第5条「ヒヤリハット」
ヴラドは作業にもどり、かなりの板厚のある正方形の鉄を隣にある機械に持って行った。おそらくこれが盾になるのだろう。
そして、ヴラドが近づいただけで金型が上昇し、自由落下よりも少し早い速度で鉄板に落ちてきて、すさまじい音を立てた。再度金型が上昇すると円形になった鉄が取り出され、金型が今度はゆっくり降りた。
取り出された円形のものを炉の中に置いた。そして隣の2人がふいごで加熱し、赤くなったものを取り出して水に入れた。
打ち出しに使ったことから間違いない。
この機械、プレスだ。
見た目は油圧プレスだ。
安全装置もない。
操作スイッチもない。
どうやってスライドを上下させているのか一切わからないが、これは危ない。指が落ちるぞ。
ただ、たぶんこの世界には電気がないはずなので、動力プレスかどうかはわからない。
さらに、焼き入れと焼き戻しに粉じん則の規制とかあったか頭の中をめぐらし、なかったはずと自分に言い聞かす。
鋳造や鍛造はあったが、単なる焼き入れ焼き戻しにはない。焼き入れ・焼き戻しは今日日刃物を作る時ぐらいしかしないから私が現場で見るのは初めてだし、何より盾を作っている工場なんて見たことない。
……まて、そもそもこの金属を鉄と処断していたが、これ鉄なのか。鉄ではなく鉱物そのままであったときには、規制が及びうるが、さすがに金属成分分析機があるとは思えないし、あったところで私は使えないので意味がない。
なので、鉄と同じ規制で考えていくしかない。
で、その鉄をふいごを使って過熱していくので非常に暑い。温度計はないだろうから具体的な温度はわからないが、おそらく残業時間の規制が入る摂氏60度を超えているのではなかろうか。
さらにこの音。「動力により駆動されるハンマーを用いる金属の鍛造又は成型の業務を行なう屋内作業場」に該当して、作業環境測定が必要になるのか?
いや、ハンマーではなくてプレスだし、何より騒音計なんてあるはずもない。
だからプレスがある工場は大変なんだ。その分学びも多くて好きだ。
それにこのドワーフの聴覚が人間と同じもので、騒音障害の発生原因も同じであるとはわからない。
これまで意識したことはないが、衛生面というのは、医学的根拠に基づいているのだということを改めて思い知らされた。ばく露の客体が異なれば、衛生基準はどうやって定めて行けばいいのだろうか。
そのうえで、ヴラドは、2人に焼き戻しを引き続き行うように指示し、自身は別の盾に取り掛かった。
「すみません、そこのプレス…盾を丸形に成型した機械なんですが、この機械はどうやって重たいものを上下させているのですか?」
割と大きな声で、熱された鉄のそばに行ってヴラドに話しかけた。
「どうやっても何も、魔法に決まってるじゃねぇすか。」
気づくべきだった。電気や発動機等の動力がないなら魔法だろう。
そして、労働安全衛生規則の考え方から導き出した答えは、魔法というものを動力と同義だ。
というか、というかそう判断するしかないだろうこんなもの。危険性から考えると理屈は同じだ。
ということは、これは動力プレスだな。
私がいた嶋本労働基準監督署に居た堀内安全衛生課長に話聞いたら、「自動で動いているなら、それは動力プレスだと思いますよ。」って言ってくれそうだ。
そうなると、これは2項プレス。
そしてこれは安全装置の不備があることになってあまりに危ないと使用停止命令を交付しないといけなくなる。
あるいは囲いをつけるのも難しいなら、危険限界に動作中に手が入らないようにするしかないな。どうやればいいのか。
「なるほど魔法ですか。具体的にどのように動いているか教えてもらっていいですか。」
「なんですか。」
「すみません、私この機械についてあまり知らないもので――」
「そうじゃなくてなんで説明しなきゃいけないんすか。」
普段当然に聞いている質問、労働基準監督官の権限として当然に聞けると思っていた根拠を求められた。さっき軽く説明したがそれでは足りなかったようだ。
監督官は、労働基準法や労働安全衛生法などを事業主に遵守させるのが仕事。労働安全衛生法は労働者の命と健康を守るためにある。ということを説明しても仕方がないし、なによりその法律がここには存在しないだろう。
ただ今この瞬間に大切なのは目の前のプレスの安全装置がないことだ。命と健康の話をまずしていかなければならない。
「私は労働基準監督官といいまして、仕事をしている人たちの命と健康を守るために安全に作業してもらおうと、色々な会社を回っています。
工会の代表であるあなたは、ここで働いている職人の安全を守る責務があります。でも普段働いている人は、そこが危ないのか安全なのかわからないことが往々にしてあります。
したがって、私が第三者の立場で見つけていく必要があると考えています。
そのために使っている機械の様子を教えてもらうことが大切になるのです。」
これで理解してもらえるだろうかと思いつつ精一杯の説明を投げかけた。するとヴラドではなくアレクシスが動いた。
「ヴラドよ、改めて言うがこの者の言うことに従うように。」
「わかりやした。これは盾の成形機でしてね、この台は上の構造と一体となっとるんすよ。その中に移動することができる重たい鉄製の金型があって、俺の魔法で上下させてるっす。
ここに刺してある停止用の棒を抜けば、溝があるんで場所を過たず自動的に落ちてくるっす。落ちるときは多少魔法で加速をつけてさらに落ち切ってからも加重してるっすね。」
「なるほど。魔法はどこかで習いましたか?独学ですか?」
「先代の代表から習ったす。」
「魔法について私知らないんで教えて欲しいんですけど、呪文唱えたり、杖もったりしなくていいんですか?」
「唱える……動かしたいものの形を理解したうえで、頭ん中で『キニシ』って念じたら動いてくれるっす。杖とか呪文を唱える魔法なんてないっすよ。」
「それだけではありません。魔法というのは――」
「よせカリカ。正体が分らぬ者に魔法のことを軽々に教えるでない。」
「わかりました。すみません。」
いきなり横から口を出してきたカリカの話をさらにアレクシスに遮られた。魔法について一般的には知られていない規制があるようだ。
ただ魔法の使い方は分かった。
それにより導き出される結論は、両手が自由に動かせる状態でプレスを動かしている。
「そうなんですね。この成形機ですが、手が挟まれでもしたら危ないですね。囲い等をつけてもらうことになると思います。そうでなかったら」
「囲いってなんすか。」
「えっと、なんか木でも金属でもいいので、上についてる金型と下についてる金型の間に手が入らないようにしてください。」
「そんなことしたら作業できないすよ。どうやって盾持てばいいんすか。」
「基本的に盾はどうやって持ってこの成形機に入れます?もう一度やってみてもらっていいですか?」
それを受けてヴラドが別の盾を持ってきて再度成形機を動かして見せた。
盾は直径60cmほどの円形で、板厚は2cmほど。両手で対角線上にもち、成形機に向かって右から左へ、金型の間に手を通しながら設置しようとした。
「今!金型の間に手を入れましたよね?ここで金型が下りてきたら手が挟まれてしまうじゃないですか。危ないので金型の間に手を入れてほしくないのです。」
「俺の魔法技術に難癖つけるんすか?そんな間違いしないすよ。」
「今まで、ヒヤリとしたりハットしたりしたことはないですか?」
「そりゃ急いでるとか、大きさによっては手ギリギリにおろしたこともありましたけど、怪我したことはないすね。それに怪我するっても指が落ちるくらいだし、別に問題ないじゃないすか。」
「300回、危なかったことがあれば、うち30回は怪我をして、うち1回は重大な怪我や死ぬ危険があるといわれています。
その1回の死ぬ危険が、いつくるかわからないので、ヒヤリとしたりハットしたことはもう二度と内容に対策する必要があります。
ですから、もう手ギリギリにおろすことがないようにしないといけなくて、そのためには囲いをつけるしかないのです。」
「そんなことしてたら作業効率はさがるっす。無理っす。」
効率第一か。労働者が3人のこの事業場において、安全衛生管理体制の理想を押し付けるのは難しい話なのは分かっている。それに、ここで安全第一、品質第二、効率第三として、本当にアメリカのように、結果的に効率が上がるというのを説得できるかわからない。
しかし、動力プレスを使用している以上、工場制手工業は脱しているのであり、安全の理念をひっこめる理由にはならない。「指がおちる『くらい』」と言っていることから治療魔法があるのかもしれないが、だからと言って災害が発生すれば3人しかいない現場から一時的にしろ労働者がいなくなり、効率は下がるのは当然のことだ。
だから、大なり小なりこの話をしないわけにはいかない。
「作業効率が下がるといいますが、怪我したほうが作業効率が下がります。怪我したら、その間、作業する人が減るでしょう?それこそ効率が悪いです。
『安全はすべてに優先する』という考えがあります。
日々の仕事をする間に、自身の体を守り、同僚の体を守り、誰も負傷しないようにすることが大事です。そして、安全に行動するということを習慣づけしないといけません。
したがって、作業場では、安全第一、品質第二、効率第三という考えのもと作業をしてほしいのです。それが結果的には効率が上がることにつながります。」
「いいたいことはわかるっすよ。こっから病院も近くないし、行くにも大変するっす。それに、俺が仕事してて失敗するなんてことはないから大丈夫すよ。」
「失敗は必ずあります。」
「は?何言ってんすか。」
「我々、労働基準監督官として安全第一で考える人間からすれば、固定されてないものは落ちますし、高いものは倒れます。そして、人は失敗をします。そう思って対策をしないと適切な対策はできません。」
「だから!俺の能力を疑うんすか!」
「現に手の近くに金型が落ちたことがあるじゃないですか。ヴラドさんが下手とかではないんです。
この世に失敗しない人間なんていないんですよ。特に工場の作業では。だから、手が絶対に金型の間に入らないようにしてほしいんです。」
建設現場でヘルメットと安全帯をつけさせた先達の努力はそれはそれはすごいものだったのだろうなと思う。それを今私が経験できたことは、いいことなのかもしれない。
とはいえ、こんな問答がしばらく続いている。終わりが見えない気がしてきた。