混乱①
ナダールおじさんは時間を見付けては我が家に何度も足を運んでくれた。だが、その間ツキノは一度として彼の前に姿を見せようとはしなかった。
ツキノはおじさんが帰ったのを見計らうようにして、リビングに顔を覗かせる。
「帰った?」
「帰ったよ、どうして父さんと会わないんだ? カイトは父さんの事好きだろう?」
僕がツキノの口調を真似てそんな風に言うと「合わせる顔がない……」と、ツキノは素のツキノに戻ってそんな事を言い、暗い表情を見せる。
だから僕は「おじさんの事が大好きなカイトがそんな顔してちゃおかしいよ」とツキノを笑い飛ばしてやった。
「そんな事言ったら、ツキノがあんな素直におじさんを歓迎してるのだっておかしいよ、ツキノはそんなんじゃない」
「俺は素直なツキノだから、素直に父さんも母さんも好きだって言うよ」
「だったら僕は素直じゃないカイトだから、おじさんおばさんとしか呼ばないよ」
「頑固者」
「どっちがだよ、真似っこなのに全然似てない!」
「それはお互いさまだよ」
苦笑するようにツキノは笑い、それを見て僕も笑った。ツキノの顔に少しずつ表情が戻りつつある、これはいい傾向だ。
おじさんから聞いた話をそのままツキノに伝えた時、ツキノは無表情にそれを聞いていた。あの頃ツキノの感情は完全にどこかへ置き去りで、その心の内がまるで見えなかったのだが、日を重ねようやくツキノに表情が戻ってきた。
それは金色に染めたツキノの髪の根元が少し黒く戻り始めた頃で、事件からは既に一ヶ月が経とうとしていた。
「ねぇ、ツキノ……」
「どうした?」
「ううん、違う……ねぇ、カイト、そろそろこれも終わりにしようか」
瞳を伏せてツキノが言った。
「何? 突然?」
「終わりに、しないといけないと思うんだ。いつまでも、自分から逃げてたら前に進めない」
「別に前に進む必要なんてないよ、逃げてたっていいんだ」
「ううん、カイト、それは駄目。俺ばっかり逃げてたら駄目だと思う、俺は自分のした事への責任は取らないと……」
ツキノはそう言ってじっと己の掌を見詰める。
「責任って何? ツキノは何もしてないのに」
「おじさんから……ううん、父さんから逃げ続けてるのは母さんをあんな風にしてしまった責任が俺にあるから……俺は母さんに謝りたい」
「おばさんもだいぶ調子は良くなってきたって聞いてるよ」
「うん、だから俺は母さんに謝りに行きたいんだ。でも、逃げたままじゃ駄目だ、カイトのふりして母さんには会えないよ、だから……終わりにしよう、カイト」
「ツキノはもう大丈夫……?」
「カイトが傍に居てくれたから」
そう言ってツキノは僕に身を預けるようにして頭を僕の肩へと押し当てた。
「僕は少しでも、ツキノの役に立てたかな?」
僕は思い切りツキノを抱き締める。
「カイトが居なかったら、きっと俺は壊れてた。生きてちゃ駄目だって思ってたんだ、自分も死ななきゃって思ってた、カイトが、全部持っていってくれた。今までのこと全部ごめん、カイトがいなきゃ生きられなかった……ありがとう、カイト、大好きだよ」
涙が込み上げて更にツキノの体をぎゅうと抱き込んだ。離せない、もうツキノと離れられない、こんなにもツキノが愛しい、こんなに好きだと想える相手にはこの先絶対出逢えない。
「僕もツキノが、好きだ」
「うん、知ってた」
ツキノも僕の体を抱き締めてくれて、僕達はいつまでもそうやって2人で抱き合っていたかった、だけど僕たちに纏わり付くしがらみが僕達にそれをさせてはくれない。
「だけど、カイト、やっぱりそれでも俺はメリアには帰らないといけないと思ってる。父さんや母さんをずっと見てきた、メリアという国が大変な国だっていうのは分かってるんだ。お前を連れて行っても幸せに平穏に暮らさせてやる自信がなかった、だから置いて行こうと思ってた」
「僕は別にそんな事望んでないよ」
「でも、両親の揃った平凡な家庭がカイトの理想だっただろ、俺はお前にそんな普通の家庭を与えてやれるか分からない」
「幸せな家庭ってのはね与えられる物じゃないんだよ、自分の手で掴み取る物なんだ、だからツキノはそんな事一切考えなくていいよ、僕はどこままででもツキノに付いてく」
「でも、カイト……恋人いるんじゃなかったっけ?」
「今それ言うの? あんなの嘘に決まってるじゃん」
ツキノの肩が少しだけ震えて「良かった……」と呟く声が聞こえた。あんな口からでまかせの嘘信じてたんだ? もしそんな相手がいたなら、こんな風にツキノに付っきりの生活なんてできなかったよ。
「ねぇ、ツキノ……僕の項を噛んでくれる?」
僕のその言葉にツキノの体がまたびくっと震えた。
「ツキノ……?」
「ごめん、カイト……」
「え? 何で? 今、ツキノ、僕の事好きだって言ってくれたよね……?」
「怖いんだ……」
ツキノの体がまた目に見えて震えだした。
「え? え? どういう事?」
「俺はあいつの項を噛んだ。口の中に血の味が広がって……ぐっ……」
思い出したのだろう記憶にツキノは僕を突き飛ばして口元を押さえた。ツキノの傷はまだ完全に癒えてはいなかった、なんとか傷は塞がりかさぶたになりかけていても、そのかさぶたを剥がせば血が流れる。僕の考えは甘かった。
「ごめん、ツキノ、無理しなくていい」
慌てて僕がツキノの背を擦るとツキノは涙目で「ごめん」とまた謝った。
「ツキノが謝ることなんて何もないよ、ごめんね。もう言わない」
ツキノは吐き気を堪えるようにして何度も何度も僕に謝ってくれた。ツキノが謝る事なんて何ひとつないのに、なのにツキノは謝り続ける。
「いいんだよ、ツキノ。今までだって僕達はこうだった、変わる必要なんてない。ツキノが謝る必要全然ないよ」
「ごめん……」
「もう、ツキノは謝るの禁止! ツキノはいつだって自信満々で高飛車なのが売りだろう?」
「そんなモノを売りにしていた事は、ないはずなんだが……」
「僕の中ではそうだった! ツキノ、僕をぎゅっとして、もしかして、それも駄目……?」
少し不安になってそう問うと、ツキノは小さく首をふって僕を抱きしめてくれた。
「カイトの匂いは安心できる」
顔を僕の肩口に擦り付けるようにしてツキノは言う。
「だったら僕はこれでいい。僕を好きだと思ったらこうしてよ、そしたら僕も安心できる」
実は最近ツキノからフェロモンの匂いがあまり感じられなくなっているのだ、それはたぶんツキノも同じ。ツキノと死んだあの人との番契約は生きている。
相手が死んだのだから、別に番契約など破棄解除してしまえばいいのだけど、それには新たな番契約が必要だ。
ツキノが僕の項を噛んでくれさえすれば、僕達の間に番契約は成立する、けれど今のツキノにはそれができない……
「ツキノ、好きだよ」
僕の言葉に頷いて、ツキノは僕を抱きしめてくれたけれど、それは少しだけ悲しかった。




