第一夜
昔々、世界は光で覆われ夜は存在しませんでした。
昔々、人々は善意で溢れ悪意を持ちませんでした。
昔々、黒き羽の持ち主が世界に夜を連れてきました。
そして、夜の到来と共に人々の中に悪意が産まれ堕ちました。
『吸魔伝』より。
夜に抱かれる居城シダンテ城——
広く暗い部屋の先には、月光が入り込み、その光に照らされるように玉座に座る男が一人いる。
全身を黒い衣服で覆った男は、玉座の背もたれに体をどっぷりと預けるように深く座っている。頬は痩せ、白く長い髪を伸ばし、同じく白く長い髭を生やしており、その風貌を見たものは、一瞬、老いを感じるだろう。
しかしそれは、ただの老体ではない。
体は老いていようと、いまだ男の覇気は衰えを知らない。
部屋は、男から発せられる不穏な空気に満ち、それは、差し込む月光さえ、歪ませてみせた。
ただそこにいるだけで、これほどの存在感。
それはそうだろう。彼こそが、吸血鬼の王にして夜の覇者ブベルブゼなのだから。その姿はただの老人であるが、ひとたび彼の前に立ったものであれば、彼が吸血鬼の王であることも納得できるだろう。
それだけ、異質な空気を漂わせていた。
そんな彼は広い部屋で一人、座ったまま正面をジッと見つめていた。
何をするでもなく、何を思うでもなく、時が過ぎ、命の灯が消えるのを、ただただ待っているかのように。
ヒューヒューと連続的に、か細い呼吸音を口から漏らしながら。
ヒューヒュー……
ヒューヒュー……
ヒューヒュー……
長く静かな時間が流れる。
だがその静けさを打ち破るかのように、ブベルブゼが見つめる先にある、扉が開いた。
ギィィーと開く扉の音に、ブベルブゼの瞼が少しだけ大きく開いた。
こんな時間に誰だ?
普段この時間に来訪者はない。
ブベルブゼが怪訝さを頭に巡らせる。
何者かは何もいわず、足音だけが近づいてきた。
初めは部屋の暗さゆえにその姿はわからなかったが、もちろん何者かはブベルブゼに近づいているわけで、ある地点で、長身で瘦せ型の男の姿が見えその正体が分かった。
「ウムワッドか」
ブベルブゼは、しゃがれた声で部屋に入ってきた男——ウムワッドに声をかける。ウムワッドは吸血鬼種族の中でも強力な力を持つ上位の吸血鬼であり、彼自身、多くの吸血鬼を配下に持つ吸血鬼であった。
「どうしたこんなところまで」
彼のように力ある吸血鬼は、自ら純血種を作り出し、一つの集団として動く。
ブベルブゼが招集をかけて集まることはあれど、今のウムワッドのように自ら居城シダンテまで来ることは珍しかった。
それを不思議に思ったブベルブゼは、ウムワッドへそう問いかけた。
「王よ、今日はあなたへ進言いたしたく参上しました」
ブベルブゼの前に立ち止まったウムワッドは、口を開くなり、そう答えた。
「なんだ、言ってみるがよい」
唐突なその言葉に、少しばかり虚を突かれたが、ブベルブゼはそれを出すような男ではない。
落ち着いた口調で、言葉を返した。
ブベルブゼの口調、落ち着きを共有するようにウムワッドが、少し空白を置き、そして静かに口を開いた。
「死んでください」
その静かで落ち着いた口調には似つかない言葉が、ブベルブゼには聞こえた。
「すまない、もう一度言ってくれ」
あまりにも不意で、信じられない言葉だったので、聞き間違いだろうと聞き返す。
しかし、今度は覚悟を決めた顔で声で、
「我ら、吸血鬼種族のため死んでください」
これは聞き間違いではない。
それが分かったブベルブゼの覇気がより強くなる。
「貴様! 誰に何を言っているのかわかっているのか」
先ほどまでのしゃがれ声とは違い、怒気を帯びた威圧的な声を発した。
だが、その覇気に、声に、怖気る様子は目の前のウムワッドにはなく、ブベルブゼの声に呼応するかの如く、
「王よ、あなたはもはや王の器ではない。いや、初めからそうだった。あの始祖同士での戦争もあなたは、最後封印という手段で終戦させ、それ以降あなたは積極的な殺しは行わず、それどころか我々にも人間を殺すなと命じてきた。もちろん我々はそれに反対し、散々殺しを行った。」
両手を大きく広げ、言葉を流した。
「しかし、あの戦争以降、あなたは誰も殺していない。それからというもの、人間どもは繁栄を極め、もはやこの世界に君臨している。それが我々はずっと耐えられなかった。吸血鬼である、人間などよりもずっとずっと上位に存在する種族である我々が、世界を支配していないのはなぜか! それは王であるあなたの姿勢が、吸血鬼にふさわしくないからにほかならない。かといって、あなたの力は絶大。我々は、あなたの命に反し殺しを続けることが精いっぱいで、あなたに反旗を翻すことはできなかった。いや、考えられなかった。それほどまでにあなたの力は強大だった。だがしかし、とうとうあなたにも老いがやってきた。これは我々にとって時代の転換期となるだろう。今まであなたの強大な力の前に屈するだけだったが、それはもうあなたにない。これから訪れる吸血鬼の時代に、ブベルブゼ、あなたの存在は邪魔でしかありません。なので今ここでご自身で命を絶ってください。我らが吸血鬼のために。できなければ、殺します」
次第に言葉は熱を帯び、一人演説しているかのようになっていたウムワッドの姿を、ブベルブゼは冷めた目で見ていた。
「ウムワッドよ、貴様の考えはよくわかった。確かに貴様は、強い。そして私は老いている。だが、それがどうした。貴様ごときが一人でこの城に乗り込んできて、いくら老いているとはいってもこの私、ブベルブゼをただで殺せると本気で思っているのか?」
「私もそれはわかっています。もしかしたら今の私、単体でもあなたを殺せるかもしれない。しかしそれは可能性の範疇を超えず、今戦っても、たぶん私はあなたに負けて殺されるでしょう」
そう言ったウムワッドは、ずっと見ていたブベルブゼの目から視線をそらし、先ほど歩いてきた方向、扉の方を向いた。
「おい、あれを持ってこい」
大声でウムワッドがそう言うと、扉の向こうから二人分の大きな影が現れ、近づき、そしてウムワッドの少し後ろに、並び立った。
上半身裸のその二人は、長身のウムワッドを超え、筋骨隆々で、少し背中が丸まっていた。
ウムワッドの配下であろう男が二人であるものを持っていた。
それに、ブベルブゼは見覚えがあった。
「貴様、それは!」
ブベルブゼは、男二人が持ってきたものを見て、勢いよく立ち上がった。見た目からは想像できぬ速さで。
配下二人が持ってきたものは、複数の骸骨や薔薇が装飾された大きな黒い棺だった。
その棺はまさに、先ほどウムワッドが言っていた始祖同士の戦争で封印に使った道具であった。
この棺に封印した始祖が眠っている。
まさか……
よからぬ想像がブベルブゼを支配する。
「それをどうするつもりだ」
「さっき言った通り、私だけではあなたには勝てない。そして今から吸血鬼の時代を作り、この世界に混沌をもたらすためには、彼らの存在が必要なのです。なので私は、あなた以外の始祖四体が封印された棺を回収し、その封印を解き、この世界に開放することにしました」
ウムワッドは、棺に手をかけながらそう言った。
あぁ、やはり。
ブベルブゼの、想像の通りだった。
「この棺は、封印されし始祖のうちフェゴルベルが眠る棺です。四体のうちまず彼の封印解除に成功しました」
ウムワッドは、棺を開けようとする。
「おい、やめろ!」
ブベルブゼは、それを止めようと玉座から飛び出すように、前へ出た。
それだけは、止めなければならない。でなければまたあのような時代が……
しかし、その静止を気にも留めず、棺が開けられた。
その中身を見て、ブベルブゼの動きが止まった。
「は?」
棺の中身、そこは空っぽだった。
黒い内装だけが、ブベルブゼの目の前にあった。
なんだ? なにも入ってない? フェゴルベルは?
思考がまとまらない。
「言ったでしょう。もう、封印は解いたと」
戸惑うブベルブゼのことは、知ったことではないという風にウムワッドがニヤリとそう言った。
その瞬間、大きな破壊音が鳴り、目の前の棺が砕けた。
棺が砕けたその先に、はるか昔にしのぎを削りあった敵の一人——フェゴルベルの姿があった。
ブベルブゼはその姿を見て、懐かしさからか、なぜか落ち着きを取り戻した。
「やぁ」
フェゴルベルは久しぶりに再会した旧友かのように、手を向けてこちらを微笑みながら声をかけてきた。
その姿は、今のブベルブゼとは違い、昔と変わらぬままだった。
端正な顔立ちに、すこし少年っぽさがあり、金色の短髪。
「フェゴルベル……」
過去の記憶と一切変わらないフェゴルベルは、
「久しぶりだね、ブベルブゼ。僕は、封印されていたから姿が変わらないみたいだけど、君はずいぶん老けたね」
と、言いながら笑った。
フェゴルベルが今、目の前にいる。それが何を意味するのか、これからなにが起こるのか、そんなことはもちろん分かっていた。
「何をするつまりだ」
分かっていたが、ブベルブゼはそう問いかけた。
「何をするつもりだって? ひどいなぁ、久しぶりの再会じゃないか。そう睨むなよ。そもそも君の配下が僕の封印を解いたんでしょ。どうやらそこのウムワッド君はまた戦乱の時代を作りたいみたいだけどね。まぁ、僕もそのつもりだよ。早く暴れたい、早く悲鳴が聞きたい、早く殺したいよ。君に封印されて体がすごくウズウズしてるんだ」
フェゴルベルは、先ほどのあどけない笑顔とは違い、不気味な笑みを浮かべていた。
「本当は、ほかの三人は眠ったままでもいいんだけど、でも確かに三人の封印を解いても面白いかもね。なにせまた、あの時の戦争のように本気でぶつかって殺しあえるんだからね。まだ、封印を解くのに時間がかかっているみたいだけど、まぁ、ゆっくり待つよ。まだ、僕と一緒に封印された直属の配下たちも目覚めてはないようだし」
「フェゴルベル、お前の好きにはさせない。ほかの三体も目覚めさせない」
フェゴルベルの不気味な笑みに、こいつらを止めなければと思った。自分の命を賭してでも、他の吸血鬼を目覚めさせてはいけないと思った。
「はぁ、好きにさせない、目覚めさせないって、今の君に何ができるわけブベルブゼ」
そのブベルブゼの覚悟など知るよしもなく、呆れるように、腰に手を置き少々オーバーにため息をフェゴルベルはついた。
「さっき、ウムワッド君に聞いたんだけど、君、僕たちを封印した後、誰も殺していないんだって? しかも、自分の配下にもそれを命じているようじゃないか。馬鹿じゃないのか君は、殺しを行うのが僕たち吸血鬼だろ」
「黙れ、人間を殺して何になる。下位の吸血鬼とは違い我々は血を吸わなくても生きていけるはずだ。血を吸うにも殺す必要はない」
飄々としたフェゴルベルに対して、ブベルブゼは息を荒らし、肩を大きく上下させる。
「人間を殺して何になるって、そんなことを考えて何になるって僕は逆に聞きたいよ。確かに君の言う通り、血を吸う必要はないし、血を吸うにしても殺す必要はない。だから何? 人間を殺すのに理由がいる? 理由がいるなら、しいていえば楽しいからだよ。君も長く生きているんだからわかるだろう。人間も含めて、多くの行動に大それた、また合理的な理由はないんだよ。殺しだってそう。ただ、僕が楽しいから。多くの行動の理由は大抵そんなもんだよ。だからいいじゃないか、殺したって。だって、楽しんだもん」
フェゴルベルの主張は、到底受け入れられるものではなく、
「駄目だ」
と吐き捨てた。
「はぁ、もういいよ」
また、フェゴルベルがため息をつく。
「どうせ君には死んでもらうつもりだったし。あの時の戦争のように、君がいないのは少し残念だけど、まぁ、今の君にはろくに戦えもしないだろうしね。じゃぁ、サヨナラ。久しぶりに君と話ができて楽しかったよ」
また無邪気な笑みを浮かべてフェゴルベルは、大鎌を取り出した。
まずい……
ブベルブゼが躱そうとした動きよりも、フェゴルベルの攻撃は速く放たれた。
『怠惰な夜』
一瞬の閃光に完全に逃げ遅れたブベルブゼ。
左肩が本来あるはずの体から離れ落ちた。
「ハハハ、やっぱり鈍ってるね。今ので殺すつもりだったけど」
「ハァハァハァハァ」
ブベルブゼの呼吸が早くなる。
体が熱い。再生が追い付かない。
「じゃ、もう一回行くね。今度は殺せるといいな」
フェゴルベルがまた、大鎌を構える。
まずい、まだここでは死ねないとブベルブゼは思った。
しかし、このまままともに戦っても勝てはしない。
ならばどうするか。
彼には、この窮地を脱する策が一つあった。
今この時、月の光が一番強く当たる場所へ転移する術。
もちろん、場所を選択することはできないが、今はただこの場を逃げ出せればいい。
フェゴルベルの攻撃が繰り出されるより先に、術を繰り出した。
『怠惰な……』
『彼ノ国ノ夜ヘ』