019 違う自分になりたかった!
堕神イシュルが人々の前に姿を現し、高らかに平和宣言をした。人間は歓喜し、魔王討伐の旅に出た勇者の名を叫んだ。
しかし主役となるはずの勇者はその姿を隠し、それから数ヶ月が経過していた。
日々の中で勇者の功績は忘れられていく。逆に女神の立場を捨ててまで、人間と共に歩もうとしてくれる堕神イシュルに一層の信仰が注がれた。
ドラハム王国を始めとした各街には教会が新たに建造され、人々は競うように朝から祈りを捧げる。
悪態をついたり、他者に危害を加えようとすれば、堕神の力で強制的に改心させられる。大半の人々が偉大な神の奇跡と喜び、規則正しい生活を他者に勧めた。
魔物の脅威は完全には消え去っていないながらも、魔王という親玉が討伐されたことで人々の心にも余裕ができていた。何より、いざとなれば堕神イシュルに救いを求めればいいのだ。
誰もが穏やかに暮らし、必要以上にお金を儲けたりすれば教会に寄付をする。そして教会は貧しい人々に分け与える。貧困は減少し、何もしなくても生活できるようになった。
しかし怠惰に過ごせば、いつ堕神の奇跡が降り注ぐかわからない。そうして表面上は、朗らかに笑いながら人々は毎日を過ごすようになった。
新たな時代が始まったと形容されてもいい日々の中、魔王を討伐した勇者であるはずの敬はいまだに地底城にいた。
堕神の指示で誰も近寄らなくなった城はシンとしており、魔物の姿も見られない。まだ女神の力を有していた頃につけた道筋が残っているので出ようと思えば地上へ出られるが、当の敬にそのつもりはなかった。
誰のものかもわからない個室の真ん中で、膝を抱えて座り続ける。魔王がいなくなったからか、マグマが消えて澄んだ川となった。そのため気温も涼しいくらいで、飲み水には困らない。
「おはようございます、ケイ様。外は今日も良い天気でしたよ」
ノックしたドアを開き、中に入ってきたのはレリアだった。早々と敬に見切りをつけて出て行ったルーファと違い、彼女は生まれ故郷のドラハム王国へ帰らずに地底城へ残り続けている。
何も答えない敬の前に、いつものようにパンとサラダ、さらにはコーンスープの入った皿が置かれた。綺麗に剥かれたリンゴもあり、美味しそうなにおいが周囲に漂う。
「少しはお散歩をしてみませんか? きっと爽やかな気分になると思いますよ」
努めて明るく提案するレリアは鎧を着ておらず、麻のスカートとシャツに身を包んでいた。おかげで普段はわからない豊かな胸のふくらみや、むちっと張った腰回りが露わになっている。
普段の敬であれば、間違いなく何度も盗み見ただろう魅力的な肢体だ。しかし今はろくな反応を示さない。すべてはあの日に受けたショックと自己嫌悪のせいだった。
「……どうしてレリアは国に戻らないんだ?」
それは敬がしばらくぶりに発した言葉だった。抑揚はなく、感情が込められているとは言い難かったが、献身的な女聖騎士は嬉しそうに顔を輝かせた。
「私は救われた時から、この命をケイ様の為に使おうと決意しました。それは今も変わっておりません」
敬の正面にしゃがみ込み、真摯な態度で断言するレリアの顔に嘘は見つけられなかった。実際に地底城へ引き篭もった敬の、食事などの世話をしてくれているのは彼女だ。いなければ、とっくに餓死していたのは想像に難くない。
「……俺に尽くす必要なんてないよ。もう勇者でもなくなったしさ」
勇者として称賛されていたのは、敬に相応しい力があったからだ。
「レリアも本当は愛想を尽かしてるんだろ。優しいから世話を焼いてくれるけどさ」
「いいえ、そのようなことはありません。私は私の意思でここに残っているのです」
「もうやめてくれ!」
反射的に敬は叫んでいた。
「俺にはもう何もない。調子に乗ってデカい口を叩いて、好き勝手に振舞ってきた記憶があるだけだ! そんな奴が外に出て、何ができるんだよ。笑われるだけじゃないか。それともレリアは俺を晒し者にしたいのかよ!」
子供が駄々をこねるようなものだとわかっていた。そういう行動を選んできたのは他ならぬ敬であり、誰かに強制されたわけではない。
「何が勇者だよ! 借り物の力に酔い痴れて、浮かれて有頂天になって……! 自分に反吐が出る! 間抜けなクソ野郎だ! 俺は勇者なんかじゃなかった! 騙されていい気になってた道化師にすぎなかったんだよ!」
溜め込んでいた感情が涙となり、唾となり、言葉となって青白い輝きを残す地底城の壁にぶつかる。
反響する言葉を身動きせずに受け止めたレリアは、微かに瞳を潤ませる。そして、膝を抱えたままの敬を抱きしめた。
急に訪れた温もりに戸惑い、双眸を大きくした敬の顔を、レリアが覗き込む。
「例えそうだったとしても、ケイ様が残してきた軌跡は消えません。ドラハムで私の命を、大勢の国民の命を救ってくださいました。レックスでは絶対にそうする必要はなかったのに、幼い兄妹を助けてくださいました。封印されている邪竜を、いつか住民へ危害を加えないようにと退治してくださいました」
「けど! それは全部、俺に力があったからだ。今はもうない! ないんだよ……!」
「ですが勇者としての心は、ケイ様に残っています。私にはわかります」
「違う!」
またしても敬は叫んでいた。
「俺は格好つけてただけだ。自分のでもない力を見せびらかして、チヤホヤされたかっただけだ!」
泣きじゃくる敬の後頭部に優しい手が添えられる。ふと見上げれば、力を失う前と変わらない微笑みを見せてくれるレリアの顔があった。
「先ほど言った通り、それでもケイ様の功績は消えません。誰もが勇者様に感謝しています」
「それが怖いんだ! 勇者じゃなくなった俺に、ガッカリした目を向けられるのが怖いんだ」
レリアの袖にしがみつき、唸るように敬は声を絞る。
「こっちに来る前の俺は全部を諦めてて、何もやろうとしなかった。でも、それでいいと思ってたわけじゃない。変えたかった。でも、どうすればいいかわからなかった。そんな時にきっかけは最悪だったけど、新しい世界に来た。変われるチャンスだと思った。違う自分になりたかった! だから無理して格好良く振舞おうとした! それだけなんだ。誰かの為になんて考えていなかった! 俺はどうしようもない自己中心野郎なんだよ!」
一度堰を切った感情は迸る激流となって、レリアにぶつけられる。
普通の人間であれば嫌がって当然なのに、レリアはそれでも敬から手を離そうとしなかった。逆にさらに震える体を抱き寄せた。
「自分を卑下しないでください。ケイ様は頑張りました。仮初の力であったとしても、魔王を討伐するまでのケイ様は、紛れもなく勇者でした。そして、私にとっては今も変わりません」
豊かな胸に挟まれる幸福に浸る余裕もない。大粒の涙を零し続ける敬は、とうとう大声を上げて泣き出してしまう。
情けなさではない。惨めさでもない。そこにあったのはただただ純粋な歓喜だった。
「俺はっ! 誰かに、認めて、欲しかった……! 兄さんじゃない! 俺を見て欲しかった! 褒めて欲しかった! 頑張ってるって言ってもらいたかった!」
「はい。私がケイ様を見ています。褒めます。何度でも頑張ったと言ってさしあげます。今度は……絶対に下がりません。ずっと隣にいます」
気がつけばレリアも泣いていた。しばらく二人で無人の城に声を響かせたあと、やがてこれまでの精神的な疲労もあった敬は、いつの間にか意識を闇の底に沈ませていた。




