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第15条「監督官証票」

 カリカが一緒に行ってくれるというのは、とてもうれしい申し出だ。


 私の中には当然とても大きな不安があった。

 何をするのかわからない、今後の予定も立てることができない中で、大きなうねりに巻き込まれている感覚。

 自分の力ではどうしようもないのがわかっているのに、その波にどうにか乗りこなそうとして無茶が出ているこの感覚。

 きっと、乗りこなそうという思いは、不安の裏返しであろう。

 自分の存在意義が発現する場所をさがして、自ら立つための足掛かりを探して、できないことまでやろうとしていることの証拠である。


 しかし、カリカが訪ねてくれたおかげで私のこの不安から来る宙に浮いた感じが、減った気がする。

 少なくとも明日の不安が軽減して、楽になったのは事実。

 そのまま肩の荷を下ろしきることができればよかったが、私の不安はそこまで根が浅いものではなかったようだ。


 ただ、少なくとも、その日しっかりと寝るには充分な落ち着きを得られたことだけは、朝起きて気が付くことができた。

 小学校のころ、社会科見学も自然教室も前日に熱を出した私からしたら、今日寝れたことはとてもいい出来事だったと言って過言ではない。


「カリカさんありがとう。」


 新しい服に袖を通し、準備を終え、覚悟と感謝を口にした。それは、一人だけの部屋の中で小声で、完全な独り言であった。はずだった。


「さようで御座いますか。お嬢様に対してはお伝え申し上げいたします。」


 部屋の扉をたたく音が響き、扉越しで出発の案内がされたのち、エウスタキウスさんが返事をした。


「それはちょっと気を回しすぎですよ。私には妻子がいますし。」

「大変至極失礼なことを申し上げまして。

 然れども、本国におきましては、一夫多妻が認められておるので御座います。

 いえ、僭越なことと承知しておりますが、御参考までに申し上げた次第に御座います。」


「僭越ですよエウスタキウスさん」そう言おうとしたが口にはできなかった。


 今は愛する妻と子供のところに帰りたいという気持ちしかない。

 ただ、今後どれくらいこの世界に居るのか。

 1年?10年?一生?それでも誰とも関係を持たずに終われるのだろうか。

 今後のことは何もわからないのでエウスタキウスさんに言うことができなかったのだと思う。



 カリカと2人で家を出て、実務者連携会議と同じ棟で事務局のある部屋に入ると、議長のニコラオス、警邏隊補佐のアレクシス、直会補佐のディミトリオス、教会補佐のフェービ、治水土木隊補佐のアルキボスと、その随行者が来ており、彼らと顔合わせの挨拶をして、すぐに労働関係法令の話し合いが始まった。


 細かいところを決める話し合いは議長や補佐は来ないらしいが、初回ということで全員集結しているらしい。

 ということは初回は顔合わせで終わると思っていたのに、実のある話をしている。


 ニコラオス議長の仕切りで話は進行している。

 日本において労働基準法を作ったとき、法制度をどうするか、というところから作り始めた。それに対して今は、誰がどう施行するかという話から始まった。


「んじゃ改めてぇ、えぐちさんから労働基準監督官っていう仕事の権限を教えてもらっていいですかぁ。」

「はい。

 労働基準監督官は、『労働基準法』や『労働安全衛生法』という法律を守ってもらうために、原則予告なく、労働者が居るところにはどこにでも、行って、働いているところや書類を調査して、労働者や社長、こちらでは会長と言うんですかね、会長とかに話を聞きます。

 これを拒否すると罰が与えられます。

 ちなみに、労働基準法に違反しても罰が与えられます。」

「そは甚だ強きに過ぎるのではなからぬか。」


 ニコラオス議長が基本的に場を仕切っているが、合議体という体裁をとっているので、みな割と自由に発言している。その中で、これまでずっと静かにしていたディミトリオス直会補佐が、口を開いた。


「各会においてみなそれぞれ働きにけり。会長といえども、変わるところなしと思うております。

 それを、にわかにおいでになられた御仁のために、手を止めよと、そう申されるわけですな。

 さらには、断れば処刑の沙汰。やはり合点は行きませぬ。」

「そうです。労働基準監督官の本来の使命が、違反の発見とその是正にある以上、適正な調査を行うために、当然に必要なことだと考えております。

 また、処刑というほどではなく、罰金になりますので、このような強制を課しても問題ないというのがわが国内での判断になります。」

「論なくと申しなさるか。

 ならば、重ねて問うところ、会長は労働基準監督官で有るか否かをどのように検めることができましょう。」

「そのために、労働基準監督官は『監督官証票』という特殊な身分証明を持ち歩くことが義務付けられています。」

「――それでも論なくと言うのは各会の会長を説きつけるのは、道理に合いませぬ。

 さも、過ちを行っておると決めつけてかかるようかと。」

「うむ。それは私も気になっていたところだ。」

「アレクシスさん――」


 全面的に味方になってくれると思っていたアレクシスからまさかの指摘だった。

 ディミトリオス直会補佐の指摘は、私が事業場に行ったときによく受けていた。だから、説明はすぐできるはずだった。

 しかし、アレクシスからの指摘、まるで後ろから撃たれたような気持になって、私の中での驚きが大きくなって固まってしまったのだ。

 無言が、視線が私の次の発言を待っている。


「警邏隊は犯罪が起こった、あるいは起こっていると思ったとき、話を聞くこととしている。

 犯罪の有無が一切不明な場合に、強制的に話を聞くことはできぬ。」


 私の発言がなかったので、アレクシスからの追撃があった。

 皆の視線が、これ以上の沈黙を否定している。焦りを抑えながらなんとか口を動かすことができた。


「我々が調査に行くときは、疑ってかかるわけではなく、現状把握が目的です。

 なので意図的に、犯罪が起こったときに強制的に調べることを『捜査』と特別な言い方を用い、労働基準監督官が行う調査との違いを強調しています。

 対外的には、そういう決まりであることとこの説明をしていくことになります。」

「さても、断りし折には、罰を受けねばらなるというのであれば、さきの手前の印象、変わりませぬ。」


 「そういう決まりですから――」法律ができた後であれば、そのように説明をすることができる。

 しかし、法律を作る際にはそのような説明は通じないとわかっている。

 ただ法律ができた経緯を私はそこまで詳しく知っている訳ではない。あくまで一介の監督官に過ぎないのだ。

 もちろん私が思うところはあるが、それを理由にこの国の決まりをすべて決めてしまっていいのだろうか。


 まずは知っていることを話して、思いを伝えるよりほかないだろう。だから――


「このような権限を与えた経緯には、労働者が経済的に弱いということがあります。

 そもそも、雇う人も働く人も自由に選べるはずです。そして辞めるも辞めさせるのも自由です。

 けど、労働者は経済的に弱い立場にあります。生命線である給料を握られてるんですから。

 なので自分が嫌いな人に、自分が嫌な条件で雇われて、結果として非常に悪い労働条件、お金だけじゃないです。

 安全や衛生についても悪い状況で働かなければならなくなりました。

 しかも『自分で選んだんでしょ』と言われる始末。

 こういう歴史がある以上、仮に何も悪いことをしていない会長がいたとしても、定期的に調査をしなければならないということになるんです。

 だから、疑ってかかっている、と言われればそのとおりと言わざるを得ませんが、言い訳するならば、

『歴史上、労働者をひどい扱いをした人が多かったから、その歴史を繰り返さないために調査をし続けるんだ』

 ということになります。現に、問題が生じていませんか?今、働いている人が安全でみな幸せだったら、僕はここにいないと思いませんか?」

「それはどういう意味よ。」

「私も気になりますっ!」


 私の発言に対して、普段にこにこしながら話しているニコラオス議長が真顔になった。

 さらにそれに呼応するように、フェービ教会補佐が声を高くして言った。


「偶然にしては、ぴったりのところでえぐちさんが来たんですよねっ。今ここにいる理由って何ですか?理由が答えにくいなら、誰の意志ですかっ?」


 誰の意志――フェービ教会補佐の性格はわからない。

 一見した感じ、天真爛漫なような印象を受けるので、単純に気になっているだけと言われれば、そうであろうが、何か根拠があるのかもしれない。

 なぜなら、ニコラオス議長が、フェービ教会補佐の話には取り合わずに私に対して、重ねて先の発言の意味を聞いてきたからだ。


「問題が起こっているから、このような法律を作ろうという話になったのではないですか、ということです。」

「そのとおりでありまする。手前ども直会にじきじきに救いを求めに参られる御仁が増えておられる。

 最前、申し述べましたるは手前の真の気持ちからでた思いで、労働基準監督官にさような働きを認めたよしを尋ねましたる次第。

 否定するものではありませぬ。」


 アレクシスさんを見ると無言でうなずいていたので、ここはこの説明でよかったのだろう。

 

 ニコラオス議長が他に意見を求めたが何も出てこなかった。

 労働基準監督官をこの国に新設するのであれば、臨検の権限を与えることは必須である。

 これがなければ、実効性を確保することができない。そう思っていつまででも話すつもりでいたが、その必要はどうやら無いようだ。


「じゃあやっぱり同じように権限を与えるってするのが一番だよね。

 法律が労働基準法なのだから、部隊名は『労基隊』、所属は直会か警邏隊でいい?」

「取り締まるのであれば、われら警邏隊においていただきたい。警邏隊の取り締まり方法と労基隊の取り締まり方法が異なるのであれば、市民も困惑するであろう。」

「いや、わかるけどさぁ。そうは言っても取り締まり対象が会長ということは、直会においたほうが平和になるんじゃないの。」

「ありがたきお言葉にあります。手前ども直会では各会の定めを作りにければ、併せまして定めを作ることができまする。」

「アレクシス補佐どうですかね。」

「はっ。さほど強い要望ではないので、問題ありません。」

「そしたら――」


「あの~、独立って無理ですか。」


「いやぁ、無理じゃないけど。」

「これから作るであろう労働基準法は、あまねく働く人すべてが対象です。

 そうなると、各会だけでなく、例えば国の政策で建設や土木を行う場合、教育を行う場合、すべての場面で問題になります。

 兵士はちょっと違うと思いますが。

 そうなると、どこかに属しているというのは中立の立場から調査ができなくなってしまい都合が悪く、独立していたほうがいいと思います。

 また、きっと将来、労働基準法以外のこともするようになると思いますので。」


 私が日本に居た頃は、労働基準監督官に求めるものが変わりつつあった。


 単に労働基準法を会社に守らせればいい、そういうことではなく、よりよく長く働くために何ができるのか、そういう問題が投げかけられ始めた時代だった。

 穀倉満ちて礼節を知る、と孔子様もおっしゃっておられたし、マズロー式に言えば自己実現の欲求も今後出てくるだろう。

 武士は食わねど高楊枝、なんて文化もあるが、それはあくまで武士に限ったことだろう。


「ん~今決め切るのは難しいところですねぇここは。まぁ今はこのままにしておくしかないかな。

 そしたら、法律の中身ですけど、働く人の理想じゃなくて最低限なんでしょ。」

「はい、最低限を考えます。」

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