図書室
1
あれから、二週間あまりが経過。
放課後。図書室で八千代は広げた本に目を通している。もとから所属している部活動などないので、こうしてたまたまふらりと立ち寄っただけ。ただし、家に帰れば、自宅の道場での姉の千代とのマンツーマンのフルコンタクト稽古が待っているのだが。
保健室での出来事以後、八千代は真也と言葉をひとつも交わしていない。顔を合わせても、八千代のほうから逸らしたり、または真也のほうから逸らしたりと、気まずい感じのまま時間が過ぎてきたのだ。しかし、あれで真也を嫌いになったわけでもなくて、逆にますます以前よりも気にかけるようになってしまったらしい。アタシと会話していない今は、どこのクラスの人と話しているのだろう。こうしている間にも、真也は他の人たちと連絡先の交換とかしているのかな。――――などなど。まるでそれらの思考がノイズのごとく湧き出して、集中しようとしている作業や勉強にフィルターを掛けられてしまい、その雑念を取り除くごとに重い溜め息をつく事も。案の定、稽古にも上の空で、姉から拳骨と怒号を喰らったりしていた。何をやったって、身に入らない状態が続けている。
そういった訳で、今気晴らし目的で目を通している観葉植物図鑑だって、写真から解説からくる情報などは“いっさい”脳味噌へと入っていなかった。よってこのまま見ていても何だか虚しいだけなので、図鑑を閉じて、その隣りに積み上げていた本の上に重ねる。椅子を三つばかり並べたあとに、八千代はそのベッドへと横たわり、寝返りを打って天井を眺めた。そして、どのくらい木目を見詰めていたのだろうか。突然とその視界に入ってきた、長髪天然パーマの女から「よう」と、覗きこまれたから悲鳴をあげてしまい、椅子のベッドから転げ落ちてしまった。手をもがかせながらも机にしがみついて、顔を上げる。そして次は、剥き出した眼をその相手に向けて、ひと言投げ飛ばした。
「あああ麻実。おお驚かさないで!!」
「それだけ返せれば、まだまだ元気だな」
城麻実が縁無し眼鏡を正しながら、ニヤリとした。八千代が椅子に腰を下ろして、口を尖らかせる。
「まさか。ここんところお姉ちゃんに連戦連敗しているし」
「ははは」
「笑い話しじゃないって」
そう突っ込んだのちに、気づいたことがあったらしい。
「あ。そういえば貴女がここに来てるって珍しいよね」
「私にだっていろいろと付き合いはあるさ」
「誰と来てんの?」
「勿論、あの二人と」
麻実の指差したその先には、仲良く並んで歩く松葉と紅葉の姿があった。
2
「よぉ」
「やあ」
松葉の挨拶に、八千代が返すと、紅葉もそのあとにつられて笑顔で手を振って見せた。机まで来たところで、二人は椅子に腰を下ろして八千代と向かい合う。麻実はその後を追うかたちで八千代の隣りに座った。すると、積み上げていた本に手を伸ばしてそれらを広げていく。
「ほほう……。松葉、紅葉、見てみろ『世界観葉植物図鑑』に『新説人体図鑑』に『レッドデーターアニマル図鑑』か。―――この『日本東海道妖怪三景』……これは版画集だな。おお、新訳版『黒山羊の女神』とは。何だか、女子校とは縁が遠そうなラインナップだな」
「あとは『図説・東宝東映怪人怪獣全書』の上中下巻もあるよ。ああ、ほら、『全日本女子格闘家写真集』なんてのも。―――麻実、うちの学校ってこんなの置いていたんだ」
「麻実、松葉、これ見てよ。『特撮変身ヒーローのダークサイド』と『あなたが選ぶ二次元ヒロインランキング!!』って珍しいのが。ほら」
紅葉の見つけ出した厚手の本二冊に、呼ばれた二人が身を乗り出して「おお」と感心したようだ。座り直した麻実は縁無し眼鏡を正すと、八千代に顔を向けた。
「残念ながら、十冊以上は借りられないんだよ」
「…………」
そこを突っ込むんだ。と、そう思った八千代は麻実を見つめる。その相手が切り返してきた。
「怖い顔をするなよ」
「……え?」
「この手当たり次第もいいところだ。わけもなく棚から引き抜いたとみるな、私は」
八千代から顔を離して、背もたれに寄りかかったのちに肘を掛けて呟く。
「どうしてあの日、私にさえ云って来なかったんだ? そうしたらお前を優しく抱いてあげたのに」
「ちょ……っ、えぇーー!」
「おいおい、その驚きはなんだ? そんなに私に裸を見せるのが嫌なのか、お前は」
しかめっ面になりつつ、なにやら意味ありげに切り出してきた麻実に、松葉が思わず乗り出してきて声をあげた。
「ちょっと待て麻実」
「なんだよ?」
顔が「私たちを邪魔するな」と云っている。そして、こちらが思わぬボールを投げてきたのだ。しかも、八千代の後ろ頭を撫でながら。
「お前には、そこに可愛い可愛い紅葉がいるだろう? だから私が八千代に何を語ろうと無関係じゃないか。―――それともあれか、松葉。他に気になる女の子がいるのかな?」
歯を見せてニヤつく縁無し眼鏡の女に、松葉は悔しそうな顔をした。あるいは、その指摘に図星だったかもしれない。どうやら、麻実の口にオイルが入れられたようだ。
「ああ、そういや思い出した。八千代に紅葉、よく聞け。この松葉について云っておくとだな。コイツには、愛しの王子様がすでに居たりするんだぞ。出逢いは、お見合いだったそうだ」
声を揃えて「えぇーーっ」と、八千代と紅葉が嬉しそうに驚く。
「確かーー、シゲゾウだったかな?」
「重 蔵さん、だ」
松葉から、えらい語気を強めにしての訂正がきた。麻実はそれを流す。
「そうそう、ジュウゾウさんだったね、すまなんだ。――――でだな、お前たち。コイツったら、早々と“女”になっちまったんだぜ。全く……、やってくれたよ、松葉姫は」
「いつ? いつ?」
八千代と紅葉がハモる。
「んんーー? そりゃ、昨年の夏休みの時だったかな。もう、その時点で生娘じゃなくなっていたんだな。しかし、肝心の詳細はこの私も知らないよ。ずっと黙秘を続けているから、未だに聞き出せやしない」
「なんだ……」
「お前たちのその溜め息にその気持ち、解るぞ。―――まあ、そのジュウゾウさんと順調らしいからな。おかげで、殿方の“下の世話”が上手いだろーよ。チキショー、シゲゾウさんが羨ましいねぇー」
こう語っている間にも、もたれかかっている麻実の角度が大きくなっていた。
「そう云う麻実は?」
「私か?」
八千代の問いかけに、顔を見合わせる。
「私にゃ、この通りまだまだ“種”の仕入れ先なんて決まってないよ」
「そうなんだ」―まーー、お下品。――
「八千代。私って、こう見えて、意外にもヴァージンなんだよ―――――」
そう告白した瞬間に、「きゃっ」とした可愛い悲鳴と共に、麻実は八千代たちの視界から一瞬にして姿を消した。実情は、図書室の床へと豪快に転倒したにすぎないだけである。その大きな音に、八千代たち三人が反射的に目を瞑って肩を竦めて顔を背けた。
しばらくお待ち下さい。
沈黙の続く中で、麻実は無言のまま再び椅子に座り直した。そうして、わざとらしく咳をひとつ切ってひと言。
「おいおい、こういう時は笑うもんだぜ。ジョニー」
「そ、そう?」―てか、ジョニーって誰よ?――
一応、返してあげた八千代。
3
「そこの人たち、ここではお静かに願います」
丸眼鏡を掛けた三つ編みの“おさげ”頭の図書室室長から注意が飛んできて、女四人は「すみません」と小声で頭を下げた。
懲りずに再開。
切り出しは、紅葉。
「ね、ね。奥戸さんて、二年から室長続けているよね」
「うん。彼女ほどここが似合う女子はいないよな」
後に続いて麻実。
松葉も乗ってきた。
「従姉妹の十和子さんも、ここで助手を務めているんだよな」
「この前、アタシ、奥戸さんのクラスと合同体育した時に、魚屋の娘って聞いた」
八千代の情報に、三人はが「ほほう」と感心する。歓談のさなかに、麻実は入口の方に顔を向けて、縁無し眼鏡を正しながら溜め息混じりに吐き出した。
「見ろ、我が校のバレーボール部一番の美人が来なすったぜ」
そう云われて入ってきた女は、留須家八江という。身長は百八〇に達する。ショートカットにした髪の毛の、襟足を項に沿って伸ばしていた。顔は麻実の指摘した通り整っており、等身バランスも高かったのだ。そして、その長く素晴らしい脚を惜しげもなく見せつけているかのように、制服のプリーツを太股が半分ほど露出するくらいまで詰めていた。
八江は、図書室副室長の掬井戸十和子を伴って麻実たちの前まで歩いてくると、腰に拳をやって見下げるかたちをとる。
「もう、いいかしら?」
「ん? ああ、ありがとね」
鮫の目をした女、十和子から低めの声で聞かれたので、礼を述べて解放した。ただたんに、八江を案内してきただけではなかったようだ。そして、ひとり分空けたところに腰を下ろした途端に、隣りの隣りの麻実から突っ込みを受ける。
「よぉ、あまり十和子に手ぇ出すなよ。あの子はあそこの室長と“心も躰もひとつ”だからな」
「蓮を怒らせるなってか?―――あんな可愛い子に手を出すなってこと自体、無理っしょ」
「ったく……。どーせ次は、蓮の方も“喰う”つもりだろ」
「さぁーー?」
笑顔で答えをはぐらかせたのちに、脚を組むなりにもたれかかる。小さく舌打ちをした麻実が、話していく。
「八江、今日は本を借りにきたってわけじゃなさそうだな」
「あははは、私が本なんか読む? まあね、せっかく部活もひと段落着いたことだし、貴女に云いたいがあったから来たのよ」
「そりゃあ御苦労なこった」
眉間に皺、歯を剥き出す。
八江は背もたれに肘を掛けて語りを続ける。さらに、もたれ掛かり傾いていく。
「なぁに。―――本題に入るけれど、私ね、貴女が前々から目障りだったの」
「ほう、えらい直球だな」
「ジメジメしていなくっていいでしょ? でさぁーあ、この際に零華から受けた“力”で貴女と一対一で戦いたいと思っているわけよ、この八江さんは。…………で、受けてくれるかしら」
麻実は八江と見合わせたのちに、ひと言しめた。
「受けて立とう」
「よし、決まりね――――」
瞬間、八江が「ひゃっ」と発した可愛い悲鳴と一緒に、麻実たち四人の視界から姿を消したのだ。その実情は、もたれ掛かり過ぎた為に、豪快に床へと背中を叩きつけられだけ。大きな音と共に、麻実たち四人が反射的に目を瞑って顔を背けて、肩を竦めた。
しばらくお待ち下さい。
沈黙の続く中で、八江は咳払いをしながら椅子にかけ直す。そして、四人の顔を見渡すなりに鼻で軽く息をして語りかけた。
「あらあら? こういう時には笑ってあげるのが人ってもんよ、ハニー」
「そ、そう?」―これって、どっかで見た光景だよね。――
「そこの五人、ここではお静かに願いますか」
「すみません……」
室長の奥戸蓮から睨まれての注意に、八江たち五人が声を揃えて頭を下げた。