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035 幸せってのは悲しみがあってこそじゃないのかな

「これでも駄目なのかよ!」


 反則だぜと敬は口の中で一人ごちる。考えうる限り最強の攻撃を食らわせたのに、決着をつけられなかったのはかなり痛い。


 しかし堕神は反撃の体勢を取らず、小さく笑うと降下を始めた。わけもわからずに見守っていたが、敬もルーファを連れて床上に戻る。


「人の身でありながら、わたくしに傷を負わせるとは……お見事です」


 微笑むイシュルの体が光に包まれ、たちどころに傷が塞がっていく。魔力を使って体内を活性化し、回復力を高めたのだ。


 先ほどまでと雰囲気を変えた堕神に戸惑いつつも、敬は相手の次の言葉を待つ。


「聞かせてください。どうしてあなたはそこまで戦うのですか?」


「何回も答えただろ。あんたが間違ってると思うからだ」


 本気で理解できないと、女神は首を捻る。


「それはどうしてでしょう。悪意がなければ争いは生まれず、生命の危機を回避できます。それは人にとって最上の幸せとなるでしょう」


「俺さ、思うんだけど、幸せってのは悲しみがあってこそじゃないのかな」


 敬は優しくルーファを離し、照れ臭さから鼻の下を擦りながら言う。


「ずっと感情が変わらなかったら、何が幸せなのかも理解できねえよ。そんな人生はきっと幸せじゃない。これも前に言ったけど、人間は基本的に愚かさ。でも可能性だってある。何の取柄もなかった俺がこの世界に来て、信頼できる仲間と出会い、かつての女神と互角……じゃなかったかもしれないけど、それなりには戦えたみたいにな」


 朗らかに笑う敬を、どこか眩しそうに堕神は見つめる。


「それが人の可能性だとおっしゃりたいのですね」


「人間は……俺は阿呆だからさ、くだらないことで調子に乗ったり、落ち込んだりする。でも見守ってくれたレリアや、叱咤してくれたルーファのおかげで立ち直れた。たった一人の人間でもこんな紆余曲折があるんだ。そりゃ、世界を見てたら大変だよ。でもさ、あんたにも人間を信じて欲しいんだ」


 しばらく考え込むように目を閉じていたイシュルが、何かを吹っ切ったように微笑んだ。


「この身を堕とすほどの決意を覆すとは、恐れ入りました」


 相手に釣られて敬も笑う。


「あんたも悩んでたんだろ。そうじゃなきゃ、俺の話なんて聞かないさ。戦いだって最初の一撃目で勝負がついてたろうしな。それに願いを叶える為とはいえ、俺の命を奪ったのをずっと悔いてたみたいだし」


「……お見通しですか。あなたは本当に不思議な人間ですね」


「ひねくれてる時間が長かった分だけ、考える力が他人より少しばかり身についただけさ」


 肩を竦める敬にレリアが寄り添い、ルーファがつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「わかりました。……とはいえ、わたくしの方針はさほど変わりません。しばらくは再び人間を見守りますが、世界が崩壊の危機に瀕した際にはやはり手を出すでしょう」


「そうならないように、頑張って生きてくしかないな。人間の一人として」


 遠くを見るように天井を見上げる。これで肩の荷も下りる。晴れ晴れとした気分で呼吸をする。きっかけはとんでもなかったが、異世界に来られてよかったと心から思えた瞬間だった。


「あなたには改めて謝罪しなければなりませんね。わたくしの身勝手な願望の為に、尊い生命を奪ってしまったのですから」


 申し訳なさそうなイシュルに、敬は顔の前で小さく手を左右に振る。


「まあ、さっきの攻撃で一発ぶん殴ったようなものだし、おあいこってことで。レリアやルーファに出会えたのを、後悔なんてできっこないしな」


「ケイ様……やっぱり素敵です」


 肉体に残っていたダメージを、イシュルに回復してもらったレリアが極上の微笑みをプレゼントしてくれた。


「いや、そこまで褒められると照れるな。ルーファも遠慮しないで――って、ルーファ?」


 こちらで会話をしている間に、そろそろと半魔の少女はイシュルの背後へ回り込んでいた。細い右腕には、彼女の毛髪よりも黒いガントレットが装着されていた。


「人間に可能性? 世界を見守る? そんなものに意義などない!」


 泣き叫ぶように発したルーファが、ガントレットをはめた腕を堕神の背中に突き刺した。まさか攻撃されると思っていなかったらしく、不意打ち同然に喰らったイシュルは極限まで白目を多くする。


「こ、この力は……まさか……くっ! ううう!」


 ルーファの黒いガントレットが禍々しい輝きを増し、苦悶する堕神の上半身が折れ曲がった。


「おい! 何してるんだ。やめろ、ルーファ!」


「破滅を阻止する必要などない! 人間だけが平和であればいい世界なぞ壊れてしまえ!」


 いつになく感情を露わにしたルーファの剣幕に、思わず敬の足が止まった。


「半魔というだけでゴミみたいな扱いをされ、屈辱と恥辱に塗れさせられた記憶は絶対に薄れない。何が女神だ。何が勇者だ。あたしがどんなに泣いて救いを求めても、助けてくれなかっただろうが!」


「ルーファ……!」


「汚い口であたしの名前を呼ぶな! したり顔で同情しやがった偽善者が! 苦痛だった! 不愉快だった! 何の苦労もなく手に入れた力で善人ぶって、周りから賞賛される男の近くにいたあたしの気持ちがわかるか! わかってたまるか!」


 理性の鎖を引き千切ったかのような少女が、さらに手を堕神の奥へ埋め込む。


「あたしはずっと悔しかった。どうしてこの世界は平等じゃないのかと。あたしはずっと願っていた。おぞましいこの世界が消えてしまえばいいと。あたしは手に入れた。願いを叶えるための方法を! 力を! だから消すんだ。壊すんだ! そうしてすべてを無くせば、あたしは解放される! 本当の平等を得られる! 皆と同じになれるんだ!」


 狂ったように歯を剥き、堕神に腕を突き刺す。見慣れているはずの少女なのに、まるで異質な何かに変容したような印象を受ける。それくらいルーファは正気を失っていた。

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