来訪②
「グノーの過去は知ってる?」
俺達は場所を移して、彼の言葉を聞いていた。彼の言う母さんの過去というのは恐らく父さんが話してくれたあの話だろう、と俺達は黙って頷いた。
「僕が初めてグノーに会ったのは今の君達くらいの歳の頃でね、いつも笑ってるんだけど、どこか寂しげな人だった。今より凄く細くて、髪も伸び放題で服も全然構わないから小汚くてさ、今と似ても似つかなかったな」
それは俺達が全く知らない母さんの過去。
「今のツキノ君はね、その頃のグノーに少し似てるよ。ちゃんと食べてる? ちゃんと寝てる? グノーはよく夜中に飛び起きてた。寝ていてもうなされていて、ほとんど寝られないみたいだった。食事も必要最低限で、その辺の木の根っこを適当に取って齧ってたんだよ。グノーはね、そんな生活しかできなかったんだ」
そんな話は俄かには信じられない。母さんはとても料理上手で、俺達が食事をするのをいつでもにこにこ見ている人だった。確かに食べる量はさほど多いとは言い難いが、それでも人並みに食べていたし、そんな辛い過去を思わせるような言動は今まで一度だって見た事が無い。
「僕がグノーの過去をちゃんと知ったのは出会ってからもうずいぶん経ってからだった。グノーはいつも何かに怯えていたけど、それが何なのかグノーは僕に教えてくれなかったんだ。僕自身もその頃ちょっと色々あって、気にはなってても自分の事で手一杯であの当時は何も聞いてあげられなかった。それでもグノーはその時、黙って僕の傍にいてくれたんだ。僕達は言ってしまえば今の君達みたいな関係かな。僕はね、グノーには返し切れないほどの恩がある、だからできればもっと傍にいて力になってあげたいと思うんだけど、これがなかなか難しくてね……」
「恩よりも、迷惑被ってる事の方が多いだろうが、お前はお人好し過ぎる」
それまでアジェの言葉を無言で聞いていた、大男は眉を顰める。
「そんな事ないよ! グノーとナダールさんがいなかったら、僕達は今2人でここにいる事はなかったはずだよ。感謝してもしきれないよ」
「そうは言っても……」
やはりその大男は苦虫を噛み潰したような表情で、たぶんもうこの人こういう顔なんだなと思う。最初は2人の関係がよく分からなかったのだが、2人の間に流れるフェロモンの流れに2人の関係が見えてくる。
カイトの叔父であるアジェは恐らくオメガ、それもカイトと同じ男性オメガだ。そしてこの2人はたぶん『番』なのだろう。
「叔父さん、この人って……?」
「うん、もう分かると思うけど、僕の旦那さん。エドワード・R・カルネ。カルネ領の領主だよ」
カイトの問いにアジェはあっさり頷いた。
「ところで君達、僕の事は誰かから聞いてる?」
「なんかざっくりとは。僕の叔父さん……なんですよね?」
「うん、そう。僕はカイト君のお父さんの弟、叔父さん。あとね、こっちの怖い顔のおじさんは、ツキノ君の伯父さんなんだよ」
驚いてその苦虫を噛み潰したような大男の顔をまじまじと見やると、彼は仏頂面でこちらを見返すので、俺は思わず身を竦ませる。
出会い頭カイトの腕を捩じ上げたこの男が俺は怖かった。もうあの事件にはケリを付けようと決意してカイトと共にここに来たはずなのに、俺はカイトが腕を掴まれ拘束されても何も出来ずに脅えている事しか出来なかった。
俺はアルファだ、本来なら俺がカイトを守らなければいけない立場のはずなのに、俺はその時何も出来ずに立ち尽くしていた。
俺はこの人が怖い。意味の分からない暴力が怖い。そんな事、今まで考えた事もなかったのに理不尽に傷付けられる恐怖を知って、俺の心はずいぶんと臆病になってしまった。本当に情けないことこの上ない。
だが、そんな俺の様子に溜息を零しつつ彼はやはり不機嫌そうに眉を寄せたまま「そんなに脅えるな、お前は俺の大事な妹の子だ。俺はお前に何もしない」とぼそりと告げた。
「妹? 俺の母親はファルス国王の娘ルネーシャなんじゃ?」
「うん、そう。そのルネちゃんが、エディの妹」
俄かに人間関係と背後関係がよく分からなくなってくる。目の前でにこにこしているアジェはランティスの王子のはずだ。オメガである彼がカルネ領主に嫁いだ、という話なら分かる。けれど、この仏頂面の男がファルス国王の息子となったらこれはどうなる? なんでカルネ領主などをやっているのか意味が分からない。年齢的に考えて、どう考えてもこの人がこの国の第一王子になるはずだろうに、俺はこんな男を今まで見た事もない。
「あはは、さすがにそこまでは聞いてないんだね。僕達の関係は意外と複雑で説明するのが難しいんだ。エディとルネちゃんは血が繋がってない、だけどエディは子供の頃ファルスの国王様ブラックさんに育てられていてね、ルネちゃんとは兄妹として暮らしてた、だからルネちゃんはエディの妹。血縁はなくてもツキノ君はエディの甥になるんだよ」
やはり事情が飲み込めない俺達が困惑しているのが分かったのだろう、その仏頂面の俺の伯父さんはやはり仏頂面のまま「王家とは関係を断っている、だがルネが妹なのに変わりはない」とそう言った。
「なんでそんな事になってるのか、さっぱり……」
「だよねぇ、だけどツキノ君を心配して今回のこの旅に同行したがったのはエディだから、あんまりエディの事怖がらないでくれるかな?」
「な、アジェ!」
アジェさんがころころ笑う傍らで俺の伯父は慌てていて、ちょっと驚く。この強面の大男が俺の事を心配してた? さっきからずっと仏頂面で、どう見たって機嫌が悪そうにしか見えないのに、これでいてそんな事があるのだろうか?
「エディはね、顔は怖いけど見た目ほど中身は怖くないから安心して。心配が過ぎるとこんな顔しかできなくなるんだ、分かり辛くてごめんね」
「アジェ、もうそれ以上言うな……」
「なに? 本当の事だろ、伯・父・さん?」
なんだか、完全に尻に敷かれていそうな俺の伯父エドワードは、やはり苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んだ。カイトの叔父さん、にこやかに強いな。
「君達には大人の事情っていうのをあまり知って欲しくはなかったから、特にカイト君の方はカイルさんがとても嫌がったし、王家の話しはせずに君達2人を見守ってきたけど、なんだかついにエリィがカイルさんの所在を掴んじゃったみたいで、なんか、ごめんね」
「……エリィ?」
「あぁ、僕の兄エリオット、僕はそう呼んでる」
アジェさんはにこにことそんな事を言うが、あまりに可愛らしい響きに思わず似合わないな、と思ったのはカイトも同じだったのだろう、あからさまに眉間に皺を寄せている。
「その顔、さっきのアレもそうだけど、エリィやっぱり色々やらかしてるんだね……グノーの件以外にも何かあった?」
「僕、あの人嫌いです。あの人本当に僕の父親なんですか?」
「それはね、うん、間違いないよ」
カイトの言葉にアジェさんは少し複雑そうな顔で苦笑した。
「エリィに悪気はないんだよ、ただ自分の感情に素直で、その優しさも見え難い。僕もエリィのこと酷い人だと思った時はあったよ、でも、憎めない。やっぱり兄だからね」
「悪気なく人を傷付ける奴なんて最低だ」
「エリィのメリア嫌いには理由があってね、もう今のメリアは昔とは違うけど、エリィはメリア王家の陰謀で本人も殺されかけてるから、なかなか許せないんだよ。昔、僕がメリアに人質に取られたりした事なんかも関係してる。グノーはその一件に大きく関わっていたから余計に当たりがキツイんだ。エリィの気持ちも分かるし、僕としては2人が関わらなければと思っていたんだけど……」
「でも、そんなのもう過去の話ですよね!」
「そう、過去の話、でも過去は消えないよ。その人の人生の中で完全なピリオドなんて打てなくて、周りがいくら終わった事だって言っても、本人が終わったと思わなければ、その過去は現在まで続く。本当はそんなの引き摺るべきじゃないんだけど、エリィにとっては終わっていない事件なんだよ。事件の当事者だった僕達は幸せな家庭を築いて過去を過去にできたけど、エリィにはそれもできなかったから余計にね」




