第9条「この法律で定める労働条件の基準は最低のもの」
実務者連携会議とは、この国の政策を立案する会議、というのを何となく聞いたことがある。
「そんな重要な会議で私が何をしゃべるんですか。」
「警邏長の話を聞いた各担当が、話を聞いたうえで貴様が行っている仕事が我が国に必要な制度か否かを判断するそうだ。つまり貴様の今後の処遇はその会議での発言内容にすべてかかっていると思え。
ほかに質問は。」
いきなりすぎて質問も何も現在地点を理解するのでいっぱいいっぱいだったところにカリカの発言があった。
「アレクシス、今日明日のえぐちの監禁は解除していいの?」
「所在が分かっていれば構わん。」
待ってくださいカリカさん。
あなた、いま私を監禁していたと言いましたよね。監禁されてた自覚ないんですけど。
実は廊下の先には魔法で防護壁をかけていて、実質外に出られないようにしてた、とかですか。
エウスタキウスさんは行かないようにとか言ってましたけど、行けなかっただけですか。
連携会議で話をさせられるという衝撃的な指示から意識をそらすために、カリカが施したであろう私の監禁方法を考えていた。
「はい。そのようにします。」
「うむ。では、えぐちよ、2日後の同じ時刻に迎えに来るのでそれまでに全部準備しておくように。」
「あ、はい。え~っと。はい。」
ほかに質問は、と言ったのにカリカからの質問だけで終わってしまったな、どうせなら監禁方法を聞きたかったな、とか思いながら、アレクシスとカリカが出ていくのを見送った。
アレクシスの説明は端的すぎたので、具体的に実務者連携会議で何をすればいいのか、今からの準備もわからないままだった。
説明というと講演すればいいのか。それとも囲まれて質問攻めになるのか。
ぐるぐる考えが巡り、私はその場でぼーっと立ったままになるしかなかった。
2人が出るのと入れ替わりにエウスタキウスさんが入ってきた。
「改めまして、私奴はエウスタキウスで御座います。
えぐち様におかれましてはただいまよりお客人で御座いますので、この屋敷の中でご不便ありましたらお申し付けなすってください。」
「あ、ありがとうございます。」
丁寧さは変わらないまま改めて挨拶されたので、どう返していいか困るところだ。しかし、今すぐ不便を感じていることもなく、やることもないので部屋に戻ることにした。
実務者連携会議で説明、か。拘束されたうえでの尋問ではなく。ということは、労働基準監督官という仕事に興味を持っていて、今のトロニス=ヘラクレイオンに必要と思われたのだろう。
ならば、私は労働基準行政というものをこの国に根付かせることを目標としてもいいのではないか。帰る方法がわからないのならば、ここでできることをしたい。
警邏長が言っていたが、子供の労働や労働災害が多いのも問題と言っていた。
労働基準法をつくったほうがいいのではないか。
私にそれができるかはわからない。
しかし、機会をもらった以上は何かしら行動しないといけないと思う。私はそういうことをしていきたいと、若手時代に思っていたことを思い出した。
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「江口君、本は読むの?」
「小説やエッセイはあまりですが、評論なら。」
江口将臣は、今年採用され、櫨原署第2方面に配属された1年目監督官で、来月の6月からの中央研修前で右も左もわからない状態でできることをしていた。
話しかけたのは署長の工藤晃久。
厚生労働省で働いたこともある監督官で、安全衛生を専門とするだけでなく、様々なことに精通している有名監督官だ。
今年で定年退職で最後の新任監督官が江口であった。
その工藤署長が署長室を出てわざわざ江口の席まで声をかけに来たのだ。
「本は読んだほうがいいよ。監督官の仕事とか初めてでしょ。おすすめの小説がね、このディーセントワークガーディアンってのとカードウォッチャー。
監督官の仕事が色々載ってるよ。
さらに監督官は、司法警察員として仕事をするんだけど、伊藤検事の秋霜烈日は、捜査をするうえで大事なことがいっぱい書いてあるから、おすすめ。
そしてこの労働基準法が世に出るまでって本は、労働基準法ができるまでの状況とか、労働基準法と労働基準監督署の立ち位置とか色々載ってて面白いよ。
署においてるから読んでみてよ。」
「ありがとうございます!」
「ついでにさ、この安全衛生旗もあげるけど、これなんで安全衛生旗って言うか知ってる?」
「いやぁ知らないですね。何でですか。」
「それは自分で調べないと。」
江口は工藤署長の姿勢に感銘を受けて、多くのことを取り込もうとした。小説はあまり読まなかったが、すすめられた本を読み多くの知識を身に着けようとした。
江口は大学では労働法を専攻していたが、その知識では明らかに不足していた。
労働基準監督官としての知識はそれほどに広く深いものであることを目の当たりにさせられていたのだ。
その中で、江口に強烈な印象を与えたのが労働基準法の成り立ちだ。
労働基準法は、資本主義社会において契約自由の原則を修正し憲法に定められた文化的な生活を営む権利を保障するべく、人たるに値する生活を営むための最低限度の基準を定めたものである、つまり労働条件に関する最低基準を定めた法律に過ぎないことを知った。
そして、この法を公正中立な立場から労使に守らせるのが監督官という存在であるということである。
さらには監督官の本来の使命が行政的監督による違反の発見とその是正にあることから、監督をうける事業場に自由かつ予告なく立ち入ることができるとしており、行政的監督の実効性を担保するために司法警察員としての権限を与えている。
そして、戦後の日本において、国家再建の重要な役割を担当する労働者に対して国際的に是認されている基本的な労働条件を保障し、労働者の心からなる協力を期待することが、日本の産業復興と国際社会への復帰を促進するものとして、労働基準法が位置付けられていた。
江口は、積極的に望んで労働基準監督官になったのではない。
大学卒業に際して公務員試験一覧を見るまで存在すら知らなかった。
民間や市役所、県庁を受けていてどの仕事がいいか悩んで周りが監督官がいいと言ったから、という理由でしかなかった。
しかし、それでも採用されて1か月あまりで、彼はこの仕事が楽しくてしょうがなかった。
中高の頃は数学が大好きで数研を受けたこともある。途中で文転したが、共通1次の成績は、数学が一番良かったし、理系科目は化学を選択した。大学では、民法を専攻し、労働法、行政法、刑法や刑事訴訟法を学んできた。
仕事について知っていく中で、その知識をフル活用してもまだ知識が足りないと感じていた。
労働基準監督官は行政官であると同時に、司法警察員であることから、労働法、行政法、刑法、刑事訴訟法の全ての知識を使う必要があった。また、化学物質の規制では濃度計算や溶剤の質量計算、建設現場への規制では強度計算を確認する場合がある。
しかし、自分が勉強してきたことが無駄ではなかったことが楽しかった。高校で、大学で学んだ知識が使えている。
知識以外の現場の仕事についても労働者がいる場所に行って、色々な仕事の内容を知ることができることで知識が増えていることが楽しかった。業務量が多く、大変なことも多いが、業種の種類が多い櫨原署に配置されたことを、喜んでいた。
労働基準法を国民に広く正しく認識してもらい、安全に健康に仕事をする環境を整備することが、日本の産業復興に必要であるという労働基準法の出自に感銘を受け、法を施行する者としてできる限りのことをしたいと考えるようになった。
それは、工藤署長の影響も大きいだろう。江口にたいして、様々な監督官としての心得を伝え、そして実践させるように教育してきたのだから。
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実務者連携会議に出席する日の朝、いつもは日が昇りきってから起きるのだが、今日は日が昇るころに起きた。
緊張しているのかしらんが、何を話すべきなのか、講習会のように説明するのか、色々考えている。一方で、「どうせ出たところ勝負だ、考えても意味がない、寝よう」とも同時に思っていたが、当然眠れてはいなかった。
そこに、部屋の扉を3回たたく音が聞こえた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。緊張、してますか。」
寝巻姿のカリカが様子を見に来てくれた。いつもだと私が起きていない時間なので、もしかしたら私が起きているのを気づいたのかもしれない。
この数日間で仲良くなったと勝手に思っているが、彼女はどう思っているのだろうか。
「緊張ですね。大勢の前に出て話すというのはどうも苦手で。」
「そんな深く考えなくて大丈夫じゃないですか。キリアキ警邏長は身内と思った人はちゃんと守ってくれる人なので。」
「身内、と思ってるんですかねぇ。」
「思ってますよ。あの人の口添えが何かないと連携会議で発言なんて絶対にないですもん。
警邏長はまず人を疑うことから始めるんです。そのあと、信用してくれるんですけど、疑ったままのように相手に思わせちゃうんですよね。
なんででしょう。」
「不器用だったりして。私の国では、年とった男性はみな感情表現が不器用になる印象ですね。なぜかはわからないけど。」
「不器用……人心掌握術はすごいと思うから不器用という印象はないかなぁ。だから、疑ったままのように意図的に思わせてると思います。」
「それはそれは器用で恐ろしい人だ。私が見た印象は人間だなと思ったんですが、人間で間違いない?」
「人間ですよ。確か混じってもなかったはず。」
「それであの大きさか。それなりの年齢ですよね。」
「確かこの間、58歳になったんじゃなかったかな。」
「それであの筋肉量ですか。さらに人心掌握術がすごいと。怖いですね。歯向かえないや。」
「はははは。歯向かうつもりだったんですか。」
「必要に応じて。」
「歯向かうときは言ってくださいね。遠くで見てますから。」
「いやですよ。一緒に行きましょうよ。」
「いやです。はははは。そろそろエウスが迎えに来ると思いますので、私は部屋に戻って準備してきますね。」
「今日は一緒に来てくれるんですか?それとも、遠くで見てるだけで?」
「遠くで見てますよ。傍聴席があるのでそちらから。」
「それは寂しい。間違った。心強い。」
「はははは。安心してください。応援してますから。頑張ってくださいね。」
「ありがとうございました。」
カリカはあんな笑い方をするんだな。彼女との会話が終わって、緊張がほぐれてくれればよかったが、意識がそれただけで一人になるとまたすぐ緊張が戻ってきた。
どんな場所でどんな形式でどんなことを話させられるのか。
見通しが一切つかない不安が、大勢の前でしゃべることになるかもしれないという不安が、緊張となり、唾を飲み込むのを阻害してきた。緊張すると唾をうまく呑み込めずどうしても大きい音が出てしまう。
大勢の前でなったことは何回かあったが、一人きりでなるのは初めてだ。
それほど迄に自分の気持ちが不安定になっているのだと自覚させられてしまう。
大丈夫だと自分に何回も言い聞かせながら作業着を着こみ準備を終わらせたところで、エウスタキウスさんが部屋を訪ねてきた。
「どうもお目覚めのところをお騒がせ致しまして恐縮に堪えませぬ。アレクシス様がお見えです。どうぞこちらへ。」
後ろに続いて部屋を出て階段を下りていくと、アレクシスがこの間のにっかぽっかみたいな服装で乗り物の横に立っていた。
四つ足の動物が2頭立てで4輪の車両を引いている。
聞いたところ、「ヨルギオス」という名前の動物で、速度は出ないが力は強いそうだ。御者2人と後ろに立つ2人はどちらも警邏隊と同じ服装をしている。
「歩きではないのですね。」
「うむ。中央議場庁舎に正面から入るのであれば、歩きはあり得ぬ。しかも今回は参考人であるから、護衛と警備を兼ねてわれらが同行する。」
「中央議場庁舎?」
「キリアキ警邏長に会った建物だ。会ったときは我々と同じ通用口から入ったが、今回は連携会議に出席するので、入り口が異なるのだ。」
「そうなんですね。」
カリカの見送りのない出発をしたのち、車内での会話はこの程度であまりはずまなかった。
そういえば、仲のいい部下に「主任って雑談下手ですよね」と言われたことがあった。
しかし、ここで会話が弾まなかった理由は、私の雑談の能力の問題ではなく、緊張感とアレクシスの性格によるところだと思いたいところである。
移動の間、私は外の景色だけをずっと見て、色々考えたりせず、ひたすらに流れる景色に思いを乗せていた。




