰りなさい、お嬢様」
「ただいま!」
「お嬢、首尾はどうだい?」
「もちろん上々よ」
倉庫の事務所に声をかけ、通りすがりの従業員と言葉を交わす。
それから三階まで階段を駆け上った。
「ただいま、オスカー!」
「ああ、ミラベルおかえりー」
部屋に飛び込んできた彼女を、驚きもせずに振り返って笑顔を浮かべたのは、件の画家オスカーだ。
三十歳になる彼だが、飄々とした人柄のせいか、それとも生まれついてのものか、もっとずっと若く見える。
ミラベルの父親、商会頭のラッセルなどは、気楽な奴は年を取らないとよく言う。
少し童顔の彼は、小首をかしげても違和感がない。
「どう、大きな絵の注文とれそう?」
筆の速い彼にとって、夫人のために描いた小品は朝飯前の仕事。
むしろ、イメージを形にしたことで、次の構想が固まった。
「たぶん、明日には注文が届くのではないかしら」
赤い髪の海の女神は、豊穣を表すように、ややふっくらとした体形で描かれた。
その表現を夫人はとても気に入ったように見えたのだ。
「そうか。その仕事が終わったら」
「なあに?」
「少し休暇を取って遊びに行かない?」
「遊びに?」
「君が働き過ぎだって、お父さんも心配していたよ」
オスカーは時々、ミラベルの父に誘われ、一緒に酒を飲んでいる。
もうすっかり、家族の一員扱いだ。
「だって、やれることは全部やらなきゃ」
ミラベルは可愛らしく頬を膨らませる。
仕事中はけして見せない表情だった。
ミラベルとオスカーが初めて出会ったのは四年前。
場所は、同じ王国内の西の端にある海辺だ。
当時十四歳のミラベルは、父の商談のついでの家族旅行に連れて行ってもらったのだ。
一行は両親と二歳下の弟エルマー。
商談の補佐ついでに従僕の仕事も引き受けてくれた、番頭になりたてのイーデンも一緒だった。
父の商談が終わった後で、家族皆で海岸に行った。
初めて歩いた砂浜の歩きにくさに戸惑いながら、弟と二人で波と戯れる。
その砂浜の少し小高い場所で、絵を描いていたのがオスカーだ。
近寄って覗き込むと、絵は一面の青。
「何を描いているの?」
ミラベルは素直に訊いた。
「海の中だよ」
「海の中はこんなふうなの?」
「いや、僕は潜水なんて出来ないから、丘の上で想像するのさ」
「想像?」
「君も想像してごらん。青い水の中にたくさんの魚がいて、海藻が揺れていて……」
「うん」
「もっと深い所から来るのは……」
「サメだ!」
弟が口を挟む。
「いいねえ、巨大なタコかもしれない」
「うわあ! 巨大タコ!」
まったく男の子の考えることは単純なんだから、とミラベルも思い付きを口にする。
「人魚姫は?」
「素敵だね、人魚姫や、海の女神様もいるかもしれないね」
「女神様! 素敵ね」
「クジラもいるよね、すごくデカい奴!」
頭の中が海獣大戦争になった弟に対し、ミラベルはおとぎ話の世界を心に浮かべた。
ワイワイと盛り上がっていると、両親たちが追い付いた。
「おや、うちの子たちは、画家の方と知り合いになったようだな」
「いえいえ、画家なんてとんでもない!」
「では、ご趣味ですかな?」
画家は困った顔をした。
「……実は、食い詰めておりまして。
益にならない絵ばかり描いていて実家から追い出され、祖父の暮らしていた小さな家をもらって住んでいたんですが、金が尽き。
仕方がないので、家を売りまして。
月末が立ち退き期限で」
「月末まで、もう何日もないではありませんか。
なんというか、なかなかの甲斐性無しぶりですな」
「返す言葉がありません」
わりと大変な状況なのに、オスカーはめげていないように見える。
そんな彼の様子をミラベルは気に入った。
「ねえ、お父様、そんなに困っているなら、うちの倉庫の隅で絵を描かせてあげたら?」
父ラッセルは、怪訝な顔で答える。
「倉庫の隅?
そりゃ場所はあるが、穀潰しを飼うつもりはないぞ」
父は、絵筆ぐらいしか持てなそうな、画家の細腕を見た。
この細さでは忙しい時の荷物運びすら頼めないだろう、と言わんばかり。
ネズミ避けにはなるかもしれないが、猫の方が餌代がかからない。
「じゃあ、わたしが面倒を見るわ」
うんと言わない父に、ミラベルが宣言した。
「お前が?」
「帳簿付けは、及第点をもらったもの。
帰ったら正式に働くから、お給料を頂戴。
もちろん、わたしはまだ子供だから、わたしの生活費はお父様が出してくださるでしょう?
だったら、お給料まるまる、彼に使えるもの。
なんとかなるわ」
十四歳の身で、すでに学園は飛び級で卒業。
それと並行して商売の基礎を修めたミラベルは、大商会を率いる父親相手にも怯まない。
「お前には、もっと高みを目指してもらう。
帳簿付けに留まられては困るよ。
……わかった、それでお前のやる気が出るなら安いものだ。
彼はうちで面倒を見よう」
「ありがとう、お父様!」
父は商売のことでは譲らないが、基本、ミラベルに甘い。
だがまあ、相手は名も無き海辺の絵描きだ。
何か描かせて画商に見せてみよう。
才能が無いと判断されれば、その時は事務に雇ってもいい。
……父の腹積もりはそんなふうだろうと、ミラベルは思った。
王都郊外の倉庫の一角にアトリエスペースをもらったオスカーは、すぐに仕事を始めた。
この辺を使っていい、と言われた場所には、木材と使いかけのペンキが置かれていたのだ。
それを片付け忘れたと、数時間後に従業員の一人が戻って来た時には、立派な一枚の絵が完成していた。
「え? これ、どうやって? 君が描いたの?」
「はい。板とペンキがあったので、つい」
「はあ、絵描きと言うのは本当なんだね。
こんな少ない色数で、見事なもんだ。
そうだ、明日、魚屋が注文品の木箱を取りに来るんだけど、その横に置いてみようか?」
「それまでには、そこそこ乾くといいんですけど」
「そうか、塗りたて注意だもんな」
看板の図柄は、ミラベルとエルマーに話していた海の中の世界だ。
海辺では最後に残った青い絵の具しか使えなかったが、ここには他にも数色の色があった。
小さな人魚姫や可愛い魚たち、そして海獣どもが舞い踊る。
翌日、木箱と共に置かれていたペンキの絵は売れなかった。
ところが、その代わりに魚の木箱の蓋に洒落た絵を描いてもらえないか、という注文があったのだ。
王都は少々海から距離があるため、魚屋の店先に並ぶのは干したり漬けたりの加工品だ。
注文品を届ける木箱に少しでも工夫があれば、お客が喜び、また注文が入るだろうという魚屋の目論見だった。
お安い御用と引き受けたオスカー。
魚屋の目論見は成功し、木箱の蓋の注文はそこそこの利益を生んだ。
「なんと、やってくれたな」
画材を揃える前に稼ぎ始めたオスカーに、会頭のラッセルは呆れた。
とんだ拾い物だったわけだ。
やがて、画材を揃えてもらうと、オスカーは見事な海の女神の絵を描き上げた。
魚屋はペンキの絵こそ買わなかったが、これは店に飾りたいからと即決して持ち帰った。
その絵は評判を呼び、魚屋は大繁盛。
あまりに人気が出た結果、一月後には絵が盗まれてしまった。
幸い、騎士団の捜査の結果、すぐに犯人が見つかって取り戻された。
犯人の言によれば『あまりに女神様が慈悲深く見え、毎日近くにいて癒されたかった』とのこと。
犯人の住処で絵は大切に、仰々しく飾られていたのだ。
それを知った魚屋は、なんと犯人を許し、自分の店で雇った。
『女神様に報いるよう、今後は正しく生きるんだ』
『親方! 必ずそうします!』
という美談が、新聞に載ったのである。
深い深い青い海は、王都で暮らす者の心を癒す。
そんな騒ぎもあって、オスカーの描く絵は注目を集め、どんどん人気が出て行った。
それでも驕ることの無かったオスカーは、商会内でも居場所を得た。
人懐こく、従業員たちともうまく交流する画家。
重い荷物持ちはさせられないが、手が空いていれば、どんな雑用でも気軽に手伝う。
ミラベルには何となく、父がオスカーのことを自分の婿候補として考え始めているように見えた。
それまでは無理強いしないまでも、釣り書きが来ているから興味があれば見たほうがいい、と何度か言われた。
ところが、オスカーが来て、ここに馴染んでからは一度も言われない。
それもこれも、ミラベルの態度のせいだろう。
なにせ、学び始めた絵画の知識に対する熱量が半端ない。
オスカーの絵を売るために努力を惜しまない娘の心には、きっと恋が芽生えたのだと思われている。
でも違うのだ。
ミラベルは確かにオスカーに惹かれているけれども。
だからこそ、きっと、彼とは結ばれない。
「え? 家族旅行?」
「ああ、久しぶりにな。
オスカーと会った、あの海辺に行ってみないか?」
『働き過ぎだから、休暇を取って遊びに行かないか?』とオスカーに誘われた日の夜。
父から旅行の話を聞いたミラベルは『ああ、やっぱり』と落胆した。
オスカーが二人きりの旅行に誘ってくれたわけじゃなかった。
「ほら、あのあたりに土地を買っただろう?」
四年前、父は海辺を領地とする伯爵が建てるリゾートホテルの、インテリア一式の相談に乗っていた。
領地には、その計画を聞きつけて来た地上げ屋がいて、オスカーは彼らに二束三文で土地を奪われたのだ。
結局、期待ほど地価は上がらなかった。
元を取るため、伯爵家に土地を買い戻せと乗り込んだ間抜けな地上げ屋どもは、あえなく捕まってしまったそうだ。
父はその話を知って、そこを含む一帯の土地を買えないか、伯爵に打診したのである。
「オスカーのお祖父さんの家は直したし、すぐ側に、うちの別荘を建てたんだ。
ここのところ忙しくて、ミラベルの誕生祝もまだだろう?
内輪だけの集まりになるが、別荘でパーティーをするのもいいのではないか?」
「嬉しいわ。ありがとう、お父様」
そこまで言われたら、成人したミラベルは笑顔で頷くしかない。
半月後、ミラベルの家族にオスカーとイーデンを加えた一行は予定通り海辺の別荘にやって来た。
料理人やメイドは先に別荘に着いていて、皆を迎える。
初日、ミラベルは父と共に、領主である伯爵様に挨拶に行った。
帰ってからは早めの夕食になり、その日の予定はそれで終わりだ。
夕食後、彼女がきょろきょろしていると、イーデンに声をかけられた。
「オスカーさんなら、海辺を散歩してくると言って出ていかれましたよ」
「ありがとう」
外に出てみれば、陽が沈んだばかりで、まだ薄明るい。
海は凪いで、水平線まで歩いて行けそうな気がする。
空も海も砂浜も淡く白く、どこか切ない。
オスカーは、あの小高い丘に立っていた。
きっと、この場所を懐かしんでいるのだろう。
彼はもう王都には戻らず、ここで描くのがいいのではないだろうか。
別荘には留守番を置くそうだし、時々様子を見てもらえれば安心だ。
「安心……かな?」
ミラベルは仕事があるから王都に戻るしかない。
「離れ離れ?」
この海辺で出会ってからずっと近くにいたのに。
「わたし、平気かな?」
声をかけずに別荘に戻ると、ミラベルはベッドにもぐりこんだ。
明日は誕生パーティーだというのに、なかなか寝付けない。
翌日は昼からパーティーだ。
ミラベルの腫れぼったい顔に母が驚き、冷やしたりマッサージしたりで大騒ぎになった。
当日まで見せてもらえなかったパーティー用のドレスは、まるで可愛いお姫様。
仕事中はカチッとしたスーツを纏うミラベルは、落差に馴染めない。
「お母様、成人でこのドレスはちょっと……」
「いいのいいの。今日は特別なんだから。
あなたの好みではないかもしれないけれど、こういう可愛らしいのも似合うわよ」
好みじゃないこともない。
ただ、王子様の迎えを待たない自分には、似合わないと思うだけだ。
広いリビングには、山盛りのプレゼントと、たっぷりのご馳走。
弟のエルマーは、早く食べたいとソワソワしている。
「お誕生日、おめでとう!」
「ありがとう」
少しアルコールの入った飲み物で乾杯して、それから一つずつ包みを開けていく。
ここにいない祖父母からは、大人っぽいパールのパリュール。
両親からは「最後のお楽しみ」と謎の言葉。
弟からは気の利いた書類ケース。きっと誰かに入れ知恵されたのだろう。
「それは、僕からのプレゼント」
オスカーがそう言ったのは、両手に乗るくらいの軽い包みだ。
中身は、ほぼ正方形の木箱。
きっと家具部に特注したのだろう。
あの、額縁になる箱のように、全面に彫刻が施されている。
蓋を開ければ流れ出すオルゴール。曲は『海の底のセレナーデ』
オスカーの絵に着想を得た音楽家が作曲した、美しいメロディーだ。
蓋の裏に描かれているのは、小さな小さな人魚姫。
お供には小魚のようなサメにクジラ、そしてタコ。
「わあ、可愛い! ありがとう、オスカー」
出会った時の思い出を、彼は大事にしてくれていたのだ。
「ねえ、ミラベル。
君はこれから、どういうふうに生きていきたい?」
こんな時に突然そんな質問? でも、そうだ、今日は成人のお祝いなのだ。
「そうねえ……」
手に職がある。しかも、順調。
父も婚約者探しを仄めかすこともないし、このままで……
「あなたの描く絵の素晴らしさを、もっと広めて、たくさん売りたい、かな?」
「じゃ、じゃあさ」
珍しくオスカーが言いにくそうにしている。
「僕の、お嫁さんになってくれない?」
「……わたし、結婚するつもりはないの」
ん? と、皆が首を傾げる。
確かに二人は仲が良く、思い合っているように見えていただろう。
「僕のこと、嫌い?」
「好きよ! でも、結婚しないって決めてるの」
「どうして?」
「だって、オスカーが前に言ったのよ。
『僕の最愛は美の女神。僕は彼女の僕なんです』って。
だったら、どうしたって、わたしは二番目以降だもの。
そんなの、悲しいから嫌!」
前に父と飲んでいたオスカーが、そう言ったのを聞いたのだ。
通りすがりの廊下で盗み聞き……いや、立ち聞きだったけど。
父はお酒のノリで、そろそろ結婚を考えないのかと訊いたようだった。
怪しい成り行きに、その場にいた家族たちの眉間に皺が寄る。
だが、オスカーはいたって真剣に言葉を続けた。
「ミラベル……僕の美の女神は、君だよ。
初めて会った時に、僕は絵を描くべきだと、当たり前のように後押ししてくれた。
わかるかい? あの時、どんなに僕が救われたか。
その時から、僕には君だけだ」
「オスカー……」
「僕の描くのは全て君だよ。
僕の世界は君が全てだ。
僕のミューズ、愛しているよ。
いつだって自分の目を信じて、迷いなく進んでいく君が眩しかった。
ずっと見ていたら、もっと輝き出して、目が逸らせなくなって。
僕の描く女神に外見のモデルはいないけれど、内に秘めた魂のモデルは君なんだ」
真っ赤になったミラベルに、オスカーは愛を乞う。
「僕のお嫁さんになってくれる?」
「……なります」
やっと返した小さな返事ごと、ミラベルはオスカーの胸に抱き留められた。
「よしよし、目出度くまとまったな!
というわけで、私たちからのプレゼントは、この別荘とオスカーのお祖父さんの家だ。
別荘は快適に生活できるし、お祖父さんの家はアトリエにぴったりだろう」
機嫌のいい父の傍らで、母も微笑んでいる。
「オスカーにはまだまだ絵を描いてもらうが、こっちのほうが環境はいいだろうからな」
「わたしが王都に戻ったら、離れ離れね」
ミラベルが不安そうに言えば、イーデンが請け負う。
「お嬢様、王都での仕事は私に命じて下さればいいのです。
お嬢様の一番の目的は、オスカーさんの絵を世間に広め、売ることでしょう?
貴女がいなければ、彼の中から絵は生まれない。
まずは、ここで落ち着いて、彼の側にいるべきです。
それが、彼のミューズとしての務めですよ」
「まあ、イーデン、わたしの仕事を取り上げるつもり?」
「何をおっしゃいますやら。
これまでも、絵のためにいろいろ工夫なさった貴女なら、どこにいたって、何か思いつかれますでしょうに」
「そうだよ。僕の女神はすごいんだから」
「もう、オスカーったら」
「ねえ、いつになったらご馳走にありつけるのかな?」
我慢に我慢を重ねたエルマーもさすがに限界だった。
「エルマー、ごめんなさい。
ここに居るみんなは、大切な家族ね。
こうして祝ってもらえることが幸せです。どうもありがとう。
さあ、ご馳走をいただきましょう」
再びグラスが掲げられ、いくつもの澄んだ音を鳴らす。
「ねえ、オスカー、どうしてわたしのことを、その……最愛の美の女神、だなんて言ったの?」
海に面したテラスで、ミラベルはオスカーと二人きり。
すでに日は暮れて、すっかり星空だ。
「それは……誤魔化していたと言うか。
君とは年の差があるし、少女に手を出すような大人の男だと思われたくなくて、言葉を替えてたと言うか」
「あなたって、なかなか策士なのね」
「いや、そんな余裕なんか全然なくてだね」
「余裕?」
「君はいつだってキラキラして、元気がよくて、僕を置いてどこかへ行ってしまうんじゃないかと不安にまでなって」
「よかった、まとわりついて迷惑だって思われてなくて」
「迷惑なんて、思うわけない! ただ……」
「ただ?」
「君が近くに来ると、あんまり可愛いから、ついつい抱きしめそうになって、その度、我慢するために唱えてた。
女神女神、ミラベルは女神! 触れてはならん、絶対だ!って」
オスカーは必死だったのだろうけど、その姿を思い浮かべると、ミラベルは吹き出してしまう。
「ふふっ……ごめんなさい、想像したらおかしくて。
でも、我慢してくれて、ありがとう」
オスカーにもたれると、そっと肩を抱かれた。
「でも、もうちょっと我慢を続けるね」
「そうね、二人で頑張りましょう」
ミラベルだって、もう大人なのだ。
だから、節度のあるお付き合いをしていかないと。
……別荘には今、両親も居るのだし。
夜の海は深い深い青。
その青は星を抱いて、二人を祝福しているように見えた。