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023 あれ? 何で急に……

 背中を向けつつも、視線は外さない。相手の動きを逐一把握していないと、不安で仕方がない。だがそんなのは大した問題ではなかった。


「嘘だろっ!?」


 二メートルを超えていそうな巨体なのに、赤い目をギラつかせる熊は目を剥くほど俊敏だった。


 それでも兄妹を追おうとしなかったのは、立ち塞がった敬を新たな餌として認識したからに違いない。


 とんだ貧乏くじを引いたと、泣き叫びそうになる。深呼吸する余裕もない。都合よく、近くに丈夫そうな木の棒が落ちていたりもしない。敵の手が届かなさそうな巨木もない。ないない尽くしでいっそ清々しささえ覚える。


「くそ……こうなりゃ、ヤケクソだ。うおお!」


 窮鼠猫を噛むというべきか。突如としてド根性を発揮した敬は、逃げられないのであればと意を決して特攻する。


 死地に活路を見出すというやつだが、相手はそれほど甘くはない。裏拳じみた攻撃で、あっさりと吹き飛ばされる。


「ぐはっ、がっ……げ、現実は……甘く、ないな……」


 巨大熊にとっては軽く叩いた程度の一撃で、敬は首の骨が折れるかと思うほどのダメージを受けた。地面を転がった際に打ち付けた全身がズキズキと痛い。涙が溢れる。感情が死にたくないと叫ぶ。


 懸命に力の入らない手足を動かすも、仰向けになるので精一杯だった。


「ハハ……こんな時でも、空は青い……んだな。当たり前……か」


 視界一杯に広がる澄んだ蒼穹に意識を奪われる。改めて自分自身がちっぽけとしか思えない光景に吸い込まれ、いつの間にか恐怖は消えていた。


「……あいつらを助けられたし……まあ、いいか」


「フン。貴様にしてはよくやったな」


「――!?」


 驚いて顔を上げる。すぐ傍まで迫っていてもおかしくなかった巨大熊が、全身から血を噴き出していた。


 その前に立つのはローブ姿の小柄な少女。黒髪に黒い瞳が特徴的なルーファだった。


「どうしてルーファがここに」


「……たまたま通りかかっただけだ」


「まさか……俺を心配して……?」


「たまたま通りかかっただけだ!」


「そうか。厳しいことを言ったのも、俺への愛情の裏返しだったのか」


「貴様っ!」


 振り返ったルーファが、見開いた瞳に驚愕を宿らせる。


「泣いているのか」


 指摘されるまで気付かなかった涙を敬は拭う。絶体絶命の窮地だったというのに、見知った顔が前に立ってくれただけで、信じられないほど嬉しくなってしまった。


「少しはマシになったかと思ったが、情けなさは相変わらずだな」


「まあな……って、ルーファ!」


 全身を血だらけにして戦意喪失したかに見えた巨大熊が、一瞬の隙をついてルーファに迫る。


 なんとか彼女を逃がそうと、敬は手を伸ばす。


 ――ドクン。


 細い手首を掴んだ瞬間に、心臓が飛び跳ねるような感覚が全身を襲った。決して不快ではなく、形容のし難い力が奥から次々と溢れてくる。


「これは……? 女神の力? いや、でも」


「何を呆けている! さっさと手を離せ! 二人揃って死にたいのか!」


 一人なら自慢の身軽さでどうとでも対処できるルーファは焦るが、その一方で敬は奇妙な落ち着きを覚えていた。どこからか流れ込んでくるような力を、どうすればいいのかは悩む必要もない。


 右手を突き出した敬は、左手でルーファを捕まえたまま、大きな盾をイメージした。


 すると、聖なる力を行使していた時と同じように、想像した通りの盾が目の前に生まれた。記憶と違うのは、その盾が純白ではなく漆黒だったことだ。


 全力で振り下ろされた爪が嫌な音を立てて真っ二つに折れた。苦悶の声を上げる敵の懐が露わになると、今度は盾を消して剣を生み出す。


「光の剣ならぬ闇の剣って感じだな。なんか魔王っぽいけど、この際、気にしてる暇はないよな」


 夜を巻き散らすように闇色の糸が中空を滑る。一閃された巨大熊は赤目を見開き、呆然と胴体と足が分離する己の肉体を見ていた。


 ドサリと音がした直後、命の輝きを失った敵の巨体が黒い霧となった。


「魔物が死んだあとは、以前と変わらないんだな」


 感想を口にして、敬は隣を見る。大人びた褐色の顔が、普段よりも赤みを増していた。


「いつまで手を握っているつもりだ。さっさと離せ!」


 ルーファが乱暴に手を振り解いた瞬間、さっきまであれほど漲っていた力が夢か幻だったみたいに消失した。


「あれ? 何で急に……」


 自分の掌をしばらく見つめていた敬は、おもむろにまたルーファの手を握った。


 唐突な行動に赤面するルーファが蹴りを放ってくるも、痛みよりも膨れ上がる力に意識が向く。


「どうなってんだ。ルーファの手を握ると、さっきみたいな力が使えるんだけど」


 またしても強引に敬の手から逃げようとしていたルーファが、その言葉でピタリと動きを止める。何か思うところがあったのか、極端には驚いていないみたいだった。


「……やはり先ほどのはあたしの魔力だったのか。しかし、そんなことがあり得るのか」


 呆然と呟く半魔の少女に、半ば食いつくように敬は顔を寄せる。


「何か知ってるなら教えてくれよ。もしかしてルーファも女神だとか?」


「もしそうなら、貴様と顔を合わせずに魔王とも堕神とも戦っている。少々どころか、かなり信じられないが、あたしが半魔だからだろうな」


「……それと俺が魔法みたいな力を使えたのに、何の関係があるんだ?」


 首を傾げた敬に、ルーファは少しだけ苛ついたように口を開く。


「人の話は最後まで聞け。魔物というのは人間と違って体内に魔力を持っている。それを使って火を吐いたりなどの特殊な力を使うのだ。だが、簡単にできるかといえばそうではない。魔力を行使するには、それ用の器が必要になる」


「器?」


「そうだ。器があって初めて魔力は形になる。体内を流れるあやふやな存在から、確固たる力になるのだ。しかしながら人間の肉体に器などというものは存在しない。ゆえに人間で魔物じみた特殊能力を使える者はいないのだ」


「そうなのか。よく知ってるな」


「半魔だからな。体内にある魔力を感知できても、器がないゆえに形にできない。それこそが魔物と違って、半魔が特殊な力を使えない理由だ」


 半魔なら生きていれば自然に理解できるようになると、ルーファは付け加えた。魔物が誰に教わるでもなく、魔法じみた能力が覚えるのを考えれば、説明にも十分納得できる。その代わりに、新たな疑問が生じる。

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