恋慕①
僕達は今人生の岐路に立たされているのだと思う。どの道を選択するのが正しくて、どの道を選ぶのが間違っているのか今の僕達にはよく分からない。だけど、ただひとつだけ分かっているのは僕はツキノが好きだという事だけ。
「ねぇ、ツキノ、そっちに行ってもいい?」
僕達はナダールおじさんの家でそのまま夜を迎えていた。僕達の家に帰るのはまだ危険だという判断だ。
アジェおじさんとエドワード伯父さんが、自分達の泊まる宿屋に来ればいいと誘ってくれたのだが、今日は生憎宿屋が満室で、僕達がそちらに移動するのは明日からという事に決定した。
客室にあるベッドはふたつ、グノーさんは女の子だと思っているツキノを娘のルイと一緒に寝かせるつもりだったようなのだが、そこは適当に誤魔化して僕達は同じ部屋に通された。
最初にツキノを彼女だと言っておいたので「怖い目にあったしな、彼氏と一緒にいた方が安心か? でもツキノ、絶対彼女に手は出すなよ」と釘を刺された。
よそのお宅の娘さんに不埒な行いは許さないと、冗談っぽく言われはしたのだが、その瞳は本気の瞳だったので僕は「絶対しない」と頷いた。
「さっき母さんに手は出すなって言われてたじゃん」
掛け布団に包まったままツキノはくすくすと笑みを零す。
「だって、1人で寝るの久しぶりすぎて寝れる気がしないよ。腕が寂しい」
「久しぶりに広いベッドで寝られると思ったのに」
「ツキノはそんな事言うんだ、ツキノだって絶対僕と同じだろ!」
「でも……慣れなきゃ駄目だろ」
ツキノはそう言って寝返りをうち天井を見上げ、両手を上に伸ばした。
「ツキノ、何してるの?」
「俺の手は小さいなぁ……って。歳を重ねて大きくなったら、この手でなんでも掴めると思ってた、でも人生ってそんなに簡単じゃないんだなって、そう思って……」
そんなツキノの姿を見て、僕はむくりと起き上がる。
「やっぱりそっち行っていい?」
「だから駄目だって言ってるのに。襲うぞ?」
ツキノの言葉に僕は驚いて目をしばたかせる。
「母さんは手を出すなって言う人間を間違ってるよな。むしろお前に手を出すのは俺の方だ」
「嘘ばっかり、ツキノはそんな事できないくせに」
「できるよ」
ツキノが真っ直ぐこちらを向き「今ならできる」とはっきり僕にそう告げた。
「お前を俺だけの物にするんだ、他の誰にも渡さない。渡したくない、俺は今、そう思ってる」
「だったら……今、僕を抱いてよ」
暗闇の中、落ちる沈黙。ツキノは「駄目だ」とそう言った。
「やっぱり嘘じゃん、できもしない事言わないでよ、期待した僕が馬鹿みたいだ」
「お前は分かってない」
「分かってないのはどっちだよ、僕の心弄んでそんなに楽しい?」
「違う、カイト」
「違わない」
僕がベッドの上で膝を抱えて瞳を伏せると、ツキノはむくりと起き上がりベッドを抜け出し、僕の傍らへとやって来た。彼はベッドの端に腰掛けると、僕に身を預けるようにして「本当に違うんだよ、カイト」と呟いた。
「よく考えろカイト、俺は現在生理中でな、事に及ぼうと思ったらこのベッドの上は大惨事だぞ」
「…………」
そんな現実考えたくなかったなと思ったのだが、確かにツキノの言う通りだ、それはよくない、大変よくない。
「タイミング悪い! もっと早くその気になってくれたら良かったのに!」
僕は思わず枕を掴んでツキノに向かって叩きつける。その枕を避けるようにして「仕方ないだろ、俺だって困ってる」とツキノは不満顔で呟いた。
「だったらせめて噛んで、僕の項噛んで!」
「やりながらじゃないと番契約は成立しないぞ?」
「それでもいいよ、噛んで!」
「でも、カイト……」
「やっぱり嫌なの!? どうせできないんだろ!」
「いや、そうじゃなくて、お前チョーカーの鍵は?」
僕はがくりと肩を落とし「家だよ、馬鹿ぁぁぁっ」と思わず叫んでしまった。
「やっぱり今日は無理だな」
「僕、家帰って鍵取ってくる」
「馬鹿か、危ない真似すんな」
「だって、せっかくツキノがその気になってくれたのに……」
不満たらたらの僕に「焦らなくても大丈夫だから」とツキノはベッドに乗り上げ僕の頭を抱き締めてくれた。ツキノの体からはいつでも凄くいい匂いがする。今日はそれがいっそう薫って僕はツキノの胸に顔を埋めた。
「ねぇ、ツキノ、ひとつ提案なんだけど、僕がツキノの項を噛むのは駄目?」
「は? それ全く意味なくない?」
「なくない!」
「でも、オメガがアルファの項を噛んでも番契約はされないぞ?」
「でも、ツキノが僕のだって主張にはなるよ!」
中腰で僕に跨るようにして僕の頭を抱いていてくれたツキノの腰を抱き寄せて、僕はぐりぐりとツキノの胸に顔を押し付ける。
「もう、カイトそれ止めろ。お前最近力ついてきてるから、意外と苦しいんだぞ」
「あ、ごめん」
僕が腕を緩めると、ツキノはすとんと座り込み、自身の髪を持ち上げた。長い黒髪のウィッグは付けたままのツキノ、その誘うような仕草にドキッとした。
「いいよ、カイト。噛みたかったら噛めばいい」
見せられた首筋は黒髪とは対照的に驚くほどに白かった。しかも細い、僕は思わず息をのむ。
「ホントにいいの?」
「嫌がる必要がないだろう?」
差し出された首筋に指を這わせると「んっ……」とツキノが微かに吐息を零し、僕はもうそれだけで頭に血が上ってしまう。
月光に浮かび上がるツキノの姿は扇情的で、僕はその首筋に遠慮もなく歯を立てた。
「っく……痛っ……」
ツキノの身体がびくりと跳ねる、けれど僕はその身体を離す事ができない。口の中には錆びた鉄のような味が広がるのだけど、それすらも甘く感じる僕はその流れ出す血を舐め上げた。
「カイト、加減しろよな」
僕は無言で頷くのだけど、その頷きに反して何度も何度もそこに歯を立てる。僕はツキノを手に入れた、いや、正式には手に入った訳ではない。けれど、ツキノに僕を刻み付ける事ができた喜びで、僕は泣いてしまいそうだった。
「もう! カイト、痛いって! 加減しろって言ってるだろ!」
何度目かに齧りつくと、さすがにツキノにキレられ、頭を叩かれた。
「なんかヤバイ、これ物凄く癖になる。口寂しい、ヤバイ」
「お前、大丈夫か? 俺、お前に食い殺されるのは嫌だぞ?」
「食べないよ。あぁ、でもツキノめっちゃ美味しそう……」
なんだろう、ツキノが少しだけ引いたような顔してる。
「今日はここまで、お前やりすぎだ」
「止まる訳ないだろう! 若者の性欲舐めないでよ!」
「だから、今やったらベッドの上、大惨事だって言ってるだろ!」
「触るだけ! 触るだけならいいだろう!」
ひたすらに食い下がる僕をツキノは呆れたように見ているのだけど、ツキノだって同い年だよね?この滾る性欲分かるよねぇ!? それともやっぱりアルファってオメガほど性欲ないのかな?
ツキノの匂いが僕の感情を高ぶらせる、ツキノはツキノで「お前、それは反則だろ」と呟いて僕の肩口に顔を埋めたので、もしかしたら僕の匂いもツキノに刺激を与えているのかもしれない。
ツキノはあの事件以来僕のこの甘い匂いにも拒否反応を示していた、けれど今のツキノは違う、少し潤んだような瞳で僕を見上げたツキノの顔にも色が浮かんでいて、僕は彼を押し倒した。
「お前、何する気……?」
「触るだけって、言ってるだろ」
本当はそんな所で止まれる気は全くしないのだけど。
「カイト、駄目っ」
「なんで!? ツキノだって僕を欲しがってる!」
「でも、駄目だ、ここじゃ駄目っ、抑えが効かないから……」
ふいにツキノのフェロモンの薫りが部屋中に広がって、僕の身体を拘束する。今朝、イグサルさんの従兄弟だと言っていたあの男が披露したフェロモンの発露とは比べ物にならない程に濃厚なその薫りは更に僕の思考を縛り付ける。
その時、部屋の外で盛大に扉を開閉する音と、ばたばたと派手な足音が聞こえ「え?」と驚いている間に、客間の扉がやはり派手な音を立てて開いた。僕はツキノを押し倒したまま硬直して、その音を発している主を見上げる。
「ツ~キ~ノ!! お前は! 娘さんに手を出すなって言っただろう!」
仁王立ちのグノーさん、あぁ……これマジギレのやつだ……
「まぁまぁ、グノーも落ち付いて」
「これが落ち着いていられるか! 同意の上ならともかく、アルファのフェロモンでオメガの娘さんを抑えつけるとか、最低だろ! うちの子はそんな野蛮な人間に育てた覚えはない!」
あれ……?
「でも、最初のうちはちゃんと同意でしたし」
グノーさんの後から彼を追うようにやって来たナダールおじさんは慌てたように彼を止めているのだけど、なんだか言ってる事がおかしい……?
って言うか、何だろう? もしかしてバレてた? いちゃいちゃしてたのめっちゃバレてた?
びっくりしている僕にツキノは少し呆れたように「あの人達すごく鼻が利くの知ってるだろ、バレるに決まってる。だから駄目だって言ったのに」とそう呟いて、僕の腕から逃げ出した。
そういう事は早く言ってよ! しかもこれ絶対僕がアルファのフェロモンでツキノに性行為強要してたって思われてるやつじゃん! 違うし! 強要してないし! あぁ、でも押し倒してたのは事実だから否定しづらい……
「あの……大丈夫なんで、ごめんなさい。ツキノを怒らないで」
ツキノが俯き加減に小さな声でそう言うと、暴れていたグノーさんがぴたりと止まる。
「本当に大丈夫か? 嫌な時は嫌だって断ったっていいんだ、きっちり躾けるのは大事だぞ!」
「嫌じゃなかったので、大丈夫です」
やはり俯きがちに言うツキノの姿はどう見ても恥らう乙女にしか見えなくて、ツキノの演技力に感服してしまう。ツキノは『自分は男だ!』と言い続けてるけど、意外と女の子でも全然いけるんじゃないのかな?
「あぁ……もう、分かった」と困ったように自身の髪を掻き混ぜるグノーさんに、もう一度ツキノはぺこりと頭を下げるのだが、その拍子にツキノの首筋が見えたのだろう、そこにはっきりとした僕の噛み跡を見付けたのだろうグノーさんはまた表情を険しくさせてこちらを見やった。
ヤバイ、本気で怖い……
今まで僕はここデルクマン家では言いつけを守るいい子で通ってきているので、こんな本気の怒りを見せられた事がない僕は震え上がる。こういうのはツキノの専売特許で、叱られたツキノを慰める役しかした事がない僕は、もうどうしていいか分からない。
「ツ~キ~ノ? お前はちょっとこっちに来い」
表情はなにやら笑っているようにも見えるのだけど、瞳だけは全く笑っていない。
「グノー、穏便に、穏便にですよ……」
ナダールおじさんも宥めすかしてくれているのだが、グノーさんの怒りは静まる様子もなく、気が付けば部屋の扉の向こうではルイ姉さんとユリウス兄さんが、何故か笑いを堪えているような顔でこちらの部屋を覗き込んでいた。
これ、笑い事じゃないから! ホント助けて!
「もう、母さんその辺にしたら? ヒナちゃんが怖がってるわよ」
「だけどな! こういうのは、ちゃんと順を追って手順を踏んでやる事であって、こういうのは……!」
「私達の時も順番は逆でしたよ、グノー……」
「あら、そうだったの? 初耳」
「うあっ、お前! 何さりげなく子供にとんでもない事をっ!」
「最初の一回でルイができてしまって、その時はまだ恋人関係ですらなかったので、色々大変でしたよね」
「ちょ……ナダール!」
慌てたようにグノーさんがナダールおじさんの口を塞ぐ。
「あら、そうだったの? 恋人関係ですらなかったって、凄いわね。どんな感じだったのか興味あるわぁ、今後の参考になるかしら?」
「特殊な状況だったので、参考になるかどうかは……」
「ナダールっ! もう! お前黙れっ!!」
真っ赤な顔のグノーさんはナダールおじさんの口を更に両手で塞ぎ、ルイ姉さんはこちらにウィンクを投げて寄越した。
あ・話逸らしてくれたんだ、助かった~
「ヒナちゃん、こっちにいらっしゃい。傷薬塗ってあげる、さすがにこれはやり過ぎだわね」
ルイ姉さんはツキノの首筋を覗き込むと、そう言ってツキノの手を引いて部屋を出て行ってしまった。僕は1人部屋に取り残される。
あれ? もしかして、助かってない……?
「ですが、やはりこういう事はお互いの同意が必要ですからね、無理強いは駄目ですよ」
何故かグノーさんじゃなくてナダールおじさんにやんわり説教をされる。
これあれだね、最初に僕から誘ったの分かってて言ってるよね、そうだよね。まさかフェロモンひとつでここまで駄々漏れになるとは思わなかった僕は「はい」と神妙な顔で頷いた。




