第4条「整理・整頓・清掃、定位置・定品・定量」
「貴様は、すべての業種について詳しいはず。」
的をいた意見である。すべての労働者が働いている現場に行って、労務管理や安全管理を確認しないといけないとなれば、すべての業種・職種について一定の理解がないと適切な指導はできないことになる。
私はそう考えて仕事をしてきた。それを一瞬で、長い時間沈黙はあったが、初めて見聞きした職業であろう監督官のあるべき姿を見抜くアレクシスが空恐ろしくなった。
「働いている人がいるすべてのところに行かないといけないと、貴様は言った。それが本当ならば、どのような業種があろうとも、説明ができるはずだ。
それができれば、貴様の言っていることを信用してやろう。」
「アレクシス……!!何を考えてるんですか。ありえないですよ。だって、突然こんなこと言って信じられると思いますか。無理ですよね。無理ですよ。」
「落ち着けカリカ。君のまじめなところは美徳だが、そうやって決めつけ、思い込むことはよくない傾向だ。
早速だが、これから指定する場所についてきてもらおう。必要な道具があれば持たせてやる。」
どこに行くかで準備する道具も変わってくるのに、無茶なことだと思ったが、ここで抵抗したところで、どうしようもない。できることの最大限をするしかない。
果たして、これから日本に帰る方法があるのか。今の時点では何もわからない。
それだけでなく、時間軸はどうなっているのだろうか。この国、トロニス=ヘラクレイオン、の1時間は日本の1時間と同じ流れ方をするのか、1日は。
だとしたら残してきた妻、署の上司、同僚、部下たちがどのような顔をして待っているのか。
想像するだけで胸の奥のほうが重たい気持ちになる。しかし、生き残らないことには、帰ることもあり得ない。
墜落してこっちに来たことを考えると、能動的に帰る方法として真っ先に思いつくのは、また墜落するしかないが、リスクがあまりに高すぎる。
したがって、今は生きられるだけ生きて、いつか帰る日を待つしかないのだ。
などと逡巡しながら、とりあえずすべての荷物を入れたままにしてある監督鞄を手にして、ついていくこととした。これがすべてあれば、ひとかどの監督には耐えられるはずだ。
30分ほど歩くと、いや、実際は最も短いかもしれない。しかし、無言でフルハーネス着用して、ブーツタイプの安全靴を履いて、10分以上歩けばそれはもう無限に感じるのだ。
で、歩いた先にあったのは鍛冶屋であった。ある程度得意分野だが、私の知っている鍛冶屋と同じなのだろうか。
特に動力機械はどうなっているのだろう。見えないところが多すぎる。私のつたない経験では対応できないことが多そうだ。
「ここをどう思う。」
「ちょっと見てみないとわからないですね。」
ここで、できないと言ってしまえば、すべての信用が失われてしまう。そう思い、フルハーネスを外して、専用のナップサックに入れ、おもむろに鍛冶屋の中に入っていった。
「お忙しいところすみません、労働基準監督署です。」
と言って、工場の中に入っていこうとした瞬間、アレクシスが私を止めた。
「ふざけるな。工会の中は職人の領分、そこに勝手に入って行っていいはずがあるまい。そのような感覚、貴様は持ち合わせていないのか。」
「確かに、ここは職人の、いわば聖域です。
しかし、この人が労働者である以上、その作業内容を間近で見て、危ないことをしていないか、そして、使用者に対して聞き取りを行って、労務管理をちゃんとしているか、ということを問いたださねばなりません。
そのために、監督官は、労働者が居ればどこにでも、いつでも入っていくことができるのです。」
「そんな許可をもらわないなんて、常識はずれが過ぎるではないか!」
「そのとおり、非常に非常識です。しかし、全ての非常識は、労働者の命を守るという大義名分においては、些末なことになり下がります。
さすがにそれは言いすぎるきらいがありますが、それぐらいの気持ちをもって制度を作らないと、実際には守るべき命も守れません。
と、言うことで入らせていただきますね。さらに、事前に許可をもらっていては、危ないことや隠したいこと、こういったことを隠して迎えられる可能性があります。
そうなると、労働者のおかれている状況を適切に把握できなくなるばかりではなく、働いている人から監督官に対して求められていた期待を損なってしまい、存在意義がなくなります。
特に安全については、いきなり行って確認する必要性が高いと思います。」
少なくとも私はこのように習ってきたし、これからもこのことを信じて仕事をしていく。
「まあいいじゃないですか。見ときましょうよ」
予想外のほうから救援をもらった。カリカだ
「それだけのことを言ったのですから、きっとそれにあった働きをしてもらえるはずじゃないですか。そうでなかったら、これまでのことがすべて虚言ということになります。わかりますか。」
救援と見せかけて最後通牒を受け取った気がしたが、それでもやらないことには始まらないので、再度挨拶をして中に入った。
そこにいたのは、背の低い人間、いや、人がたの何者かだ。私の知識に照らし合わせるならば、ドワーフというのが一番近いかもしれないので、ここで仮にドワーフと呼ぶことにする。室内では、そのドワーフが鉄製品をたたく音が響いている。
建物は、平屋、木の柱にレンガ壁になっており、屋根はこけら葺き、扉のない入口が大きく通り側に開いていた。1面開放3面が壁といった構造で、入って右と左の壁にはガラスのない窓が1つずつある。ガラスの製造技術がやはりないのかもしれない。
私が入らせてもらった部屋は、それなりに広く、全面が土間になっている。私の家の7畳のリビングよりと6畳の和室を足した広さの倍以上ありそうだから、30畳は超えているであろう。
どこで休憩をするのだろうかと周りを見渡すと、奥の壁に扉がついていた。きっとそこから別の部屋に行けるのであろう。
その扉の横には様々な大きさの金槌がかけてある。左側の壁の前には、円形の鉄板がおかれている。右側の壁の前には、丸や台形などの……盾か。盾と思しきものがつるされている。
おそらく、出来上がった製品で、作り方は打ち出し成型、光沢もある程度あるから、磨き作業もあるのだろうか。しかし、道具も製品も材料もいろいろなところに散在していて、3Sや3定が守られているとは言い難い。
正面から入って右側奥に炉がある。これは、製鉄用ではなく、おそらく強度を出すための焼き戻し用。その隣には水がためてあったので、焼き入れ用だろうか。
その手前、部屋のほぼ中央に作業台がある。そこでは、金槌を持った2人が鉄板を打って形を整えていた。
問題は作業台の左後ろ、水場の横にある機械……それがどう見てもプレスにしか見えないことだ。動力機械があるのか……
なめるように見回していると金槌を持った2人とは別の人物が話しかけてきた。作業がうるさかったのか、私の挨拶は一切聞こえなかったようで、視界の端に我々が入ったから我々の存在に気付いたようである。
「なんすか、アレクシスの旦那とカリカ嬢じゃないすか。なんか事件でも?」
知り合いか。知り合いだと逆にやりにくいのが正直なところだ。監督で最初に臨検する際、監督官と事業場の責任者という立場から始めるのが私はやりやすい。
個人名を知られていたり、知り合いがいたりすると、個人的感情が入ってしまう。規制官庁として、個人的感情が入ってしまうと、適切に中立の立場から事業場を見ることができないと感じるからだ。
「あ、今回は私、江口が対応させていただきます。今回、突然お邪魔したのは、ここの作業場の中に危ないものがないか、危ないものがあればより安全にしていただきたいとおもい、お願いに上がりました。
また、金銭の支払い状況などを確認させていただければと考えています。」
「なんすかこいつ。」
私の挨拶に対して返事をせずに、アレクシスに対して疑問を投げかけた。それと併せて、そこで作業していた全員の手が止まった。
金槌をふるっていた2人は返事をしたドワーフの指示を待っている様子。ということは、この返事をしたもの、ドワーフの見た目から年齢などわからないが、おそらく年齢が上の者、使用者かもしれない。
「ふむ。この見た目が不思議な男は道に倒れていたのだ。こいつは自身を『労働基準監督官だ』と主張し、労働する者どもの安全と金銭を守るそうだ。話を聞いてやってくれ。」
「そのようにおっしゃられると多少の語弊があるところなのですが……こちらの事業場、会社、工会、お店はなんとおよびすればいいでしょうか。また、代表の方はどなたになりますでしょうか」
「かいしゃ?俺はヴラド工会の代表のヴラドだけどなんすか。」
「私は、嶋本監督署、じゃなかった、労働基準監督官と言いまして、各お店や工会にお邪魔させていただいて、安全面や衛生面、そして賃金や労働時間について確認させていただいております。」
「は?なんの権限があって。それに今むりっす。注文が立て込んでて、今日中にあと15個は作りたいとこなんで。」
「突然お邪魔して申し訳ないです。
今お忙しいということであれば、ちょっとの間でも作業しているところを見させていただくだけでもいいので、お願いできないでしょうか。
皆さんの作業が安全か安全じゃないかについて、実際に作業しているところを見させていただいて、作業内容を確認して、判断してないといけません。そして――」
私は、続いて「書類の確認は、後日お約束して」と言いかけてやめた。この世界の暦についての知識もなければ連絡手段もわからない、そうなると、後日の約束方法がわからないではないか、ということに気が付いて言葉に詰まった。
そもそも是正勧告書を交付したところで、どうやって是正報告するのか、文字が読めないことは先ほどのカリカのやりとりで判明しているところだ。そうなると、安衛法に照らし合わせて危ないところだけを変えるように言うか。賃金関係には触れずに行くしかない。
「いえ、とりあえず今から作業している様子を見させていただいて、何かあればちょっとお声かけをしてします。」
「なんなんですか本当に。さっきから何を言っているか全然わかんないんすけど。」
「要は、職人の方々が怪我しないようにしたいんです。それが私の仕事です。
だって、怪我してしまったら、忙しい時期にもっと忙しくなる。そうすると余計に効率が悪い、だから安全を第一に考えてできることをしていっていただきたいと思っているところなんですね。」
「危ない危ないって、ここ数年は誰も大けがしてないし。ちょっとと火傷するぐらいだけど、そりゃこの仕事してりゃそうなるに決まってる話じゃないすか。
だから、見てもらうもんも、指摘されて変えるところもなんもないっすよ。」
「ヴラド、そういわずにとりあえず作業をするがいい。何かあったら責任は私でもつ。」
「アレクシスの旦那がそう言うなら従うっすけど……とりあえず、作業すりゃいんすか。」
「はい。私のことは気にせず、いつものようにしてください。」
「わかったっす。作業の続きするっすね。」
ちょっと火傷……この仕事をしていれば当然、か。この一言に安全意識の低さがよく顕れている。