大人の事情③
穏やかな朝日の中、目覚めると家の中には既に美味しそうな朝食の匂いが漂っていた。
今日の朝食は『トーストとスープとソーセージ……』と、匂いで料理を推測しむくりと起き上がろうとすると、俺の視界がぐらりと揺れた。
「ツキノ~そろそろ起きなよぉ、どうしたの!?」
寝ていた俺を起しにきたカイトはベッドに突っ伏すようにして俺が腹を抱えているのを見て、慌てたように俺の傍に寄ってきた。
「どうしたの、ツキノ? お腹痛い?」
腹は痛いというより、何かぐるぐるしている感じで気持ちが悪い。それも気分が悪いのだが、それより何より目が回る、視界が回ってうまく動けない。
カイトは俺をベッドに戻して寝かしつけ、俺の額に手を当てた。
「ツキノ、熱出てるじゃん。体調悪かったなら言ってくれないと」
「別に、昨日までは平気だった」
「だったらやっぱり食べ過ぎなのかな? 無理するから体調崩すんだよ」
呆れたように言われてしまったが、俺はそれどころではない。
「もう今日はお出かけ無理だね。朝御飯どうする? 食べられそう? お粥にする?」
俺は力なく首を振った、腹は減っている気がするのだが、どうにもそれとは別にぐるぐるとした違和感に食欲が湧かない。
俺は腹を抱えるようにして布団の中で丸くなる。
「やっぱり急に食べ過ぎでお腹がびっくりしたのかもね、父さんに薬貰ってこようかな。あぁ、叔父さん達にも今日は行けないって言いに行かなきゃ」
「俺は寝てれば大丈夫だから、お前は行ってこい」
「そういう訳にはいかないよ。病人ほっとく訳にいかないからね」
「食い過ぎは病気じゃない」
「そうだけど、実際熱は出てるんだから、ほっとけないよ。僕、ひとっ走り叔父さん達に言ってくる。あと薬も貰ってくるからツキノは大人しく寝てる事!」
そう言い置いてカイトは忙しなく部屋を出て行った。ぱたぱたとしばらく足音が聞こえていたが、そのうちパタンと扉の閉まる音と共に家の中はしんとした静寂に包まれた。
カイトは熱が出ていると言ったが、別段寒気があるわけではない、ただひたすらにダルイし体が重い。なんだか頭はぼーっとするし、眠気もあって、俺は諦めたように瞳を閉じた。
しばらくうつらうつらとしていたのだが、やはり腹具合は悪く『いっぺんに食べようとしたのは間違いだったな』と後悔しつつ起き上がる。
今回は目の前がぶれたりはしなかったのだが、起き上がると同時に何やらまた腹の違和感に眉を顰めた。
どうにも、下肢にも湿った感触がするし、まさか腹をくだして漏らしたなんて事はないと思うが……と嫌な気持ちでそこに触れると、俺の下半身はやはり濡れていて、俺は恐る恐る布団を捲り上げ、そこを覗き込んだ。
「っ、ひっ……!」
そして、捲り上げた布団の中に俺が見たのは何故か血塗れに赤く染まった寝巻きだった。
まるで意味も分からず、理解もできず、俺は慌てて飛び起きたのだが、急に飛び起きたせいだろう、またしても眩暈に襲われその場にへたり込んだ。
何だこれ? 何だこれ! 何だこれ!?
ベッドを抜け出し、陽の下で見てもやはりそれはどう見ても真っ赤な血で、俺はもう何が起こっているのかまるで分からない。
下肢を触った自分の手も赤く染まって、生臭い匂いを発している。
確かに腹は痛いのだが、怪我をしている感覚はまるでない俺は恐怖で震えた。
「カイト……カイトっ!」
名前を呼ぶも返事はない、当たり前だ、彼は少し前に出掛けてしまった、今この家にいるのは自分だけ。
あまりの恐怖に壁に縋りつくようにして立ち上がると、下半身にまたしても違和感を感じる。どろりと自分の中から何かが零れ出す感覚。
「気持ち、悪い……」
俺はまた腹を抱えて蹲る、蹲る事で血に濡れた寝巻きはいっそうひんやりと足に纏わり付いて鳥肌が立った。
怖い、何だこれ、カイトっ! 嫌だ! 助けて、カイトっ!
「逃げなきゃ……」
思考回路はどこか壊れている、けれど自分はここにいては駄目だとそう思った。
ここにいたら俺はもしかしたら死んでしまうのかもしれない、だってこんなに血が流れている、だってきっとこれは俺が流している血なんだから。
もう一度壁に縋って立ち上がる、一歩、また一歩と歩くたびに足元に血の滴りが落ちて、震えが止まらない。
どうにか玄関まで辿り着いた俺は、またしても立ち眩みでへたり込む。
情けない、なんなんだこれは……
涙が頬を伝って落ちた、最近の俺は泣いてばかりだ、もう自分が自分で制御できない。
「カイト、助けて……」
視界が歪む、起き上がろうと床に手を付くのだけれど、腕に力が入らない。
ふいに玄関扉の鍵が開く音が聞こえた。
「ただいま~……って何コレ!? ちょ……ツキノどうしたの!? 怪我!? 怪我してるの!? どこ!?」
顔を上げると呑気な顔で帰宅したカイトの顔が一瞬で青褪めるのが見えた。カイトの顔を見た瞬間、俺の涙腺はまた崩壊してぼろぼろと涙が零れた。
「かっ……カイト……これっ、何……」
「何って言われても僕にも分からないよ。どうしたの? これ血だよね? 怪我じゃないの?!」
「わっ、分から……ない、気が付いたら、こうなってて……俺、死ぬの?」
慌てたように俺の元に駆け寄って来たカイトは俺の体を撫で回す。カイトの手にも血が付いて、俺はそれを見たくはなかったのだけど、カイトの手は優しくてその腕に縋ってしまう。
「とりあえず、病院! 行こう!」
カイトが俺の体を抱えるように抱き上げた所で「ちょっと待って」と声がかかった。
他に人がいるとは思っていなかったのだが、見上げればカイトの背後には伯父さんとアジェさんが立っていた。
「カイト君、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けませんよ! ツキノがこんなんで落ち着けるわけないでしょう!」
「うん、それは分かるけど。ツキノ君これ怪我じゃないんだよね? どこか痛いところある?」
「お腹……」
「うん、そっか。因みにどんな風に痛い?」
「なんか、よく分からない、ぐるぐるする」
「刺すような痛みではない?」
俺が涙目で無言で頷くと、アジェさんは少しだけ困ったような顔で「これね、病気でも怪我でもないと思う」とそう言った。
「こんなに血が出てるのに!? そんなの……」
「これはね、生理だよ。ツキノ君の体が大人になった証拠」
「生……理……? ツキノ、男なのに!?」
「これはね大人の事情その1、本当はこんな事になる前に伝えなきゃいけない事だったんだけど、最近ツキノ君ナダールさんの事避けてただろう? だから伝えられなかったんだと思うよ」
「どういう事? ツキノ、女だったの?」
何を言われているのか分からない俺はアジェさんの顔をただぼんやりと見ている事しかできない。カイトが次々質問を投げてくれるので、俺はそれを聞いている。
「ううん、違うよ。それなら簡単な話だったんだけど、ツキノ君はね両性具有、俗な言葉で言うと『ふたなり』って言うんだけど、どっちもあるんだ。男性器も女性器もどっちもあるんだよ」
「両性……具有」
「どうしたって子供の頃に目立つのは男性器の方だろう? だから男の子として育てていたし、ツキノ君は男の子としての成長の方が著しかったから、ここまで男の子としてなんの問題もなかった。だけどツキノ君は女の子としてもちゃんと成長していたって事だね。実際問題女性器の方がどこまで機能するのか分からなかったし、機能しない可能性だってあった、自分の性は自分で決めればいいってスタンスで、理解ができる年齢になったら話そうという所で話しは纏まってたんだけど、ツキノ君最近ナダールさんやグノーとまともにお話してなかったでしょう?」
言われてしまえばその通りだ、ここしばらく反抗期に入った俺は両親を拒絶してまともな会話の機会を持とうとはしていなかった、彼等が「話しがある」と声をかけてきても無視するのが常で、対話の機会を持たなかった。
「ツキノ、女の子なんだ……」
「カイト君違うよ。どっちもだよ、ツキノ君は男の子だし女の子でもあるっていうそれだけの話」
「それだけって! それだけって何だよ! こんな体! なんで俺ばっかり!」
腹に力を入れたせいか、また腹の中から何かが零れ出すどろりとした感覚に俺は鳥肌を立てた。
「ツキノ君の気持ち、分からなくもないんだよ、僕達オメガも似たようなものだからね。男の体で生まれて子供を孕むってやっぱりちょっとおかしいと思うでしょう? 言ってしまえば僕達とツキノ君は同じようなものなんだよ」
オメガと同じ……
世の中には『女性アルファ』だって存在する。女という性でオメガを孕ます、女性アルファが男性オメガを孕ませる事だってできない話しではない。だったら何故そこに性別なんてものが存在しなければならないのか俺には分からない。
「詳しい話しは一度着替えてからにしようか、ツキノ君もそんな格好じゃ気持ち悪いだろ? お風呂に入って血を流して温まっておいで。生理は温めた方がいいって聞いた事があるよ」
俺は言われた事の意味が分からずカイトに縋りついたまま動けずにいた。カイトもカイトで情報を整理するのでいっぱいいっぱいなのだろう、同じように俺を抱きすくめたまま、アジェさんを見上げている。
「エディ、お風呂の準備してあげて。あと、えっと……そこにいる誰か! 女性の人いたら呼んできて、大至急!」
そこにいる誰かって誰だ? そう思った瞬間返事をするようにこんこんとどこかの壁が小さく打ち鳴らされて、あの武闘会の時の事件を思い出した。
確か屋敷に捕まっていたルイ姉さんも同じように宙に声をかけて何者かと交信していたのを思い出す、この家には誰かがいるのか? 一体誰だ? もう何もかもが分からなくて怖い。
「そんなに怯えなくてもいいよ、怖い事なんて何もない。泣かないで」
アジェさんは俺に視線を合わせるようにしてそう言ってくれたが、やはりそれでも俺はカイトに縋りつく手を離せずにいる。
「風呂入ったぞ」
伯父さんの言葉に頷いてアジェさんが俺の瞳を覗き込む。
「1人で入れる? 僕も一緒に入ろうか?」
俺は首を横に振った。
「入りたくない? でもその血は洗い流した方がいいと思うよ? そのままじゃ気持ち悪いだろ? 綺麗に洗い流して着替えよう、ね?」
「……カイトが、いい」
俺の言葉にカイトがびくりと震えたのが分かった。
「1人は怖い」
「え……あぁ、ツキノがそう言うなら、僕は構わないけど」
そうは言ってもカイトの視線が泳ぐ。けれど今の俺には縋れる者がカイトしかいないのだ。伯父さん達は嫌いではないけれど、そんな自分の全てを曝け出せるほど信頼している訳ではない。
「うん、そうだね。それがいいかな。カイト君、お願いできる?」
「えっと……はい」
「カイト君、くれぐれも変な気は起さないように」
瞬間カイトの頬に朱が差した、変な気ってなんだ? カイトは慌てたように、ぶんぶん首を縦に振って「行こう、ツキノ。1人で歩ける?」と俺を気遣ってくれた。
支えられるようにして歩いて行くとやはり下肢からは血が流れ出しているようで、その不快さに俺は眉を顰めた。
こんなに血が流れ出してきていて、俺は本当に平気なのだろうか? 本当に死んだりはしないのだろうか? こんな事が女性の大人の証なのだとしたら、本当に気持ちが悪いとそう思った。




