そして……⑦
俺はユリ兄とノーアを養う為に、仕事を休む訳にはいかない。それまで、独り身で無駄遣いもせずに溜め込んでいた蓄えもある事はあるが、それだけでは心許ない俺は自分の身体に鞭打ってでも仕事に出掛けて行く。
そんな俺を彼はやはり何も言わず、何の表情も浮かべずに眺めている。
俺が仕事に出掛けている間、彼とその息子があの狭い部屋の中でどう過しているのか分からないのだが、ノーアは最近そこまで手の回らない俺の代わりに家事をしてくれるようになっていた。部屋の片付けも洗濯も溜まる一方で何も出来なくなっていたのだが、仕事から帰るとそんな殺伐としているはずの部屋の中がこざっぱりしている事が増えて、俺は少しだけ心の中が軽くなった。
「ありがとな、ノーア」
俺が礼を述べると、彼はふるふると首を横に振る。彼も彼なりにこちらに気を遣ってくれているのだ。
「ノーアの好物って何? 今日はお前の好きな物を作ってやるよ」
買ってきた食材を所定の位置に収めながらそう言うと、彼はやはりふるふると首を振った。
「んん? お前にだって好きな食い物くらいあるだろう? 遠慮しなくていいから、言え」
笑みを浮かべてノーアに問うと、彼は少し考え込むような仕草をしてから小さな声で「パンケーキ」とそう言った。ずいぶん可愛らしいご要望だ、けれどそれはとても普通な子供の好物だとそう思った。
「そうか分かった、パンケーキだな。ちょっと待ってろ、すぐに作ってやるからな」
材料は非常にシンプル、今日は食後のデザートにと買ってきた果物もある、きっと可愛らしいパンケーキが出来上がるはずだ。
フライパンの上にタネを置き、狐色の焦げ目が付いたあたりで部屋いっぱいに焼きたてのパンケーキの甘い匂いが広がった。そんな匂いに釣られてきたのか、ユリウスがのそりとキッチンへ姿を現した。彼はいつも用がなければ寝室に籠りきりの事が多いのに、こんな行動は珍しい。
「ずいぶん珍しいものを作っているな」
「急に食べたくなってね」
ノーアの為に作ったなどと彼に告げれば、きっとまた彼の機嫌が傾くだろう事は火を見るより明らかな事なので、俺は適当に誤魔化した。
パンケーキを皿に乗せ、脇にクリームと果物も添えてみた。食事というには軽すぎる、おやつのようなものだったが、ノーアはそれに瞳を輝かせた。
「ルーンにいる頃には、こういう簡単なのはよく母さんに手伝わされたよ」
俺の実家は宿屋兼食事処だ、昼間は軽食を提供していて、領主様の奥方様も友人を連れてよくお茶をしに来たものだった。
ユリウスは目の前に差し出されたパンケーキをじっと無言で見詰めている。ノーアは待ちきれないという表情で、こちらをちらちらと見上げるので「食べてもいいよ」と頷いた。
ノーアは嬉しそうにそれをはふはふと食べて行く、ユリウスは、それでも無言でその出来立てのパンケーキを見つめていた。
「パンケーキ、嫌いだった?」
「いや……」
「あ、足りないのは分かってるから、後でちゃんと食事は別に用意するから」
「別にそんな事は言っていない」
嫌いな訳でも、不満な訳でもなさそうな彼なのだが、彼はそれに手を付けない。熱々のパンケーキはクリームを溶かしていき、どんどん見栄えが悪くなる。食堂の息子としては、出来上がった作品はその見栄えも大事なので、美味しそうなうちに食べて欲しいんだけど、お腹減ってなかったのかな……?
「ユリ兄……? もし嫌なら無理して食べなくても……」
皿を下げようかと手を伸ばしたら「そんな事は言っていない」と再び言って、彼に腕を掴まれた。
「でもクリームも溶けて、べちゃべちゃだし、これは俺が食べるから」
「そんな事はしなくていい」
彼は、ナイフとフォークに手を伸ばして、パンケーキを切り分けた。そして、それを一切れ口の中に放り込み、しばらく咀嚼を続けると掌で顔を覆った。
「やっぱり不味かった? ごめん、ちゃんと綺麗なの、もう一度焼くからっ!」
彼は顔を掌で覆ったまま無言で首を横に振る。
「お前は本当にどこまでも……」
「え?」
机の上にぽつりと水滴がひとつ落ちた。それは立て続けにふたつみっつと続いて落ちて、彼が泣いているのだと気が付いた。
「ユリ兄……?」
「子供の頃、これは私の好物だった……兄弟達と取り合って、それはもう……」
なんと言葉を返していいか分からない、それは彼の幸せな記憶のうちのひとつなのだろう、俺はその頃の彼を知らない。俺は本当に彼の事を知らないのだ。
「俺、ユリ兄の好きな物なんでも作るよ! 好きな物言ってよ、俺、大概のモノは作れるはずだから!」
彼はまた首を振り「そんなモノ、思い出しても辛くなるだけだ」と零すように呟いた。結局彼はそれを綺麗に平らげ「ご馳走様」と手を合わせる。そんな彼の姿は珍しい。けれど、それは出会った頃の彼を思い出させた。
そんな事があってから少しずつだが、彼の様子は落ち着いていった。いつもぴりぴりと周りを警戒していたその警戒も薄れ、今度はぼんやり過す事が増えていった。
基本的に彼は部屋から出る事がない。いずれ黙って出て行ってしまうのではないかと不安を抱えていた俺は、そんな彼の腑抜けた姿を見ていてさえ、どこか安堵の気持ちを抱いていた。
けれど、心に燻ぶる小さな不安、彼の様子が落ち着くと同時に今度は彼が俺を抱く回数がめっきりと減っていったのだ。元々、薬物を止める為の代償行為でしかなかった行動だ、その禁断症状が治まれば、そんな風になる事も予想できていたのだが、俺はそれが不安で仕方がないのだ。
彼に求められる事が、俺の唯一の心の拠り所だった、彼に求められる事がなくなれば、彼にとってもう自分は必要のない人間だと突きつけられたも同然だ。
乱暴に行動を起すのはいつでも彼の方で、彼の方から何の手出しもして来ないとなると、俺は彼にどう接していいのかも分からなくなってしまった。
「今日は少し遅くなる、晩御飯作り置きしておいたから、ノーアと2人で食べて」
窓辺に佇み窓の外を眺める彼からの返事は何もない。彼の息子ノーアは俺を見上げて、こちらも何も言わずに頷いた。
思えば会話もほとんどない2人で、喋っているのは俺ばかり。
分かっていたはずだ、自分が辛くなるのは分かっていて彼等を引き止めたのに、俺はそんな生活に少し疲れていたのだと思う。
「おい、ノエル、顔色が悪いぞ、大丈夫か?」
同僚に声をかけられ、顔を上げたら目の前が真っ暗に歪んだ。それに自分で驚いている間もなく、身体から力が抜けて、どうやら俺はぶっ倒れたらしい。何故「らしい」なのかと言えば、視界が歪んだと同時に俺の意識は完全に飛んでしまったので、それは後に同僚から聞いた情報でしかないからだ。
目を覚ましたら、そこは見知らぬ部屋で、陽はもうとっぷり暮れていたし、なんなら時間も分からなくて戸惑った。ベッドから起き上がり、部屋を抜け出すと、その扉の向こう側には俺の父親と、その同居人が驚いたようにこちらを見やった。
「あぁ、ノエル、目が覚めたのか」
俺の父親、スタール・ダントンは少し安堵したような表情でそう言った。
「ここ、父さんの家だったんだ。ごめん、なんか迷惑かけた」
「迷惑とか言うな。普段父親らしい事なんて何もしていないんだから、こんな時くらい頼ってくれて構わない。お前、どうやら過労らしいぞ、そんな無理してたんなら、もっと早くに俺に言えばいいものを……」
俺の父親は俺の勤める第4騎士団の騎士団長だ。そして、俺の上司でもある。
「父さんの息子だからって、ズルはできないよ」
「ズルじゃねぇだろう、部下の管理も上司の仕事だ。部下の体調不良にも気付かないようじゃ、逆に俺の信用に関わるだろうが」
「あはは、そういう事なら、ごめんなさい。もう大丈夫だから……」
俺が父に笑顔を向けると、父の同居人は少しだけ困ったような表情で「まだ顔色が悪い」と、そう言った。父の同居人は第4騎士団の副団長のハリー・ブライト。こちらも俺の上司で、何も言われてはいないが、たぶん父の恋人だ。
「今日はもう遅いし、泊まっていけばいい。きっと疲れが溜まっているんだよ」
「そんな迷惑かけられないです」
「もう帰らなければ」と、首を振った俺に、ハリーさんは困ったような表情で「ノエル君、少しだけお話をしようか」と、そう言った。
話? 一体何を話そうというのか? それよりも俺は早く家に帰って、ちゃんとユリウスやノーアが家にいる事を確認したいのだ。彼等が我が家に暮らすようになって、俺は家を空けることがなくなった。それはいつ何時彼等が俺に黙って消えてしまうか、という不安がいつでも俺の心について回るからだ。
「聞いているよ、最近君はいつも直帰で、同僚と飲みにも行かないそうだね? 付き合いが悪くなったという話しは聞いていたんだけど、それは個人の自由だし、口出しはしてこなかったけど、もしかして家に誰かいるの?」
「…………」
「最近はナダール団長の娘さんからの差し入れも断っているという話を聞いたよ、君ももう成人した大人だし、もし同棲している彼女なりいるのなら、それでもいいんだ、だけど、ここしばらく君が怪我をしている事が増えたって話も聞いていてね……しかも今回のコレだろ? もし、何かあるんだったら……」
「無いですよ、別に。最近ちょっと食欲無くて、不摂生してたから、たぶんそれだけです」
「本当に?」
瞳を覗き込むように問いかけられて、つい瞳をそらした。ユリウスは現在三国から追われる身だ、彼の存在を彼等に知られる訳にはいかないのだ。
「ハリー、その辺にしておけ。男には隠しておきたい事のひとつやふたつはあるもんだ、余計な詮索はするもんじゃねぇ」
「ですが……」
「まぁ、帰るって言うんなら送っていこう、帰り道でまたぶっ倒れられたりしたら困るからな」
「もう大丈夫だよ」
「たまには父親らしい事させろって言ってんだよ、行くぞ、ノエル」
先に立って歩き出す父の後を、俺は慌てて追って行く。
「別に大丈夫だって言ってるのに!」
「弱っている時の人間の『大丈夫』ほど、あてにならないものはねぇ」
「父さん……」
「本当に送るだけだから、心配すんな」
そんな風に言って父は本当に一切の詮索もせずに、夜道を2人で歩いた。よく考えたら、父とこんな風に肩を並べて歩いたのなんて、今回が初めてなのではないだろうか?
「お前も本当にすくすく大きくなったよな、初めて会った時にはまだこんなもんだったのに」
父はそう言って、自分の胸元辺りを指差して、懐かしむようにそう言った。同世代の子供達より成長が早かった俺は父さんと初めて会った時から既にずいぶん大きな子供だった。
現在では本当に父の言う通りすくすく成長して、父とそう大差のない体格にまで育っている。
「体格の割りに大人しそうな所は俺にあまり似なかったな。性格はじいさん譲りか。まぁ、そうだよなぁ、俺はお前と一緒に暮らした事すらないんだから」
子供がいる事すら知らなかった父が、俺を自分の子供だと認識したのは俺が12歳の頃だった。月日はあっという間に過ぎて、今ではなんとなく親子である事をお互いの中で処理できるようになったが、最初のうちはお互いどう接していいのかも分からずに戸惑ったものだ。
「俺、じいちゃん程性格悪くないよ」
「はは、ちげぇねぇ」
父は笑っている。本来ならば自分の許可も無く母が産み落とした俺の事なんて、赤の他人だと無視してもいいはずなのに、彼は最初から俺を受け入れ笑っていた。不思議な人だと俺は思う。
「なぁ、ノエル。何か悩み事があるなら遠慮せずに言うんだぞ? これでも一応俺はお前の父親だからな」
「なんで父さんはそんなに素直に俺を受け入れられたんだろう? 世の中には自分の子供だって分かっていても子供に辛く当たる親だっているのに……」
「ん? あぁ……俺は知っての通り子供を孕ませる機能がぶっ壊れた人間だからな、まさかこんな形で子供を授かるとは思っていなかったが、やっぱり諦めていた物を与えられたのは普通に嬉しかったんだよな。まぁ、やり方には問題は大有りだが、あの女も嫌いじゃなかったし」
「だけど、父さんは母さんを選ばなかったんだね」
俺の言葉に父は苦笑して「もれなくじいさんが付いてくるしな……」と呟いた。
「それに俺は誰とも一緒になるつもりはねぇよ。俺は誰も幸せに出来ない人間だって分かっているからな」
「え……でも、副団長は……?」
「お前もあいつを俺の連れ合いだと思ってる口か、ははは、俺とあいつはそんなんじゃねぇよ。一緒にいて楽だから一緒にいるだけで、抱き合いもしてなけりゃ、キスのひとつもした事ねぇよ」
「え……そうなんだ」
意外な言葉に俺は驚きが隠せない。先程の2人の様子もそうだったが、まるで長年連れ添った熟年夫婦のような空気を醸し出しておきながらの、まさかのプラトニック。正直意外だ。
「まぁ、そんな空気になった事もなくはないが、それでも俺の息子は役立たずだし、あいつはそもそもそんなモノを俺に求めちゃいねぇ。自分で言うのもなんだが、あいつが俺に求めているのは男としての理想像だ。俺が格好良く居続ける為に、あいつは俺の側に居る」
「えぇ、よく分からないよ……」
「はは、俺もよく分からんが、あいつは俺のようになりたいから頑張っているらしいからな、その理想を崩さないように俺もせいぜい頑張らないとなって感じだ」
「でもそれって、理想の押し付けだよね?」
「まぁ、言われちまえばその通りだが、あいつは俺の駄目な所もまるっと含めて理想だって言ってんだから、別に嫌がる必要もないだろう?」
それは本当に憧れだけの感情なのだろうか? そういう部分も含めて好意を抱いているのだと言うのだったら、それはもう恋愛感情ではないのだろうか?
「はは、難しく考えるな。俺達はこの関係がお互いしっくりきてるから一緒にいるってそれだけの話だからな」
不思議な関係、でもそう思った時に、だったら自分達はどうなのだろう? と小さな疑問が頭の隅を掠めた。




