021 ここは……あの世か?
久しぶりに出た外は、地底城に乗り込む前と比べて、随分と爽やかに感じられた。風景はさほど変わっていないはずなのに、肺を満たす空気が清々しくて、とても軽い。
嫌われる覚悟でレリアを追い出した数時間後。ひと眠りした敬は、地上の土を踏みしめて大きく伸びをする。
服装は地球からの唯一の持ち物であるTシャツとジーンズだ。この世界にはないスニーカーのおかげで、動き易くはあるものの、女神の力を貸し与えられていた時とは何もかもが違う。
精神の強化もなくなった結果、外に出るだけで動悸がする。いつどこから魔物に襲われるのか、想像しては怖くなる。数は減っていても、まだ確かに存在するとレリアは言っていた。
「魔物と遭遇したら、ひとたまりもないな」
とぼとぼと歩く。岩肌が剥き出しだったはずの大地には、魔王がいなくなった影響なのか、肥沃といえないまでも土が敷かれ始めていた。もしくは堕神となったイシュルが何らかの力を行使したのかもしれない。
やり方は敬の好みではないが、イシュルは元女神として自身が創造した世界と、そこで暮らす人々のことを本気で案じていた。実際に魔物との戦いは激減し、世界は平和という空気で満たされているように感じられる。
「いっそ、女神の羽で心を失った方が幸せだったのかもな」
呟く敬がどんなにイシュルを恨んでも、心を強制的に操作されたりはしない。他ならぬ堕神が魔王討伐の功績を称えて、敬の心には介入しないと宣言していた。
やることもなく、ただ歩く。景色はあまり変わらず、吹く風は涼しさを含んでいるが寒いほどではない。日差しは丁度良く、暖かな春の一日にピクニックしているような感覚だった。
ぐううと腹が鳴る。成長期なだけに、昨夜のパンとサラダではいつまでも胃袋が満足していてくれるはずもない。
だからといって食べるものは手元になかった。考えてみれば、レリアがどうやってパンなどを調達していたかすら気にしていなかったのだ。
(自分のことばかりで、とことんクズだったな。これからは幸せになってくれればいいけど)
追い出した女聖騎士の顔を思えば、ほんのりと涙が滲む。
周囲を警戒しながら歩くうちに夜になり、そしてまた朝がやってくる。空腹は激しくなり、何も食べていないのに胃が痛い。涙が零れ、先行きの見えない恐怖で胃液を吐く。
呼吸ばかりが荒くなり、歩みは遅々として進まない。世界は何事もないように爽やかな光景を見せてくれているのに、敬ばかりが絶望を背負わされる。
ぺしゃんこになった胃袋が裂けそうで恨めしい。定まらない足取りに引っ張られるように眩暈がする。
何も食べられない辛さを初めて知った。それほど地球でもこの世界でも、敬は恵まれた人生を歩んでいた。
「そういや……食ったって、言ってたな……」
手を伸ばしたのは地面に生えていた雑草だ。引っこ抜いて咀嚼する。苦々しい味と惨めさに涙が止まらない。唸り声のような嗚咽が漏れる。固められた拳が大地を叩く。か弱い人間に過ぎない敬の手は激痛に痺れ、何の変化も起こせない。
「ちくしょう……ううっ、ちくしょう……」
土に残る爪痕に呪詛を込めても、世界は変わらぬ風景を映すだけだ。敬の存在などちっぽけに過ぎず、通り抜ける風が悪戯半分に頬を触れていく。
やがて涙も渇くと、自分自身を呪う元気も失われる。近くにあった岩に背をもたれさせ、頭を落とす。
「……死にたくない……」
指先が震えていた。ろくに力も入らない。皮膚はかさかさで、唇も荒れ放題。今の敬は、絶望が服を着て歩いているようなものだった。
「俺が何したって言うんだよ……」
親に捨てられた子供みたいに膝を抱える。乗せた額には、水分を惜しむかのように、もう汗すら滲んでいなかった。
「一杯、したか。勝手に自分を見限って、ひたすら駄々こねて、現実に向き合わずに夢ばかり見て、そんなだから女神に目をつけられて」
命を奪った元凶なのに、異世界に呼ばれたと心の底から喜んだ。当時に戻れるのなら、浮かれてはしゃぐ顔面に、おもいきり拳をめり込ませてやりたかった。
「チートだって喜んで、この世界じゃ自分が一番になれるって天狗になって、挙句、力を回収されて、優しくしてくれる女の子に甘えきって、自分勝手に追い出して。ハハ。考えれば考えるほど、俺なんていない方がいいじゃねえか」
耳障りな掠れた笑い声が、吸い込まれそうに青い空へ消える。力なく腕を大地に横たえて、首を仰け反らせる。もうため息も零れない。
あとは人生を終えるだけと、瞼を閉じる。ずっと歩き続けてきた疲労もあり、敬は腹の虫を鳴かせながら眠る。
その眠りは、体を揺さぶる何者かによって妨げられる。煩わしさを隠そうともせずに目を開けると、そこには困惑気味の少年の顔があった。
「あっ、起きた」
嬉しそうに顔中で笑みを作る少年に、なんとなく見覚えがあった。隣には小さな女の子もおり、やはり心配そうな様子を一転させて嬉しそうにしていた。
「お前らは……」
「まさか忘れてないよね。レックスで一緒に邪竜を退治したじゃないか」
「お兄ちゃんってば。あれは勇者様がたおしてくれたんだよ」
朗らかな兄と、困ったように諫める少女。暗黒大陸へ渡る前に、港町レックスで知り合った仲の良い兄妹のポールとサハンナだった。
「……ここは……あの世か?」
無意識に敬は尋ねていた。港町レックスにいた子供たちが、暗黒大陸で死にかけている自分のそばにいるはずがない。
「うわわっ。また寝たらだめだよ。腹減ってるなら、オイラの分をあげるからさ」
焦ったように言ったポールが、半ば強引にパンを敬の口に突っ込んだ。
久しぶりの食物の味に喉が歓喜し、後先を考えずに顎が動く。
「うわっ! 凄い食欲だなあ。よっぽど腹が減ってたんだな」
「あ、あの。お水です」
リスみたいにパンで膨らませた口内に、サハンナから受け取ったばかりの水を流し込む。まだ足りないが、ようやく人心地つけたことで、敬は多少の冷静さを取り戻せた。
「助かった。礼を言うよ。けど、お前ら、本当にレックスの兄妹なのか?」
「他にどう見えるんだよ」
兄のポールが唇を尖らせた。
「なら、わざわざ暗黒大陸に来たのか? どうやって?」
「船だよ。知らないのか? 兄ちゃんが魔王を倒して平和になったから、こっちの大陸にも街を作ろうってさ。王様が住んでもいいって人を集めたんだ」
頭の後ろで両手を組み、ところどころに抜けている歯を見せてポールはニヒヒと笑った。




