016 何だ……これ……
「何だ……これ……」
得体の知れない恐怖に、敬は唇を震わせた。
一方で女神イシュルは晴れやかな笑みを浮かべていた。何の疑問も後悔も抱いておらず、成果を自慢するように豊かな胸を張る。
「悪意が生まれなければ魔物も誕生しません。人同士の争いも起きません。血の流れない平和な生活を誰もが送れるのです。素晴らしいとは思いませんか?」
迷いを宿さない瞳で覗き込まれた瞬間、敬を耐え難い寒気が襲った。
(何を言ってるんだ。何をしたんだ。何を考えてるんだ。何を何を何を)
脳細胞が思考を放棄しそうになるが、すぐに冷静さを取り戻す。世界に干渉できないはずの女神は堕ちたと口にし、前言を撤回して人間の心を容易に操作した。
「ふざけんな」
気がつけば敬はそう言っていた。
「わたくしは真剣です。これで世界は秩序で満たされます。人間の悪意の象徴たる魔王がいれば、こうはいきませんでした。ありがとうございました」
女神イシュルは本心でお礼を言っている。それが何より恐ろしかった。
「それじゃ、魔王も女神も変わらないだろ。いや、人の心を勝手にもてあそんでる分だけ、魔王より質が悪い!」
「ならば魔王に好き勝手させ、人間が滅びるのを黙って見ていればよかったのですか? あなたも他の神々と同じことを言うのですね。わたくしはとても悲しいです」
「悲しいって気持ちがわかるなら、人間の心を操作するのはやめてくれ!」
「どうしてそこまで憤るのです? わたくしはただ、邪な思考に至った人間の心を改心させているだけです。そしてその人間が世界の模範となるよう手助けをします。そうした積み重ねが、より良い世界を構築していくのです」
力説する女神は、どこか己に陶酔しているようでもあった。明らかに異質な雰囲気に恐れの感情が強くなり、反射的に敬は相手を睨みつけてしまう。
「だからって人の心の操作をするのはやりすぎだ。そこに自由はない!」
「悪意さえ生まなければ干渉するつもりはありません。それがわかれば人間も規律正しく生きるでしょう。そう! 正しき世界が生まれるのです。暗闇に閉ざされることのない世界が!」
「ふざけんな!」
またしても敬は怒鳴った。
「確かに真っ暗な世界じゃ人は生きていけない。けど、真っ白な世界でも眩しすぎて生きていけねえんだよ!」
「どうやらこれ以上の話は無駄みたいですね。本来ならあなたにも規律を与えたいところですが、無理矢理こちらへ呼んだ事情もあります。平和な世界で新たな生を楽しんでください」
女神の通告は敬の心に干渉しないというものだが、先ほどの光景を見せられたあとでは説得力がない。いつ自分にも影響があるかわからないのだから、可能な限り敬は説得を続ける。
「堕ちたとか言ってたけど、こんな真似をしたら余計に天界から睨まれるんじゃないのか」
軽く目を伏せた女神は一瞬だけ寂しそうにしたものの、すぐに顔を上げて気丈さを示す。
「すでにわたくしは追放された身です。地球であなたに干渉した時点で、遠からずこうなるだろうとは思っていました」
「……どういうことだ。俺が死んだのは予定外のことだったんだろ?」
「もう教えてもよいでしょう。あれはあなたを説得するための作り話です。前に伝えた通り、人間は生まれた時に寿命が決まっています。それに例外はありません。そしていかなる方法をもってしても、人間にその寿命を操作する力はありません。唯一の例外として、干渉可能なのが神です」
「何? ま、待て。よく意味がわからないんだけど……」
ガクガクと両足が震える。荒くなった呼吸に耐え兼ねたように肺が熱くなる。視界が歪み、全身に汗が走る。脳だけでなく、敬のすべてが理解を拒否していた。
「単純に言えば、わたくしがあなたの命を奪ったのです」
「……! ど、どう……して……」
「魔王を倒してもらうためです」
「だったら! あんたが倒せばよかっただろ! 天界を追放される覚悟があるなら!」
怒りを乗せて床を踏みつける。少しだけ女神が申し訳なさそうに目を伏せた。
「仮にそうしていればすぐにわたくしの所業は露見し、途中で妨害が入る可能性もありました。密かに羽を行き渡らせようにも、魔王を滅していなければ邪魔をされたでしょう。それでは天界が気付く前に事を終わらせられません。そこであなたという存在を使いました」
女神イシュルが、自画自賛するように微笑む。
「計画は秘密裏に成功しました。わたくしの行動をすでに止められないと悟った天界は、妨害ではなく追放に処分を変えたのです」
「天界があんたごと、この世界を滅ぼそうとするんじゃないのか」
「それはありえません。堕ちたとはいえ、わたくしはかつての女神。まともにやりあえば天界も多少なりとも影響を受けます。それならば隔絶し、放置すればよいのです。天界との繋がりがなければ女神の力は回復できません。長い年月を経て女神が倒れれば、次第に世界も疲弊してやがては消えるでしょう。永遠の存在なら、間違いなくそちらを選択します」
「じゃあ、結局世界は滅びるんじゃないか!」
「そうさせないためにも、確固たる規律をもたらすのです。わたくしの大切な子供たちに、もう滅びの道を歩ませたくはありません」
言い切った女神の瞳には、強い決意が宿っていた。もはや誰が何を言っても聞かないだろう。
「地球は成熟した惑星であり、創造した神は常に見守っているわけではありませんでした。ゆえに多少の干渉ではすぐに発覚しない可能性が高かったのです」




