復讐、仕返し、後始末
1
同日の夜。
あるひとりの男が、浜の町観光通商店街を歩いていた。男は、ブルーグレーの上下に、革製の黒い鞄を下げている。身長は百八〇を超えて、長めな脚が特徴的な細身の男だった。顔立ちも、目元が涼しげな爽やか色男。その男が、観光通の十字路の角にある、ハンバーガー店のオープンカウンターで注文を始めた時のこと。ふと、隣りから華の香りを感じて、思わずそこへと首を回した。その隣りのポニーテールの女を見て、男が動きを止める。魅力を感じたからだ。その女から感じるものは、香りだけではなく、存在じたいそのものが華だったのである。そうして、女がこの男に愛らしい笑顔を見せるとともに、瑞々しい唇から言葉が発せられた。
「私、毒島零華と申します。野崎公彦さんでいらっしゃいますね。初めまして。―――いいえ、お久しぶりかしら? この私にとっては」
最後に繋いだ台詞に、この男こと、野崎公彦は心臓に大きな杭が打ち込まれたような威圧を感じたのだ。やがて、次第に口が小さな震えを顕してゆく。だが、ここはオトナらしく露骨に取り乱さないで、ぐっと飲み込んで声を返した。
「は、初めてじゃないのかな? 僕は君のような女の子は知らないけれども」
「ふふふ。まあ、立ち話しもなんですから、せっかくですから御一緒していただけませんか」
締めに、こう微笑みながら小首を傾げられたものだから、公彦は素直に従うことにした。
三階店内。
零華と公彦が、窓際席で各々の注文したセットを食している。この日の零華の身なりは、デニムのカッターシャツに筒状のジーパンといった、良家のお嬢様とは思えないラフなスタイルであった。ホットのストレートティーを片手に、フィッシュバーガーを美味そうに味わっている零華の姿に、公彦はダブルベーコンエッグバーガーを食べる手を止めている。すると、己のを食べ終えて、湯気立つ透明な赤褐色の液体を口の中へと注ぎ込んだ半ばで、零華がマグカップをトレーに置くなりに微笑した。
「野崎さん、その隣りで順番待ちをしているビッグバーガーはお食べにならないのですか? それとも、私が食べてもいいのかしら」
「い、いいや。悪いですが、僕は腹ぺこで。これもいただきます」
2
お互いに腹も落ち着いたことで、数分間ばかり言葉を交わしていた。
「登山家でしたの」
「いいえ、僕は登山家といった程でもありませんが。今は、山登りという趣味がこうじて各出版社からの依頼で本を書くようになっただけです」
後ろ頭を掻いて謙遜する公彦を見ていた零華が、飲み干した空のマグカップをトレーに置くと、柔らかい笑みを浮かべた。
「野崎さん、まだお時間はあります? もしよろしければ、私と少し歩きませんか」
これを聞いた瞬間に、男はチャンスが来たと奥底でガッツポーズをする。そして、二人はそれぞれのゴミを片付けて店を出ると、並んで歩き始めた。端から見れば、この二人は美男美女のカップルであったが、零華が抱いているモノは明らかに何かを狙っていたようだ。やがて二人は、中島川通りへと出て、春の夜風に当たりながら足を進めていた。公彦が内心疑いつつも、息を呑んで期待していた。それは、この先をまっすぐと行けばラブホテルがあるということを、この男は知っていたからだ。だいぶん進んだあたりで、突然と零華が足を止めたので、公彦は躓きそうになったのを持ち直した。すると、前で背中を向けていた女の肩が、大きくかつゆっくりと上下に動いたのだ。零華はこの時に鼻で溜め息をつくのと一緒に、露骨に呆れた顔をして吐き捨てた。
「呆れた男ね」
「え?」
「これだけ長い時間いっしょに居ても、全く思い出す様子がないなんて。―――これって、まるで“一度生で挿入して遊んだ女の顔なんて、いちいち覚えてませんよ”じゃない。最っっ低ーー」
「おい、君……」
なんだか一方的に云われっ放しなものだったせいか、公彦の心に怒りが沸いてきたらしい。しかし、その沸騰する時間を相手に与えることはせずに、零華は素早く公彦と向き合った。それも、怒り顔で。この表情にドキッときた公彦。
「どうしたら私を思い出すの。ええ!? またあの日と同じように、私を犯すわけ? あの、雨が強い晩みたいに!」
「ああ……、あぁ……」
あの暴雨の晩――――。
男の記憶を掘り起こした、零華の言葉だった。嗚呼、そうだ、思い出したぞ。あの日の夜遅くに、ある“生き物”から山で乗っ取られて指示されるままに、異性の匂いを嗅ぎつけてこの子のもとにたどり着いたんだ。そして、一戦を交えた直後に、この女の子を何かで縛り上げるとすぐ臍にしゃぶりついたんだった……。
「僕は、僕は……、君を襲ったあと逃げて、あれ以来の記憶が曖昧なんだよ……。いったい、どこでなにをしていたのかも……」
「―――って、反吐が出るような、ド下手なお芝居はやめたらいかが?」
「…………」
頭を抱え込んでいた公彦の震えがピタリと止んで、背筋を伸ばしたその顔は、なんだか覚めきっていたような印象だった。そして、あっけらかんとした声で語ってゆく。
「しょうがない。―――ああ、確かに君は覚えているよ。とびっきりの美人さんだったからね」
「それは嬉しいわ」
「怖いなー。まあ聞けよ。……この僕だって“仲間”を増やすために日々頑張っているんだよ。けれども、男どうしってのはちょっとアレだから、なるべく女の子たちを狙っているんだよね。だから、少しずつだけど着実に増えてはいるからさ、大丈夫だって。―――で、君は君で増やしているんだろ?」
「私は問題ないわ。貴方もそれなりに頑張っているようね。―――だけれど、はいそうですかって、この私がこのまま貴方を見逃すとでも思っているの」
口の端を吊り上げてはいるが、その猫のような瞳だけは笑っていなかった。その零華が足を引いて間合いを確保しようとした時に、男から手首を力強く掴まれてしまい、あっという間に相手の懐へと招き入れられてしまったのだ。公彦の胸板は、やや厚いようだった。そして、零華の細い腰に腕を巻いて、より抱き寄せる。
「ちょっと……!」
「君も僕も端から見れば、外見上はごく普通の人と変わりない。だからこんなことを君にしたって、いっさい誰からも怪しまれないのさ。―――それとさ。もう一度、君の口から“こいつ”を入れたら、いったいどうなるのかな……」
そうして次は、零華の顔を指で仰がせて近づけてゆく。顔をそらせて公彦の口付けを拒否したのだが、男は諦めずに、そのまま女の白い首筋へと唇を這わせていったのだ。一方の空いた手を、腰からシャツの中へと滑り込ませていき、零華の後ろのインナーのホックを外したその瞬間に、鈍い打撃音を鳴らして、公彦は女から離れた。すると、男を睨みつけていたと思っていた零華が、ホックをかけ直してハンカチを取り出すなりに、舐められた首筋を拭ってゆく。それをポケットにしまい込んで、再び嫌悪感たっぷりの表情と声を公彦に向けた。
「気持ち悪い!」
「な、なんだとっ。君から誘ったんじゃないか!?」
殴られた頬に手をやって、男は目を吊り上げて訴えていったが、それも零華から一蹴される。
「私が貴方を誘った、ですって……? 全く、男ってのは女に触れる理由に、こうしたことをあげてくるのかしらね。―――いーい? 私が野崎さんに接触した理由をお教えしてあげましょうか。―――ただひとつ。私に屈辱を与えた男を、この私の手で直に始末するためよ」
そう断言した零華の顔は、明らかに公彦を嘲笑っていたのだ。男がこれに触発されたのか、鞄を投げつけて構えをとった。その鞄を、零華は難なく交わして半身になる。公彦が歯軋りを起こす。
「やれるものなら、やってみろよ」
「馬鹿ね。やられたら、やり返すのが私なのよ。貴方に勝って当然」
地を蹴って、真っ直ぐと走らせた公彦の拳を、零華は僅かな動きで躰をかわすと、腕をとって沈み込み、男の懐へと深く肘を打ち込んだ。次は腕を放して、肩を当てて吹き飛ばした。この二撃目は、一秒足らずの速さ。よって、三メートル先に落下した公彦は受け身も取れずに、石畳に背中を強打してしまい、息を嘔吐する。歯を食いしばって立ち上がると、再び地を蹴って間合いを詰めてゆく。そして、蹴り上げた脚を鞭のごとく振るい、零華の急所を狙っていった。しかし、女はこれらの攻撃を、足で地面に円を描くかたちで流れるようにかわしていったのだ。胴を狙ってきた公彦の脚を捕らえた直後に、零華は踵で相手の爪先を破壊したのちに、すぐさま内股へと膝を叩き込んだ。その二ヶ所から、たちまち太い稲妻が駆け上がり、男の目を剥かせた。そして、零華が公彦のアキレス腱に腕を巻いて完全にロックして、片脚を軸に男を振り回し始めたのだ。四、五回転ほどさせて、男を街路樹の幹へと投げつけた。その時に、骨が砕けたような音を鳴らすと、頭から落下。車道のド真ん中にそびえ立つこの街路樹には幸い、土があったので、クッション変わりになって助かった。しかし、ダメージはそれなりに大きく、公彦は頭から赤い筋を何本も垂らして立ち上がると、再び地を蹴って飛びかかってゆく。宙からの足刀から身を引いた零華に、拳が鋭い直線を描いて飛んできたので、女はとっさに重ねた両掌で胸元をガードした。すると、拳を止められたのにもかかわらずに、公彦が口元を歪ませて吐き出していく。
「毒島零華とか云ったな。日本拳法の“寸突き”って、ご存じかい?」
その途端に、腕を突き出したままの姿勢で、零華の躰じゅうに巨大な金槌を叩き込んだ。女はほんの一瞬だけ過呼吸に陥ったのだが、すぐさまに立て直すなりに、公彦の腕をへし折った。皮膚を破った骨が顔を覗かせて、赤い飛沫を噴き上げる。こめかみに青筋を浮かばせて、公彦は声をあげた。そんな最中に、零華がひとつ呼吸を取り戻したのちにひと言。
「日本拳法で、貴方よりも強い人たちなら、いくらでも知っているわ。この程度で勝った気にならないで」
そして、男の折れた腕を捕まえるなりに、更にそこへと踵を叩き込んだ。
「あーー、もう。いちいちいちいち、ヒーヒーヒーヒー煩い男ね。―――全く……。乗っ取られているくせに、なにやってんだか」
眉間に皺を寄せた顔で愚痴をこぼしながら、零華は苦痛に悶えている公彦の顎を蹴り飛ばして、次は駄目押しの踵を脇腹に射し込んだ。先ほどバーガー店で食べた物を、逆流させて、男はうつ伏せに倒れ込む。
―つ、強い! マジで強い! なんだよ!? この女は!?――
手足も出せない己の状況に驚愕しつつ、公彦は身を起こすなりに構えをとった。それを見ていた零華が、つまらなそうに吐き捨てる。
「いい加減さっさと、その“力”使ったらどうなの? あの晩、私の口と臍を犯したみたいにさ」
「糞餓鬼! 銚子に乗りやがって! 後悔させてやる!!」
そう叫んだ公彦は、眼を金緑に光らせた直後に、背中から触手を噴き出させたのだ。
3
四方八方へと振られてゆく水銀の如き鞭の触手たちを、零華は余裕でかわしていきながら、早々と公彦の間合いに入って、肘を顔に叩き込んだ。自身の鼻柱の折れるのを聞きながら、男は後ろへと転倒しそうになったところを踏みとどまって、掌で鼻を覆った。二つ穴からとどめなく流れてゆく、赤い滝。だが、それもたちどころに治まっていくのは、この“力”ゆえか。
「畜生ーー」
こう吐き捨てたのちに、公彦が歯を剥き出しだして意識を集中していくと、全ての歯が鋭利に発達して、眼は白く濁った物に反転した。そして次は、両腕の先端が伸びて巨大な杭のように成ると、公彦の変化が終わったのだ。零華をめがけて、弾丸のごとく詰め寄ってくるなりに、その腕を突き出した。まさにその刹那、零華は跳躍すると、宙で旋回したときに公彦の頭に向けて腕を伸ばして、さらに身を捻りながら軽やかに着地。急停止をした男は後ろにいる女に踵を返すと、鋭い歯を剥いてニヤリとしたその約二秒後。頭から股間にかけて赤黒い線が、一直線に駆け抜けたと思われた直後に、たちまち躰は左右に離ればなれになって肉色の花を咲かせた。そんな一部始終を見ていた零華が、ポケットからラッカースプレーとチャッカマンを取り出して近づいていく。未だに、小刻みな痙攣を起こしている公彦を見下げながら、冷たい表情で静かに語る。
「もうちょっと骨のある相手だと思ったのにね。拍子抜けしちゃった……。まあ、これはこれで、やるべき事のひとつは片付いたし、良しとするわ」
そして、公彦を焼いてゆく。
ここまで戦闘を繰り広げておいて、零華は男の返り血の一滴も浴びてはいなかった。