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第2条「司法警察職員」


「おい。何か返事をしろ。なぜ黙っているのだ。言葉がわからんわけではなかろう」

 嘘はよくないからすべてを正直に話すか。到底信じてもらえるとは思わないが、取り繕って嘘をついてもどうせぼろが出るだろうから、真実だけで押し通すしかないか。そして、監督官の経験から、こういう威圧的な手合いにはきわめて慇懃に対応するのが最善手であると考える。


「すみません。ちょっと気を失っていて惚けていたもので。私は先ほどもお伝えしましたが、私の苗字は江口、名前を将臣といいます。おそらくですが、全く別の世界から、こちらに来てしまったのだと思います。」

「何を言っているんですか?なぜ呼び名が二つもあるんですか?世界が別ってどういうことですか?我々を欺こうとわざと難しい話をしているのであれば、犯罪者とみなし投獄させていただきます。」


 そもそも姓と名の概念がなく話が通じないのは予想外だった。しかも、女性のほうが厳しい可能性も出てきた。


「まずは、警邏隊詰め所に連れていく。そこで話を聞かせてもらおう。」


 ここは従うほかあるまいと思っていたら、まさかの持ち上げたまま連れて行こうとしていた。さすがに股間が悲鳴を上げかねないのでそれは拒絶させていただいた。


「待ってください。おろしてください。逃げるつもりはないので自身の足で歩いていきます。私の鞄も置いたままですから、一緒にもっていかせてください。」

「逃げるそぶりをしたらすぐさま手錠をかけさせてもらう。あと、荷物についても一度中身を検査したうえで、持っていくことを許可する。」


 と言って私の断りなく鞄の中身を空けだした。おそらく問題となる道具は入っていないはずだ。

「本が4冊。いずれも何を書いているのか一切わからない。このえんじ色の2冊は分厚いな」


 と言って、労働安全衛生法便覧2冊を取り出した。確かに我々監督官も分厚いと感じている。

 最近フルハーネスの規格が変わって覚えられていないので、構造規格編も持ち歩くことにしているから、とにかく重たくてしょうがないのだ。


「透明な不思議な入れ物に書類がいくつか――さらに、透明な平べったい棒と丸い棒。先が少しとがっているし曲がるのでガラスではないし武器とは言えないか。そしてこれはなんだ?文字が書いてあるようだが……さらに、緑色の皮でできた長いもの、財布か?ほかには黒い固いものでガラスがある。不思議なものばかりだ。いずれにしろ武器はなさそうだ。」


 勝手にどんどん開けていく作業を見ながら、私はこの世界の技術や言葉について考えていた。これから自分のことを説明するのに相手の前提を理解することは不可欠な要素と考えているところが大きい。

 それで分かったこと、というか推測できることはまず、プラスチックは製造されていなさそうだ。石油に変わるものがそもそもないのか、あるいは精製技術がないのか。また、カラー印刷されたちらしに違和感を示さなかったので、カラー印刷技術はあるのだと思われる。また、付箋も紙の束いうこと以上の指摘がなかったのでで、色紙の技術もあるのだろうか。


 そして、電卓とスマートフォンは得体のしれないもので確定のようだ。監督に行くときは電源を切っておく主義でよかった。

 本革制財布のことは認識していたので、皮製品の技術はあるのだな。

 少し気になるのが、プラスチック製の30センチ定規のことを「平べったい棒」と呼称したことだ。定規はあってプラスチックがないからこんな呼び方になったのか、定規すらないのか。いずれにしろ、ボールペンやシャーペンが武器認定されずによかった。


「あからたの検査は終わったが、詰め所に連れて行っても大丈夫なようだ。歩け。まっすぐ行った先が詰め所だ。荷物はこちらで持つ。」


 そう言うと、彼は私の右側に立ち荷物を右手で持って歩きだした。

 女性のほうが私の左側に立って歩いている。


 ツーマンセルで動き回るのは、ファンタジー世界でも基本なのか。監督官は1人だから、やはりマンパワーがある警察組織はうらやましい。

 2人でやることもあるが、いまだにあれは意味を見いだせない。現場での効率が多少上がるぐらいか。

 また、死亡災害の現場でも、監督署からは2人くらいしか来ずに、警察がたくさんいるものである。フルハーネスのガチャガチャ音だけが響く中、3人は歩を進めた。


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「あ、どうも。監督署です。現場はこちらですかね?」

「現場、えっとそうですけど。」

「わかりました。ありがとうございます。立山専門官、車はこの辺で大丈夫ですかね。」

「いいですよ。江口さん、その辺に停めちゃってください。」


 午後3時30分、嶋本監督署の安全衛生課に徳山警察署の山田警部から電話が入った。嶋本監督署は県の中央に位置する監督署で、嶋本市、徳山市、上柳田市の事業場を管轄する。


「徳山市内にある劇場で、スタントマンが天井の仕掛けから約8メートル下のステージに転落し、死亡が確認されました。今、実況見分をしているところですが、吊り下げ装置とかの確認をいただきたいので、現場まで来てもらうことは可能でしょうか。」

「死亡された方のお名前は。はい。会社名は。はい。かしこまりました。え~おそらく午後4時30分ごろ行くことなると思います。はい。人数は未定ですが、おそらく2名か3名で行きます。はい。よろしくお願いします。」


 監督署には、労働者が死亡する事故が起こった場合、会社から情報提供されることが多い。しかしそれだけでなく、警察が実況見分をする際に、監督署に声をかけ、一緒にすることもある。高所からの転落の専門知識は警察署より監督署が持っていることが多いからだ。

 今回もその例で、徳山警察署から協力依頼の電話が来た。そういう重要な連絡を受けるのは、基本的には安全衛生課の堀内課長になっている。


 労働基準監督署は一般に、業務課・労災課・安全衛生課・監督課と4つの部署に分かれている。業務課は、庶務経理・事務などを、労災課は、労災補償事務、労働保険の適用・徴収などを、安全衛生課は機械・設備の設置等に関する届出審査、安全衛生指導などを、監督課は、臨検監督、申告処理、司法・警察事務、許可・認定事務などを行っている。

 つまり、賃金・労働時間が監督課、仕事場の機械や仕事中の怪我が安衛課、労災の補償が労災課である。

 管轄の人口が多い監督署だと、監督課については、管轄する地域を細分化する必要が生じる。そして、細分化した地域ごとに責任者を置き、業務を行っている。そのような監督署の監督課は「方面」という部署名になり、第1方面を筆頭に第2方面、第3方面、となっていく。基本的には、各方面の体制は主任が1人と、役職の無いいわゆる平の監督官が1人か2人という体制だ。方面のトップは「主任監督官」と呼ばれる。ちなみに、管轄する地域の人口が少ない監督署だと、人員は減り、部署も兼務となっていく。

 監督課や方面で職員として臨検するのは主に労働基準監督官である。一方で安全衛生課や労災課で働くのは、専門の安全衛生専門官、労災事務官に加えて労働基準監督官が働くこともある。


 嶋本監督署は嶋本労働局では一番大きい署で、第1方面~第4方面、安全衛生課、労災課、業務課の4つに分かれている。

 方面のトップは第1方面主任監督官の岡田一茂、安全衛生課のトップは堀内遼太郎である。そして、江口将臣は第4方面主任監督官で、主任監督官になるのは今年が初めてで、去年まで係長であった。


「立山専門官、墜落災害、死亡だって。お願いできますか。」

「わかりました。今からですか?」

「うん。すぐ来てほしいって。準備お願いします。」

「わかりました。メンバーは誰が行きますか?」

「今から確認するよ。」


 嶋本監督署において、死亡災害が起こったときは、技術的な側面を確認するために労働安全衛生専門官と、法的な側面を確認するために労働基準監督官が行くことになっていた。

 今回、堀内安衛課長は、立山専門官に行くように指示したのちに、小林次長に報告、そして方面から人員を確保するべく、岡田第1方面主任に声をかけることなる。


「岡田1主任すみません。墜落の死亡災害の一方が入ったので、監督官を1名お願いできますか。今すぐ出ます。」

「今すぐですか。今居るのは……」

「あ、私大丈夫ですよ行きます。」


 江口第4方面主任監督官が手を挙げた。


「いいですか?」

「大丈夫です。安衛からは誰が行きますか。」

「立山専門官です。」

「なら仲良くいってきます。」


 江口主任と立山専門官、立場は江口主任が上だが、年齢は立山専門官が上だ。しかし、この二人はその年齢差・立場差に関係なくなぜか意気投合していた。

 江口主任が運転し、立山専門官が助手席、今回の件についてあーでもないこーでもない、と話しながら向かって行った。

 2人が劇場の駐車場につくと、人払いのために、交番勤務と思われる巡査2人がガードマンのように駐車場の入り口に立っており、時刻は約束した時間を過ぎて、午後4時45分ぐらいになっていた。


「あ、どうも。嶋本監督署です。現場はこちらですかね?」

「現場、えっとそうですけど。」

「わかりました。ありがとうございます。立山専門官、車はこの辺で大丈夫ですかね。」

「いいですよ。江口さん、その辺に停めちゃってください。」


 江口第4方面主任と立山専門官は車から降りて、ヘルメット・ハーネスや箱尺、一眼レフカメラなど、現場を確認するうえで必要な道具をトランクから取り出していた。


「ちょっとちょっと、待ってください。だめですよ入ったら。なぜ厚生労働省の方が入る必要があるんですか。」


 そういうと、2人の巡査は、江口主任と立山専門官の現場入りを阻んだ。

 まずもって労働基準監督官が使用するヘルメットの横には、「厚生労働省」と大きな文字でプリントしてある。したがって、知らない人が見た場合には、厚生労働省本体から人が来たように思える。

 そして、若い巡査ですら、労働者に関する死亡事故があった際に、監督署も調査に入ること、そして、監督官は巡査が持っていない「司法警察員」という権限を有していることを知らない。


 「徳山警察署の山田部長からお電話いただき来ました。嶋本労働基準監督署の者です。今回、労働者が墜落して死亡する災害があったとの通報をうけ、中に入って調査させていただきます。」

 「だから、だめですって。中で実況見分しているので、入れるわけには行けません。あなた方は嶋本労働基準監督署の方で、連絡したのは徳山警察署の山田ですね?徳山警察署に連絡して確認しますから。」

 「いや、4時半に約束して遅くなってしまいましたが、ここにいらっしゃるはずです。一緒に実況見分をする予定です。」

 「そんなはずないじゃないですか。入らないでください。中の担当刑事に確認するまでここから動かないでください。」


 と、江口主任と立山専門官の2人は、劇場の建物の入り口ドアの時点で待たされることとなった。

 江口主任と立山専門官は、事前連絡があったにもかかわらずこのような状況になったのは初めてで、2人で顔を見合わせていた。

 巡査のうち1人が彼らを見張り、残りが劇場のステージへとかけていった。ステージには警部クラスが2人、鑑識が4人がいた


「警部、すみませんが嶋本労働基準監督署の方が中に入れろとおっしゃっておりまして。」

「あ、そうですか。すぐにこちらにお連れして、墜落した状況を確認してもらってください。墜落の事故に関しては彼らのほうが詳しいことが多いので。」


 そう聞いた巡査は急ぎ2人のもとに戻って、ステージの上に案内した。なぜ、警察が監督署の力を借りなければいけないのか、そもそも、2人でしか調査に来ていないことを考えると調査する気はないのか、と不思議に思いながら。


 『独立行政法人労働者健康安全機構 労働安全衛生総合研究所』

 これは、厚生労働省の所管する、労働災害や労働衛生に関する科学実験と防止方法について研究を行う場所で、働く環境に潜むすべての労働災害について研究している。

 中でも、墜落・転落や感電、あるいは化学物質の取り扱いなどは、警察の科捜研よりも詳しいことが多く、科捜研から、労働安全衛生総合研究所に対して、鑑定依頼や捜査関係事項照会が来ることがあるくらいだ。


 そして、労働基準監督官は、大なり小なりこの研究所での研修をうけており、日々墜落災害に向き合いその原因究明と防止対策に尽力している。

 こういう経緯から、労働者が墜落する労働災害が発生した際には、地元警察と協力して実況見分を行い、原因について警察に対して説明して所見を伝えることがよくある。

 ただ、労働基準監督官は警察と比べて、圧倒的にマンパワーが足りない。取り次いだ巡査が、たった2人でしかいないのかと不思議に思ったのは当然のことで、警察はそんな少人数で実況見分をすることはあり得ない。メインの捜査担当者が2人いて、それに付随して事故死の可能性が高い場合でもできる限りの人数を割く。


 それに対して、監督署が労働者が死んだ場合の調査をする際、監督官と専門官、少なくとも2人でそれ以上で来ることもある。

 これは、通常、会社に対して行う臨検監督がたった1人で行うことから考えれば、手厚い体制といえる。

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