018 嫌だ怖い助けて許して
「それがあなたたちの選択だというのであれば尊重しましょう。しかしながらわたくしにも願いというものはあります。天界との繋がりも立場も捨て、堕ちた女神となろうとも譲れないのです」
「どっちが正しいか力で決めるなんて不本意だけど、こうなったからには仕方ない。あんたに貰った力で歯向かうのは心苦しいけど、背に腹は代えられない。覚悟してもらう」
先制攻撃を仕掛けるべく、敬が床を蹴った瞬間だった。
「わたくしの力を差し上げたわけではありません。あくまでも貸していたのです。それを返していただきます。補充ができなくなった今、残された聖なる力は貴重ですから」
ふわりと宙に舞ったイシュルが右手を伸ばす。敬に向けられた掌が淡く光ったと思った直後、それまでが嘘みたいに体が重くなった。
「ぐ、う……!? な、何をしたんだ!」
「先ほど申し上げた通り、お貸ししていた力を返していただいたのです。今のあなたは地球で生活していた頃と変わらない普通の人間です。お気をつけください。死んだらもう二度と蘇れません」
眼光鋭くなった女神の前で足が止まる。瞬きすら忘れた目に涙が滲む。胃袋が強烈に締めつけられ、膀胱が震える。失禁しかねない恐怖を抱え、弛緩した太腿が崩れ落ちる。
「何を……チッ!」
焦って敬を見たルーファが、即座に視線を女神に戻した。一目見ただけで、勇者として魔王を倒した男が役に立たないと判断したのだ。
「貴様が世界の創造主だというのであれば、あたしの敵だ!」
「とても悲しいです。あなたにはわたくしの作る平和な世界の象徴となっていただきたかったのですけれど」
繰り出されるナイフを、堕ちた女神は触れもせずに弾き返す。
「それは……さっき奴が使っていた……聖気の衣か」
「彼はわたくしの知識によって聖なる力の使い方を覚え、行使していたのです。あなたが見てきた勇者の力こそ女神の力。無駄な抵抗はやめて、平和な世界で共に暮らしませんか?」
「断る! あたしにはあたしの願いがある!」
ガントレットを装着した手で執拗にナイフを繰り出すも、やはりイシュルの光の衣を貫くには至らない。逆に腕を振るわれるだけで、ルーファの小柄な体は吹っ飛ぶ有様だった。
「あの膜を突破できなければ意味がない! オイ! さっきまでの勢いはどうした!」
怒鳴りつけられるも、敬は立ち上がることすらできなかった。
あらゆる恐怖に、細胞という細胞が塗り潰されたみたいだった。噛み合わない奥歯が泣き叫ぶように鳴る。無意識の嗚咽が喉を通り抜ける。
(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない)
支配された思考は戦う意欲を放棄する。呼吸を忘れた肺が咳をさせ、床へ盛大に胃袋の中身をぶちまけさせる。そうなればもう、敬は自身の感情を制御できなかった。
「嫌だ怖い助けて許してごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
壊れたように謝る敬の姿に半魔の少女は絶望し、心から慕っていた女聖騎士は息を呑む。
「責めないであげてください。彼がこの世界において平常心を維持できていたのは、すべてわたくしが力を貸し与えていたがゆえです。身体能力のみならず、知識や精神も強化されていたからこそ、あらゆる問題にも対処できました。しかし、今の彼はただの人間です。わたくしは些かも態度を変えていませんが、彼の目には悪鬼羅刹のごとく映っているでしょう」
それだけの力の差があり、堕ちたとはいえかつての女神と敵対した時の重圧は凄まじい。その身に魔物の血を有するルーファや、聖騎士として心身を鍛えてきたレリアなどでなければ、まともに相対するのは不可能だった。
地球で命のやりとりを経験したこともない敬が、イシュルの加護を失った状態で勇敢に戦うことが土台無理な話なのである。
「何度も説明しました通り、わたくしは世界の平穏を望みます。本来であれば悪意を放つ真似をしたらすぐに修正するのですが、あなたたちには魔王を討伐していただきました。希望を叶え、羽を体内に植えないでおきましょう」
静かにそう言ったあと、イシュルは慈愛に満ちた微笑みを敬に向けた。
「佐伯敬さん。どのような理由があろうと、あなたの命を奪ったのはわたくしの罪です。償うすべもありませんが、平和になった世界で天寿をまっとうなさってください」
イシュルの全身が光に包まれる。地面で蹲ったままの敬はもちろん、執拗に攻撃を仕掛けていたルーファも、後方にいたレリアも黙って見ていることしかできなかった。
やがて堕神となったイシュルが姿を消すと、主を失った地底城には心折れた勇者のか細い嗚咽だけが木霊した。




